さよならユキウサギ(上)
「ユキウサギはおいてきた」 そう言い放った子供は、ガラス玉のように透明な眼で男を見上げていた。 いつも抱えていた白うさぎのぬいぐるみはその腕になく、代わりに右手には赤い雫の滴る刀。 「白は、汚れてしまうから」 その言葉通り、子供の白い髪は、すでに鮮血に濡れていた。 男は、王であり、また反逆者でもあった。 彼を慕う多くの者たちにとって、彼は間違いなく王であり、一方で彼を忌み嫌う者たちからすれば、彼は憎むべき反逆者だった。 そんな彼が子供を拾ったのは、偶然であり、気紛れだった。 全てを失いながら、全てを奪った相手を倒す力を求めるその眼が気に入ったという、ただそれだけ。 だから男は子供に、子供が望む力を与えた。 子供に剣を教え、知略を教え、策謀を教えた。 敵を殺す、そのための力を。 とはいえ、男が子供に与えたのは、そんな殺伐としたモノばかりではなかった。 子供に似合いそうだから、という理由で、白い髪によく映える緋色の衣装を調えたり。 琴だの書だの舞だのを仕込んだり。 そして――子供だから、という理由で。 大きな大きな、白うさぎのぬいぐるみを、与えたり。 子供がその大きさに驚いて(実際、そのぬいぐるみは、子供の身長の半分以上は確実にあったので)目をぱちぱちさせるのを、男は仲間たちと共に笑って眺めていた。 単刀直入に、そのうさぎを“ウサギ”と名付けようとした子供を、仲間の一人が「それは生まれた赤ん坊に、“ニンゲン”と名付けるようなものだ」と止めるのには、指でさして爆笑した。 結局、子供はそのうさぎのぬいぐるみに“ユキウサギ”という名を付けていた。最初のそのままな名よりは幾分かましだろう。しかし、どうしてその名にしたのか、と聞くと、子供は「真っ白くて、目が赤いから」と答えた。 ほほえましいような、でもどこか切ないような気持ちを覚えて。 ただ、笑って頭を撫ぜることしかできなかった自分を、男は覚えている。 それ以来、状況の許す限り、子供はいつも“ユキウサギ”をその手に抱いていた。 状況の、許す限りは。 今、子供の手に、“ユキウサギ”の姿はない。 ぽた、ぽた、と。 目から見える光景に、滴る雫の音を感じて、らしくもなく男は背筋をぞくりとさせた。 気のせいだ。この戦場の騒がしさで、そんな瑣末な音が聴こえるはずがない。 そう、ここは戦場なのだ。殺戮と狂気に満ちた場所。 そこを掻い潜って男のもとに辿り着くまでに、子供はどれほどの血を見てきたのだろう。 こんなところに子供を連れてくるつもりは、男にはなかった。 いや、そもそも置いてきたはず、だったのだ。 おそらくは、後発の第二陣に付いてきてしまったのだろう。 だが、しかし。そんな推察はしてみても。 正直に言おう。男は想像もしていなかったのだ。 いくら復讐を誓ったとはいえ、子供に、本当に人を殺める覚悟がある、などと。 「お前……」 口を開いた、その時。男の背後から敵が斬りかかってきた。 言葉を途切らせ、けれどなんなく相手を斬り伏せて。男は改めて、子供に向き直った。 そう、ここは戦場で――今もまだ、戦場なのだ。 「ここは確かに、お前の仇と繋がっている場所だ」 ゆっくりと、子供に語りかける。 戦場の騒音に負けぬよう、確実に子供に届くよう。 「うん、知ってる」 子供の声は、やけにはっきりと男のもとに届いた。 その間にも斬りかかってくる敵を、男は器用に斬り捨てる。 「だが、ここにはお前の仇はいない」 ことさら、残酷に聞こえるように、ただ淡々と男は事実を告げた。 この戦場の、戦いの糸を引いているのは、確かに子供から全てを奪った人間だ。 しかし、その相手はこの場所にはいない。どこか遠くで戦況を観察しているだけ。 「お前がここで剣を振るっても、何の復讐にもなりはしない。 それはただの、人殺しだ」 「わかってる」 男の言葉を遮ったのは、今度は子供の声だった。 その声はさっきと同じに、はっきりと男に届いたが。 男がその声の意味するところを理解するのには、わずかに時が必要だった。 「わかっているから。勘違いしないで。殺すために来たんじゃ、ないから」 襲い掛かってきた敵を、今度は子供が斬り捨てる。空にぱっと、赤い華が散る。 「失くしたく、ないから」 その赤を浴びながら、そう、子供は言った。 「もう、大事なもの、失くしたくないから、ここに来たんだ。私の力で、少しでも、守れるならって」 復讐のためではないと、そう、子供は語った。 「そうか……」 男は大きく刀を振るうと、血飛沫を払った。 「でも、これだけは覚えておけ」 失くしたくないから、剣をとった。子供の語った理由は、男にも覚えのある感情だった。 けれど、男は子供に一つだけ、絶対に教えなければならないことがあった。 それが、子供に剣をとるという選択肢を与えた男の責任であった。 「これでお前も、『人殺し』だ。 殺した人間の命、殺した人間を大事に思う者の憎しみ。 その全てを背負って生きていくのが、お前の義務だ」 「……わかってる」 小さく言った子供を確認して、男はにっと笑うと刀を持っていない方の手で、子供の頭を軽く撫でた。血に汚れた手は、子供の白い髪をさらに汚してしまったけれど。その汚れは、もとからの血色に紛れて、あまり目立たず。 「なら、行くぞ」 俺たちは、生き延びなければならないんだ。 こくりと頷いて、刀を持ち直した子供を見て。 男は初めて、偶然と気紛れでこの子供を、他でもない己が拾ってしまったことを、ほんの少しだけ後悔した。 子供の手に似合うのは、血塗れた刀ではなく、あの白うさぎのぬいぐるみだったろうに。
|