四月十八日(日曜日)









「きっと、あたしはもう一度、きみの前に現れるわ」
「でも、それは今の君じゃなくて、しかも僕は君を忘れてる。……そうだったよね」
「そうよ。でも、きっとあたしはまた、きみに恋をするわ。絶対よ。だってきみが相手なんだもの」
 だから――と少女が笑う。満開の桜のような、彼の好きなあの笑顔で。
「だから、あたしを思い出してね。絶対絶対、あたしを思い出して」
 約束よ、と差し出された小指に、迷うことなく自分の小指を絡める。未来になっても、約束をする時のこの決まりごとは健在らしい。
「約束する。何度君を忘れたって、僕は絶対君を思い出すから」
「うん――待ってる、から」
 そうしてまた、二人で笑いあって。

 ***

 携帯電話が聞きなれたメロディを流し出して。手探りで枕元にあるはずの携帯を――というか、音の発生源を探して。電源ボタンをぷちりと押せば、音は止まった。そこでようやく観念して、楠本ナオはのそりとベッドから起き上がった。
 昨日は夜まで目いっぱいバイトを入れていて。疲れきって一人暮らしの部屋に戻ってシャワーだけ浴びて。ばたりとベッドに倒れて目を閉じて、開けたらもう朝だった。かなり疲れが溜まっていたらしい。夢も見なかった。
 昨日は土曜日で、今日は日曜日だ。予定は入っていない。さっきアラームを切るだけ切った携帯を、もう一度開いて確認してみたが、特に連絡――主に、合コンとか飲み会とかの迷惑を押しつけてくる悪友からの――も入っていない。溜まっていた課題は、この前の金曜が提出期限でそれも終わっている。ということは、丸一日好きに使えるわけだ。
 とりあえず、顔を洗って歯ァ磨いて、なんか食おう。軽く伸びをしてから、ナオは。ベッドから下りて洗面台に向かった。



 高校時代にバイトで稼いだ金で買ったデジタルカメラ。を、首から下げて。ナオはアパート近くの川沿いの遊歩道を歩いていた。道に沿って植えられている桜並木は、もうすっかり散ってしまって赤茶色。もう少ししたら、葉桜が綺麗だろう。毛虫もすごいだろうけど。
 今日の天気は薄曇り。たぶん、午後には雨が降ってくる。四月もそろそろ下旬だけど、肌寒い。だからかどうかはわからないけれど、遊歩道にはナオ以外の人影はなかった。
 かしゃり。
 薄いグレーの空を背景に、赤い花がらが残る灰茶色の枝を一枚。満開の頃とはまた違った絵が撮れる。
 今月の初め、まだ桜が満開の頃。ナオが撮ったこの桜並木の写真は、通っている専門学校の先生からもなかなかの評価を貰えた。撮った時はイマイチだと思ったのか、プリントすらしてなかったデータをみつけて、その桜吹雪が現れた時――自分で撮った写真なのに、ナオは息を呑んだ。
 今まで撮ってきた中では一番の出来。なので、この桜並木の一年を追って、連作のようにしたいというのが目下のナオの計画だ。
 赤い花がらも散って、葉桜になって。茂った葉はやがて紅葉し、それも散って冬景色になる。雪が積もれば、それもいい。そして、また新しい花の蕾が膨らむまでを追っていけたら。
 ……とはいっても、それはやっぱり理想で。今のところ、春の満開の花を撮ったモノと同じ、あるいはそれ以上のレベルのモノは撮れていないのが現状だった。

 あれは、奇跡みたいな一枚だった。あんな綺麗な桜は見たことがなかった。それをほとんど自分が見たままカタチで、自分が受けた印象のままで、画像に残せたのも、やっぱり奇跡みたいなモノだった。
 今でも、目の裏にはっきりとあの桜吹雪を浮かべることができる。
 強く吹いた風、視界一面、桜色に染まって。一枚一枚の花びらが、まるで一つのイキモノのようにうねって、空に駆けて行くようで。その一瞬一瞬を見逃したくなくて、必死でシャッターを押した。それでもいつしか、カメラを持つ手は力なく垂れてしまって。ファインダー越しではなく、自分の目で、ただただ桜の渦を見つめていた。見惚れていた。
 でも。
 最後の最後、風が止む、ほんの少しの手前――もう一度、もう一度だけ、カメラを構え、シャッターを押した。
 それが、あの一枚だった。

 目の前に掲げていたカメラを下して。ナオはもう一度、ファインダー越しでなく目の前の桜の枝を見上げて。次に今撮ったばかりの画像を確認する。
 後できちんとプリントしないとわからないけれど……やっぱり、あの桜吹雪と張り合えるだけの写真は、撮れていない。
 曲がりなりにも写真家を目指す者の端くれとして、ナオはこの世界には「神懸かる」瞬間というモノがあると思っている。自分ではない何かが、自分を通して、「神懸かった」作品を創り上げる。そうしたことが、実際、ある。あった。
 先輩や先生、同級生からそんな話を聞くこともあって、自分でも何度かコレがそうかと思える作品が撮れたことはあった。けど。
 あの桜の写真は、別格だった。
 あれと同じレベルのものがまた撮れるか、撮れないか。たぶんココが、ナオの写真人生の分岐点、な気がする。
 まあ、それもずっと後になってしまったら、ただの錯覚になるのかもしれないけれど。
 そんな人生のなんたらというあたりに思いを馳せかけたところで、ナオの携帯が着信を告げた。ちょっといいところを邪魔された気分で眉を顰めて、取り出した携帯のディスプレイを確認する。表示されてたのは、例の悪友の名前だった。
「――もしもし」
『よお楠本。今日ヒマ?』
「ヒマじゃない」
 悪友と書いて、飯塚アキラと読む。高校からの付き合いで、上京してきた今は都内の大学の数学科に通っている。進路は別れたものの、お互いの学校の場所は近い。ので、今もしょっちゅうつるんでいる。
『どーせまた、一人さびしーく写真撮ってんだろ』
「一人だけどさびしーくじゃねえよ。ほっとけ」
『またまた。んなことより、今夜はヒマか?』
「飲み会なら行かねーぞ。金ねえもん」
『まあそんなこと言わず。給料出たんだろー?』
「ま・だ・だ。だいたい、お前主催の飲み会って最終的に僕が酔っ払いの面倒見る羽目になるんじゃないか。めんどいとこ押しつけやがって」
『持つべき者は酒の強いダチってね。だから来いよ、一人の夜はさみしーだろーが』
「だーからさみしくねーし、お前に心配されるいわれは……」
 アキラへの苦情が、そこで途切れた。
『楠本?』
 アキラへの返事も忘れ。携帯を耳に押しあてたまま、ナオは目に入ってしまった光景の方に恐る恐る近づいて行った。
 遊歩道の桜並木側。どこにでもありそうな、ごく普通のマンホール。その蓋が、がたん、と音を立てて内側から外される現場を目撃してしまったので。
『おい、楠本? どうかしたか?』
「いや……」
 上の空で答えながら、ナオはマンホールに近づいていった。
 と。
 マンホールの内側から、白い手が蓋を押しやって隙間を広げた。ぎょっとしてナオは半歩下がった。白い手からすると、マンホールの蓋はちょっと重いようで、がたがたと不格好な音を立てながら、三、四回押して押して、ようやく目的の広さまで隙間が開いたらしい、ところで。
 にょき、と女の子の頭が、その隙間から出てきた。
「ひっ!?」
 文字通り、比喩でもなんでもなく飛び上がったナオの目の前で。「よいしょ」と掛け声をかけながら、女の子の全身が這い出てきた。白いブラウスに赤のチェックのジャンパースカート。ちょっと大きめの茶色いポシェットを肩にかけて、足元はやっぱり白いフリル付きの靴下と赤いエナメルのバレリーナシューズ。
 道路に全身這い上がり、座りこんだままマンホールの蓋を閉めようと手をかけたところで。はた、とナオと彼女の目が合った。やたら長い、黒い髪、とそれより少しだけ茶っぽい眼。と、ナオの黒っぽい眼が、しばし無言で見つめ合う。

『………………………………』

『おーい、楠本ー? まじでどうしたー?』
 携帯から漏れてくる、アキラの声が耳にうるさい。
 そのまま、少女は座ったままで、ナオは少し離れたところで立ち尽くしたまま固まっていたけれど。ふと、少女の方が動いた。俯いて、ポシェットの中をごそごそ探り出す。しばらくして、目的のモノをみつけたのか、彼女はポシェットの中から何かを取り出した。
 何かというか――携帯電話、だったけど。
 彼女はぽちぽちそれを操作してから画面をじっと見つめて――今度は、ナオの顔をまじまじと見つめてきた。そして、今度は携帯とナオの顔を何度か見比べて。
「……楠本、ナオ?」
「そう、だけど」
「………………マジ?」
「え、あ、うん」
 耳に心地よいメゾソプラノで念を押されて。ナオはとりあえずこくこく頷く。ナオが楠本ナオだというのは、これは紛れもない事実だし。
 少女は今度はしばらく難しい顔をして。やがてしっぶい顔で呻いた。
「……サイアク」
「……は?」
 唖然としたナオの手の中で。まだ携帯が『楠本ー?』とめげずに声を上げていた。



「飯塚アリス」
「は?」
「あたしの名前。……ふーん、やっぱり反応なしか」
 はあ、と曖昧に頷きながら、名字だけはあの悪友と同じだなーと考えて。ナオは目の前で不機嫌そうに頬杖をつく少女を窺いながら、さっき買った珈琲を一口飲んだ。ちなみに、アキラからの電話はもう切っている。それどころじゃないので。
 あの後。こんな寒いところで立ち話もなんだし、と言う少女によって。ナオは現在、半ば強引に遊歩道を上がっていった先にあるチェーンのコーヒーショップに連れ込まれている。
 少女――飯塚アリスはというと、黒糖ラテの中身をぐるぐるスプーンでかき混ぜながら眉間に皺を寄せている。
「あの……僕のこと、知ってんの?」
「そこがビミョウなのよね」
 恐る恐る切り出したナオに返されたのは、ため息混じりの意味不明な答え。
「あたしはきみのこと、知らないのよ。でも、きみはあたしを知ってるらしいわ――今のあたしじゃなくて、未来のあたしを」
「は?」
 何言ってんだコイツ。そう思ったのが露骨に顔に出ていたのか、アリスは非常に嫌そうな表情で付け足した。
「わかってるわよ、怪しい宗教の勧誘とかじゃないから安心して。……この時代は、そういうのがあるんでしょ?」
「はあ? あの、あのさ、ちょっと待って。ちょっと頭整理させて」
 ますますわけのわからないことを言い出したアリスに、ナオはこめかみに指を当てつつストップを入れた。ちょっと整理しないと付いていけなそう。
「えと、まず、僕は君を知ってる?」
「そう」
「……ぶっちゃけ、覚えてないんだけど。どこで会ったっけ?」
「覚えてなくて当然よ。そういう規則なんだから」
「規則って何。つーか、ほんとの本気で一番最初から説明し直してマジで」
「ああもう! なんであたしがこんなとこから説明しなきゃなんないのよ、渡航局の職務怠慢じゃないのコレ!?」
「って僕にキレられても!?」
 怒りだしたアリスに慌てたナオだったが、アリスの癇癪はすぐ収まったようで(機嫌もよくなった、ようには見えない)素早く辺りを窺う。そろそろ昼時なこともあって、コーヒーショップはそこそこ混雑している。現に、ナオとアリスの両隣の席も埋まっていて、右側ではスーツ姿の中年男性が携帯をいじっていて、左側では女の子四人がかしましくお喋りしている。アリスは椅子の背にかけていたポシェットから、小さくて平たい丸いモノを取り出すと、テーブルの上に置いた。表面にぶさ可愛い白ウサギがプリントされている。
「……何、ソレ?」
「あ、コレもない時代か。TSS――Talking Security Systemよ。ようするに、コレを動かしとくと、周りにはあたしたちの喋ってる内容が伝わらなくなるの」
 当たり前のように説明するアリスに、ナオの頭の中でさっきから何度か浮かんできている可能性がまた浮上してくる。未来だとか、ヘンな装置を出してきたりとか。よく漫画でありそうなシチュエーション。
 いやいやいや、そんなことはないでしょう。SFとか、ライトノベルとか、そういうのじゃないんだから、現実っていうモノは。
「まあ、まず最初のところから言っちゃうと……あたしは、きみたちの言うところの未来から来たんだけど」
「……は?」
 事実は小説より奇なり、というか。現実っていうモノは、時にサプライズも用意しているみたいだった。って、ちょっと待て。
「あのさ、怪しい宗教の勧誘じゃないっていうなら、そういう話はしない方がいいと思うよ?」
 そんな話をたやすく信じるほど夢見がちではなくなってしまっているので。一応、忠告してみる。アリスの顔が、わかりやすくむくれた。
「信じないってくらいは想定内よ」
 というわりには不満そうな顔をしている。と指摘するのはやめておいた。またキレられそうで怖い。とか考えていたナオだったが。
「楠本ナオ、一九九一年五月三十一日生まれ、O型。二〇〇九年四月、東京の芸術専門学校写真コースに入学するために上京し、二〇一〇年四月現在は一人暮らし中。両親、特に父親からは写真の道に進むことを反対されており、アパートの家賃は払ってもらっているものの、学費と生活費はアルバイトで稼いでいる」
「ちょっと待て! どこで調べたその個人情報」
 いきなりずらずら並べたてられたのは、簡単とはいえナオの現在の境遇だった。そんなモノ、いきなり言いたてられても嬉しくない。というよりむしろ気持ち悪い。
「何よ、これくらいならこの時代でも、探偵事務所とかに依頼すれば簡単にわかるって聞いたわよ」
「調べさせたんか!」
「違うっての。データベースに載ってたのを渡されたのよ」
「誰に!?」
「時間渡航管理局の役人」
 そこで一息、アリスは黒糖ラテのカップを取り上げ、優雅に一口。美少女なのでそんなさりげない仕草さえ様になっている。
「何だよ、その、時間渡航管理局ってのは」
「あのね」
 カップをことんとテーブルに戻しながら。アリスが軽くナオを睨んだ。
「一から説明しろってんなら、途中で余計な茶々を入れないでよ。話がそれるから」
「……ごめん」
 確かに、それもそうだ。素直に謝ったナオを、ちょっと意外そうに見てから。アリスはわざとらしく、こほん、と咳払いをした。
「時間渡航管理局ってのは、あたしの時代で、時間旅行をする人間の管理をしてる役所なの。この時代でも、海外渡航の入国管理とかあるでしょ。まあ、あたしの時代にもあるけど。とにかく、それの時間旅行版と思ってくれていいわ」
「はあ」
「まあ、さっきから散々言ってるけど、あたしはこの時代より未来から来た――あたしのいる時代じゃ、時間旅行はすでに確立された技術になっていて、利用者も多い。まあ、高いんだけど、海外旅行よりは。それでも最近はだいぶ安くなったらしいけどね」
「……はあ」
 ツッコみたいのを我慢すると、今度はただ平凡な相槌を打つしかなくなって。とりあえずこくこく頷いてるナオのことは気にもしないふうで、アリスは淡々と話し続けた。
「時間旅行はまだ個人では許可されていなくて、旅行する場合は必ず時間渡航管理局認可のツアーに参加しなくちゃいけない。そのツアーも、ツアー客三人につき一人の割合で、ガイドが付くことが義務付けらてる。あたしは、その時間旅行ガイドなの。――というか、もうじき見習いになる予定なの」
「見習い?」
「時間旅行ガイドになるには、時間渡航管理局の試験に合格することと、一年間の研修が必要なの。正式には時間渡航案内事務官研修生って言うんだけど、だいたいみんな“見習い”っていうわ。あたしは、この間試験に合格したとこで――二か月後に、研修が始まる予定なの」
「へえ……そりゃ、すごいね」
 なんだかスケールは大きいけど、ようはハトバスのガイドさんみたいなものだろう。役所の試験まで受けなきゃいけない(もちろん合格しなきゃいけない)ってあたりが、さすが時間旅行、といったところか。
 そう思って、これまた素直に感想を述べたナオだったけど。
「……そう……すごいのよ……」
 アリスは俯いて、なんだかふるふる震えだした。
「え、あ、ちょ!?」
 泣くか、泣くのか!?
 幸か不幸か今までの人生、女の子を泣かせるようなマネはしたことのないナオは焦って椅子から腰を浮かした。が。
「あたしはねっ!」
 椅子を蹴り上げるようにして立ちあがったのは、アリスの方だった。
「時間旅行のガイドになりたくてなりたくて、ずーっと頑張ってきたのよ! この仕事についていっぱい勉強して、各時代の歴史について徹夜で勉強してッ! なのに……」
 びしッ。と、アリスの人差し指がナオの顔に突きつけられた。
「なんでこんなぼーっとした男に惚れた上に、この時代に移住したいだなんて言い出してるのよッ!?」
 アリスの台詞をナオが理解しきるまでに、しばらくの時間が必要だった。
 こんなぼーっとした男――うん、わりとよく言われる。
 この時代に移住したい――へー、そんなことまでできるようになるんだーすごいな未来。
 で。
 こんなぼーっとした男に惚れた――惚れた? 惚れた!?
「ええええええ!?」
 ようやっと言葉の意味が脳にまで届いて。ナオもアリスと同じように、がたんと音を立てて立ち上がってしまった。そのまま固まる二人の姿に、さすがに両隣から不審げな視線をちらちら向けられて我に返ると、二人はどちらともなく、何事もなかったかのように席に着いた。
「み、未来の機械でも、さすがに立ったり座ったりまでは誤魔化しきれないんだな」
「そ、そうね。そこら辺も解決できれば、TSSの機密保持は完璧って言われてるけど、今のところそんな技術までは開発されてないわね」
 未来の秘密道具でも、できないことはできないのか。いまいちアリスと目が合わせられずにうろうろと天井辺りを眺めながら。ナオはそんなことを納得する。
「ええと、それで……なんだっけ?」
 気まずい。めっちゃ気まずい。その気持ちはアリスも同じだったようで。ナオとは微妙に目を合わせないまま、黒糖ラテのカップを取り上げては、口をつけることなくテーブルに戻す。両脇のテーブルの客たちはすでに二人に興味を失ったらしく、女の子たちはまたお喋りを始め、男性の方は使っていた食器のトレーを持つと席を立っていった。
「ええと……なんだっけ?」
「いや僕に聞かれても。あ、そういえばさっきちらっと言ってたけど、未来から過去への移住ってできんの?」
 急に話を振られても。話していたのはアリスの方だったので、その先をどう続けようとしていたかなんてナオが知るはずもなく。咄嗟に思いだした、さっきの話の一部(全体は思い出したくない)を振ってみたら。テーブルの上で、アリスのカップががたっと音をたてた。もちろん、カップが自発的に動くわけがないので、この場合、動かしたのはアリスの手、である。
「そう……そうね、できるのよ。できちゃうのよ、特定の条件さえ満たせば」
 ナオの言葉は、どうやらまたもアリスの『突いてはいけないナニカ』を突いてしまったようで。今度はキレたり立ち上がったりということはなかったものの、アリスの眼は少しも笑っていない。口元だけが、可愛らしく笑みを浮かべている……逆に、怖い。
 でも、それきりアリスが口を噤んでしまったので、他にどうしようもなく。ナオは仕方なく、自分の方から質問を続けた。というか、そうしろというプレッシャーを彼女から感じるのは気のせいだろうか?
「その、特定の条件って?」
 聞かれたアリスは、じーっとナオのことを見てから(視線が居心地悪い)、また黒糖ラテのカップを両手で包むように持った手を見下ろすようにして、ぽつぽつ語り出した。
「いろいろ、あるんだけど。今回はある一つの条件の場合のみに限定されているから、その条件についてしか話せないの。そういうルールだから」
「ある一つの条件の場合……」
「うん」
 アリスは一度目を閉じて、深呼吸して。そして、意を決したようにナオをまっすぐに見据えた。
「あたしは、あたしの時間から二か月後に、時間旅行ガイドの研修に参加して、今、あたしときみがいる今の時間から半月前――二〇一〇年三月末に来ることになる。そこで……あたしはきみと出会って、恋に落ちるらしいの」
「……こい」
「そう、恋」
「……マジ?」
「あたしだって、初めて聞いた時はなんの冗談かと思ったけど、マジらしいわ」
 アリスは右手の人差し指を額に当てて、難しい顔をした。多分、ナオの顔も同じくらい難しくなっているだろう。
 とそこで、アリスの台詞にちょっと引っかかって、ナオはまるで授業中のように小さく手を上げた。
「あ。ちと待って」
「何?」
「今の君から二か月後ってことは……君が言ってる、僕と恋に落ちる君っていうのは、今話してる君じゃない、ってこと?」
 そう、ちょっとというか、かなりややこしいんだけど。アリスの話を聞いていると、そうとしか思えない。だって、アリス本人が、ナオなんかに(『なんか』って、自分で言うのもヘコむけど)惚れるなんて非常に不本意だー的なことを言ってるし。何より、今のアリスは百歩譲ったってナオに惚れてなんかない。それくらいはわかる。ちょっと残念だと思う本音は、今は置いておくとして。
「察しがいいわね。当たりよ、きみが恋に落ちたのは、今のあたしじゃない。未来のあたしと、過去のきみが、今の時間から半月前に恋に落ちて――そして別れ別れになった」
「未来の君と、過去の僕……って、ごめん、だんだん頭が混乱してきた」
 文字通り頭を抱えるナオに「でしょうね」と頷きながら。アリスはまたもがさごそとポシェットを探り出した。さて、今度はどんな未来道具が出てくるのか、と思いきや。出してきたのはごく普通のメモ帳とボールペン(ただし、どっちも色がピンクで花柄な可愛らしいモノ)だった。メモ帳を一枚とって、アリスはさらさらとボールペンで図を描き始めた。
 横一本の線、これが多分、時間の流れで。まず、その線の真ん中あたりに丸印が一つ付けられる。
「これが、今、あたしたちが話してる時間ね」
 そう言いながらアリスのボールペンはその丸の下に『二〇一〇年四月現在』と書いた。意外と几帳面で、トメ、ハネ、ハライがきちんとした文字。
「それで、ここが『今きみと話してるあたし』が住んでる時間ね」
 『二〇一〇年四月現在』よりも右側にもう一つ、丸印がつけられて『私の時代』と書かれた。さらにもう一つ、『私の時代』のさらに右側にもう一つ丸が付けられて。
「これが、『きみと恋に落ちたあたし』が住んでる時間」
 『未来の私の時代』と丸の下に書かれて、アリスはそこから『二〇一〇年四月現在』の丸より左側に矢印をひっぱっていって。
「それで、ここが、きみとあたしが出会った時間、ね」
 矢印の先に、今度は星印が付けられた。ぐりぐりと、二重三重に重ねられる星は、ようするにこの箇所が重要であることを示したいのだろう。  この星の部分で、ナオは、アリスと出会って。恋をした。
 ……ということだ、覚えてないけど。いや、正確には思い出せない、が正しいのか。
「あのさ」
「何?」
 ボールペンで星印の横に『二〇一〇年三月』と書く手を止めず、顔も上げず。聞き返してくるアリスに、頭の中で考えをまとめながらゆっくりゆっくり問いかける。
「最初に、僕が君を覚えてないの、「規則だから」って言ってたよね? 映画とかのタイムスリップでよくある『未来の人間は、未来のことを過去の人間に教えてはいけない』とかいう感じのルール?」
「そういうこと。詳しいことは教えられないけど、渡航局で使ってるシステムによって、未来の人間となんらかのカタチで関わった過去の人間の記憶は強制的に消去されるようになってるの」
「じゃあ、なんで――君は、僕にこんな、未来のこととかアレコレ説明してんの? それに、君だって未来の自分が僕と恋に落ちるって知ってるってことは――未来について、教えられてるってことだよね?」
 そう、それがおかしい。時間旅行の規則とやらでナオからアリスと出会った記憶が消されているというのなら――勝手に人の記憶を消すな、という文句はあるものの――アリスにとっても、その時間渡航管理局とかにとっても、なんの問題もないはずではないだろうか。わざわざナオに『あなたは実は未来人と会ってたんですよー』とか、説明しに来る必要なんてどこにもない。それも、半月前にナオに会った本人ではなく、さらにその彼女の過去の時代から来ている相手が言うというのも、なんか納得いかない。
「……それが、時代間移住における、ある特定の場合の条件の話に繋がってくるの」
 几帳面にボールペンをメモの横に並べて置いて。アリスが姿勢をただした。
 そう、そういえば、もともとはその話をしていたのだった。
「きみと恋をしたあたしは、自分の時代に帰った後で、時間渡航管理局に時代間移住申請を出したそうよ。申請理由は――過去の人間と結婚するため」
「ケッコン!?」
 がたっと、また椅子を蹴り上げて。ナオはまた、思わず立ち上がってしまった。
 だって、恋とかだって相当あり得ないっていうか、縁がないっていうのに、それが一足飛びに結婚とは!?
「時間渡航管理局は、時代間結婚を奨励してるの。時代間結婚で生まれたこどもは、なんでか歴史に名を残すことが多いから。というか、時代間結婚した人間のその後の調査を行ったら、そのこどもが歴史上の人物だった、ってことがかなりの確率であるらしいわ。だから、時間渡航管理局に届を出して審査に通れば、必ず相手と結婚することを条件に時代間移住が、許可されるの。……あたしがきみのところに来たのは、審査の一環のため、よ」
「……審査?」
 呆然と呟いて、ついでに我に返って椅子に座り直す。
「書類審査は問題なく通ったらしいんだけど、その、時代間結婚に関する場合の移住審査はちょっと特殊で――出会う前の時代間移住申請者によって、結婚相手になる過去の人間が申請者の記憶を思い出すことができたなら可、っていうのが条件」
 思い出す、と呟きそうになって。さっきからアリスの言葉を復唱するしかしていない自分に気が付いたナオは、その呟きを飲み込んだ。代わりに、別のことを聞いた。
「どうやって? やっぱりなんか、思い出させる道具とかが未来にはあるの?」
「そんな便利道具、ないよ。期限は一週間で、やり方は問わない。一緒に過ごして、それで思い出してもらうしかないんだって。ほら、聞いたことない? 人間の脳って本当は、一度覚えたことは絶対に忘れなくて、ただ思い出すための回路が切れちゃうから覚えたことを思い出せなくなるっていうの。だから、今のきみだって本当は未来のあたしのこと、覚えてるはずなのよ。ただ、思い出せないだけで」
「ああ、なんかシナプスがどうのってやつ……」
 ふむ、とさっき一口飲んだきり、置き去りになっていた珈琲を啜る。随分冷めていたけれど、猫舌のナオにはちょうどいい。
「でもそれ、僕が思い出せなかったらどうなるの?」
「どうにもならない」
 アリスはまた黒糖ラテのカップを持ち上げたけれど、こちらはもう空になっていて。アリスはちょっと顔を顰めて、カップをテーブルに戻した。
「ただ、きみはまたあたしのことを忘れるし、あたしも今回過去に来たことは忘れる。あたしときみとの間のことを覚えてるのは、未来のあたしだけになって。そのあたしも、二度ときみに会うことは許されない」
 覚えているのは、未来のアリスだけになる。
 ほんの少し、その意味を頭の中で吟味して。ナオはひどく複雑な気持ちになった。
「君はそれで……寂しくないの?」
「別に、だってあたしは、寂しくなる以前にきみと恋愛どーのという関係になるということ自体想像できないから」
「まあ、それは僕もそうだけどさ」
「シツレイだね、きみ」
 じろり、と睨んでくるアリスをよそに。ナオは、たった一人、相手すら忘れてしまった恋を抱えることになる未来のアリスに思いを馳せて。
「でも……未来の君は、すごい、寂しくなるんじゃないの?」
 呟いた、言葉に。目の前のアリスもまた、複雑そうな顔をした。
「寂しく……なるんでしょうね、きっと。時代間移住してまで一緒にいたい相手に忘れられるんだから」
 他人事のように言っているが、その対象は未来の自分自身なのだ。アリスの心中の複雑さはナオ以上だろう。今、どんなにナオに興味を持てなくても(まあ、そう思うとなんだか落ち込んでくるけれど)、将来彼女はナオを好きになる運命にあるのだから。
「君は、どうしたいの?」
「え?」
 唐突なナオの問いに、アリスが瞳を瞬かせた。
「今の君は僕に、未来の君のこと、思い出して欲しいの?」
「……」
 俯いたアリスを前に、自分の予想はおそらく正しいだろうとナオは確信していた。さっきからのアリスの態度を見れば、ナオじゃなくったってわかるだろう。アリスはきっと。
「ごめん、正直思い出さないで欲しい……。あたし、まだあたしの時代でやりたいことがあるのに、急にこんな、過去になんか引っ越せないよ」
 先ほどまでの強気な態度はどこへやら、か。呟いたアリスの声は、力なく震えていた。今度こそ泣いてしまうのじゃないかという心の焦りは表に出さないようにがんばって、ナオは殊更に明るく言ってみせた。
「じゃあさ、一週間、適当に過ごせばいいだろ。思い出しちゃうようだったら謝るけど、僕も基本はそんなに記憶力いい方じゃないし」
「……どういうこと?」
 顔を上げたアリスは、当然ながら訝しげだ。
「そのまま。一週間一緒にいなきゃなんないってなら、この時代で行きたいとこあったら観光案内するし。まあ、僕もあんまり詳しくないけど、有名どころで東京タワー――は、未来にもあるのかな? あ、でも少なくともスカイツリーの生工事現場は未来じゃ見られないだろ、そういうとことかさ。どう?」
「どう、って……」
 訝しげな表情がだんだん呆れに変わっていくなあと思っていたら、口でも言われた。
「……呆れた。フツー、いきなりこんな話されたらヒくもんじゃない? それが最後まで律儀に付き合ったあげくに信じちゃうし、おまけに観光案内とか、お人よしにも過ぎるんじゃないの? きみの台詞じゃないけど、というかそんな義理もないんだけど、なんだかきみ、新興宗教の勧誘とかよく捕まるんじゃないの? 心配になってきちゃったんだけど」
「ひどい言いようだな、おい。で、どうするの? それとも、絶対僕に思い出させるようにしないと、その時間渡航管理局の役人とやらに怒られたりする?」
「そんなこと、ないわ。過去の自分も同じように、未来の自分の好きになった人を好きになれるかどうかで、気持ちが一過性のモノじゃないってことを証明するっていうのも審査の一環だから、きみが思い出したとしても今のあたしもきみのこと好きにならなきゃ意味がないわけだし。悪いけど、今のところきみに恋愛感情は持てそうにもないから、観光でもいいかなあ」
 そこで、アリスはちょっと意地悪そうににやりと笑った。
「でも、なんとなく未来のあたしが君を好きになった気持ち、わかったかも」
「へ?」
 アリスはその笑顔のまま、
「あたし、小型犬って好きなのよねー」
 ……犬? あの、確かに平均身長より低いけど、きみよりは背ぇ高いんだけど……。
 ちょっとがっくりしたナオだった。



 コーヒーショップを出た後、ナオとアリスはひとまず駅前の方に向かって歩いていた。どこに行くかはまだ決めていないけれど、どこに行くにしても駅に近くて悪いことはない。そもそも、ナオの住む辺りに観光名所っぽいものなんてないし。あるとすればあの川沿いの桜並木だけど、残念ながらもう季節は過ぎてしまっている。
「そういや君、一週間って言ってたけど、泊まるアテとかあるの?」
「きみんち」
「は!?」
 思わずギョッと――比喩でなく引いてしまったナオを、アリスは真顔でばっさり切り捨てる。
「冗談に決まってるでしょ。渡航局で宿泊所も用意してもらってるから、大丈夫」
 そうかと胸を撫で下ろした(さすがに女の子を泊める度胸はない。草食系ですみません)ナオを下から覗き込むようにして。アリスがまた、さっきと同じちょっと意地悪っぽい笑顔で、言った。
「何、ちょっと期待した?」
「してないよ!」
 なんなんだコイツ。どういう漫画みたいな展開だよ、と。ナオはがっくり肩を落とした。いや、アリスが自分の家に泊まらないのが残念で、という意味ではない。念のため。
「んで、行きたいとこ、決まった?」
「んー、特にきみに付き合ってもらうほどの場所はないわ。明日は学校でしょ? 一人で行ってくる」
「……それでいいのか?」
「なんで?」
 不思議そうに首を傾げるアリスはちょっと可愛い。アリスではないけれど、自分が彼女に惚れてもおかしくはないなあなんて思いながら、ナオは説明した。
「適当に一緒にいるって言っても、二人で何もしないのもきまずいだろ? 観光なんて、暇つぶしには最適じゃないかと思うんだけど、その機会をわざわざ自分で潰していいわけ?」
「あー……それは確かに。完全に別行動にしちゃうと、管理局からも文句きそうだしなあ……。いいわ、考えとく。とりあえず今日は、もう帰ろうかな。きみに顔見せもちゃんとしたし」
「ふーん、どこなの? 泊まるとこ」
「秘密」
「……あ、そ」
 まあ、川沿い遊歩道での衝撃の出会いから、かれこれ二時間ほどになる。適当に一緒にいる、という基準は果たしたことになるのだろう、多分。
「とりあえず、駅までは送るよ」
「どーも」
 無愛想に返事したアリスが、ちょっと空を見てから呟いた。
「……今って、四月よね?」
「へ? うん、四月――十八日だけど?」
 それがどうした、と首を傾げるナオを見もしないで。アリスがぼんやりと呟いた。
「せっかく来たのに……桜が散っちゃった後なんて」
「さくら?」
 何のことだと、今度はナオが首を傾げたけれど。アリスは「なんでもない」とその話題を打ち切ってしまった。
「明日は、学校?」
「うん、朝から。で、夜にバイト」
「ふーん……午後は?」
「三時から、五時くらいまで空いてる」
「じゃあ、それくらいにきみの学校、行くから」
「は?」
「場所は知ってるから。待ち合わせるより早いでしょ?」
 はい決まりーと勝手に話を打ち切るアリスに反論しようとナオは口をぱくぱくさせたけれど。結局、無駄だと諦めた。
 顔は確かに好みなのだが、この我儘というのか、自己中というか、マイペースというのか、こんな性格の相手に惚れたのか、過去の自分。もうちょっとおとなしやかな性格の子が好みのような気がするんだけどな、とちょっと遠い目。
 駅前商店街に入ったところで、アリスがもの珍しそうに周りをきょろきょろするので、ナオは思わず聞いてしまった。
「もしかして、未来って商店街とか無くなってる?」
「んー? そんなことないけど、なんか新鮮。やっぱり過去だからかな?」
 そんなアリスが楽しそうで、だから。ナオの口からその言葉は、するっと滑り落ちた。
「写真、撮ってもいい?」
 アリスにすんごい微妙な目つきで見られて。ナオははっと我に返った。
「いや、別に変な意味じゃなく! 僕が写真やってるのは知ってるんだろ、それだって!」
「……なんで、あたし?」
「すごい、楽しそうだったから。なんか、残しときたい場面だなあと思って」
 残しておきたい場面、というのはナオが写真を撮る動機みたいなものだ。主に風景が多いけれど、今みたいに人物にソレを感じることもある。商店街と、楽しそうな女の子。ありふれたようで、でもこの楽しさというのは多分、今捕まえておかないと取っておけない。
 アリスはちょっと不審そうにナオを見て。それからちょっと視線を宙にさ迷わせた。
「……いいけど、後に残らないよ? そういう規則だから」
 アリスの説明によると、未来の人間が過去の写真に映ってしまった場合、記憶と同じにその人間の画像は時間が経つと消えてしまうのだそうだ。これも、時間渡航管理局が使用しているシステムによる現象、らしい。
「だから撮っても無駄になるけど?」
「うーん……無駄になるってのはちょっと寂しいけど、人物撮るの練習したいし、練習台になってくれると有難いかな。それとも、そういう経験値もナシになる?」
「それはないと思うわ。練習した覚えがないのにうまくなってるっていうのは、ちょっと得した気分になれるんじゃないかしら」
 アリスの台詞は、ちょっとナオにとっては頷けないものだった。
「そうでもないかな、僕は」
「あら、どうして?」
 あたしは知らない間に知識が増えてたら嬉しいけど、というアリスに、頭を掻きながら自分の言いたいことをつらつらと言い上げてみる。
「やっぱり、そういう練習した時間とかその時考えたこととかの記憶含めて、経験、だと思うし。僕は人物苦手だから、練習したからって即うまくなれる保証もないし。まあ、しないよりはした方がいいんだろうけど」
「じゃあ、撮らない方向?」
「いや、そこはやっぱり撮らせてもらえる? 練習の経験値が生きてくるかどうかは、それこそ未来にわかるとして。感性みたいなモノに関しては、なんだってやらないよりやってみようって方針だから、僕」
 頼む、と両手を合わせて拝むポーズをすると、アリスはちょっと呆れたみたいに黙ってから。
「あたしが嫌だって言ったら、すぐ止めてくれるなら、いいよ」
 ちょっと頬を赤くして、照れてるみたいに、言った。
「あ……ありがとう! じゃあ、適当に、さっきみたいに歩いててくれる? ちょっと何枚か試しに撮ってみたいんだ。ポーズとかは別にいいから」
 む、とちょっと難しい顔をしながらアリスがさっきと同じように商店街を見まわしながら歩き始めた。でも、その仕草はちょっとぎこちない。さっきナオが楽しそうだと思った、残しておきたいと思った表情は、ない。ファインダー越しに、さて困ったと考えてから。ナオは一旦、カメラを下した。
「何よ、撮らないの?」
「うん、抜き打ちで撮るから」
 プロモデルでもアマのモデルですらないアリスに、さっきの表情もう一回、とか言っても無駄だろう。それだったら、安心して、さっきみたいに笑ってるところを撮り逃さなければいい。
「隠し撮り? 犯罪臭い」
「隠し撮りじゃないって! 今ちゃんと許可出してくれたろ!?」
 途端、また胡散臭げな目になったアリスに必死で抗議する。……それとも許可もらっていても、勝手に撮るのって、やっぱり隠し撮りと呼ばれるモノなんだろうか。アリスはというと、ぐるぐる悩むナオを置いて、ツンと顔を逸らしてさっさと先に歩いて行ってしまうし。
 と。
 数歩先のところで、アリスは立ち止まると。くるりと振り向いた。長い髪と、チェックのスカートの裾がふわりと揺れる。そこで。
 満面の笑顔と、ブイサイン。
 一瞬呆気にとられて、でも、咄嗟にカメラを構えてその笑顔をカメラに収める。
「……今のは、何?」
「何よ、不満?」
「いや、不満じゃないけど……」
 ナオが写真を撮ったのを確認すると、アリスは途端に笑顔を引っ込めて。「さっさと行こう」と踵を返してしまった。その後ろ姿を呆然と見送りかけて、ナオは我に返ってカメラを確認した。今撮ったばかりの、アリスの画像。
 満面の笑顔は、どちらかというと友達同士の撮り合いっこみたいな写真だったけれど。作ったわりには、いい笑顔に思えた。
「ちょ、待てよ!」
 そうこうしているうちに、アリスの背中は随分離れてしまっていて。ナオは慌てて、アリスを追いかけたのだった。



「じゃ、ここでいいから」
 あの後。商店街をちょっとふらふらしながら、たまーのシャッターチャンスに遭遇しながら、最終的に二人は駅に到着した。地上改札の駅の、階段を上った反対路線側が、アリスの向かう先だと言う。
「うん、電車とか、乗り方大丈夫?」
 未来では電車の乗り方とか変わってるかもしれないし、むしろ電車が存在しない可能性もあるし。心配になったので一応聞いてみたのだが。返ってきたのは冷たい視線。
「馬鹿にしないでよ。これでも時間旅行ガイド見習いよ。来る時代の交通機関のことくらい勉強済みです」
「ああ、そう……」
 悲しいかな、この冷ややかな目にも慣れてきてしまった。別にマゾじゃないから慣れたくないんだけど。
「じゃあ、明日。迎えに行くから」
 素っ気なく言い置いて。アリスはさっさと改札をくぐって行ってしまった。ちなみに携帯ワンタッチで。あの携帯も、未来ふしぎ道具の一つなんだろうか。
「……」
 赤いジャンパースカートの背中が、階段の上に消えて行くのを見送って。ナオはその場を後にした。






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13.04.21