「驚いたな」 さして驚いた風でもなくそう言って、男は淡い橙色の瞳をそばめた。折しも吹いてきた夕暮れ時の風が、柔らかな青味を帯びた乳白色の髪を揺らした。高い場所は、その分吹き付ける風も強い。ここ――時計台の天辺も例外ではない。しかし男は、強い風を気にした様子もなく立っていた。手にしていた小型スコープを目元から外して、男は特に興味なさ気にそこから一望できる景色を眺めた。沈みつつある夕陽に照らされた街は美しく、見る者が見れば感動に打ち震えただろう。それは、充分に絵になる風景だったが、男はそういった情緒とは無縁だったから、ただ僅かに、この景色を綺麗だと思うだけだった。 不意に、男の携帯端末が振動を始めた。男はあっさりと街から意識を離し、端末を開いた。 「どうした」 感情を窺わせない彼の声に、慌ただしい声が答えた。途切れ途切れに聴こえるのは、実験体という単語や、脱走、という単語。それを聞いていた男の顔に、初めて感情らしきものが浮かんだ。ただしそれは、嘲笑と名の付くものだったが。 「そのうちやらかすとは思っていたが、やはり俺のいない時を狙ったか。まあいい、すぐ戻る。アレスズたちももう撤退させろ」 さらに二言三言、端末に指示を返してから、男は携帯端末を切った。再び街へと目をやったその男の背後に、ふいによく知った気配が現れた。特に驚く素振りも見せずに振り返ると、そこには苦々しい顔を隠そうともしないラシュ・キートが立っていた。 「こんなところで、何をしているんだ?」 「久しぶりだな、ラシュ・キート」 「この有様……例の事件はやはり、研究所が関わっていたのか。いったい、何が目的だ?」 「グラファイトか。あいつの情報網に引っ掛かるとは、この件の秘匿にも限界が見えてきたな」 ラシュ・キートの質問などどこ吹く風、という様子で顎に手を当てていた男だったが、ふと胸ポケットから小さなメモリチップを取り出すと、ラシュ・キートに投げてよこした。 「ちょうどいい。これを『局長』に届けろ。最近は元首の目を盗むにも限界があってな」 「何?」 訝しげなラシュ・キートが再び口を開こうとするのを制して、男は言った。 「まさかお前のところにアレの『片割れ』がいたとはな。偶然にしては、よくできている」 「なっ、おい、羅刹!」 ラシュ・キートの呼びかけと同時に響くぱさりという音と、広がる独特の臭い。羅刹と呼ばれた男の背に翻った翼は、射しこむ夕陽に照らされ、その禍々しいほどの赫をさらに深めて。 「さて、おもしろくなりそうだな。そう思わないか?」 微かな笑みに彩られた瞳も、その色を血の色へと変えていて。 一方的な台詞だけを残し、赫い影が時計台から飛び立つのを見たのは、今度は、ラシュ・キートだけだった。
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