「な? 見てて気持ちいいもんじゃなかっただろう?」

瞬きする間に、グラファイトの無表情はいつもと同じ、どっかふざけたような顔になって。そして、苦笑気味の顔になって。そんなことを言った。まるで、今起きたことなど、彼にとっては、たいしたことではなかったかのように。

「なんで」

無意識に零れたショウの声は擦れていた。

「なんで、殺した?」

くいと片眉を歪めて、グラファイトはまた無表情になる。

「なんで殺したんだよ!?」

「非常事態、だからだよ」
声だけは、まるで子供に言い聞かせるかのように優しく。諭すようにグラファイトは言った。
「非常事態って、そんな、全然わかんねえよ! だからって殺していいとか、そんなんあるわけないだろ!? 人間じゃんか……生きてた、じゃんか!」

人を殺していい理由なんて、あるはずない。黒尽くめのあの男たちがこの街を襲ったということはよくわかっているけれど、でも。

頭の中が、かっと熱くなって。どうしたらこの気持ちをうまく言えるのかもわからなくて。ただただ喚くだけのショウの耳に、グラファイトの言葉が、すとんと冷たく落ちてきた。



「じゃあお前は、殺さないで、自分が殺されるのか?」



グラファイトは笑っていた。今までショウが見てきたの笑顔全て、嘘だったのかと疑いたくなるような、すごく歪んで、いびつで、壊れたような空っぽの笑顔。

「ずいぶんと幸せに育ったみたいだな、お前」
「なん、だよ……」
「俺たちと――お前だって、俺たちと、同じモノの癖に」



同じ、モノ?



それだけ言い放つと、グラファイトは今度こそ、ショウに背中を向けた。
「って、ちょっ、おい待て! わかるように説明してけ!」
振り向く気もない後ろ姿。引き止めるための術など、ショウには一つも思いつかず。
「くそ、待てって……」
腹立ち紛れに目の前の氷壁を、もう一度、掌で打った。氷は冷たいはずなのに、さっきから手を付いていたせいか、冷え切った手はまるで温度差を感じなかった。

グラファイトは、廊下を渡って、もうすぐ見えなくなる。どうして、何故、ショウの声はグラファイトを引きとめられない? どうして今、ショウはグラファイトを追いかけることもできず、見送ることしかできない?

この壁、この氷壁のせいだ。ショウはぎり、と目の前の邪魔な透明な壁を睨みつけた。これがあるから、ショウはグラファイトを追いかけられない。これがあるから、ショウは閉じ込められている。

これがあるから――また、独り、残される。

「くっそぉ……」

何もかもに腹が立って、ショウは。無駄だとわかっていても、喉の奥から声を絞り出した。

「壊れろよ……」

自分に何も説明しようとしない美羽もグラファイトも。わけのわからない黒尽くめの襲撃者たちも。ここにいないラシュ・キートに対しても。それら全てに、腹が立つ。

「壊れろって!」

そんな、今ショウを取り巻く全ての状況に対する苛立ちを、憤りをぶつけるように。



「壊れろ! 俺をここから出せ!」



力任せ、怒り任せで、壁に拳をたたきつけた。







ぴしり。かし。



わずかに響いた音に、急に頭が冷えてきた。なんの音だろう、とショウは頭を上げた。



かし、びしり。



目を上げた先、叩きつけたショウの拳を中心に。氷壁に、ひび、が。

「嘘……だろ?」



びしっ……がしゃん



ショウの目の前で。完全に、氷が。




砕けた。



自分にこんな腕力があるわけない。いったい、どうして。ショウ一人くらい楽に通れる、氷壁に空いた穴、そこから。ぼんやりと、ショウは一歩を踏み出した。ぴちゃりと嫌な音を立てる足元を見ると、そこには赤い水溜り。今更ながら、むせ返るような生臭さに気付く。

「うわっ……」

慌てて足を引っ込めて。でも引っ込めた先にも血溜りで。避けようとした足が、無様に縺れてバランスを崩す。一瞬の浮遊感と、全身への衝撃。付こうとした手がぬめる赫にすべり、ショウは立ち上がり損ねて再び倒れこんでしまう。手も顔も服も、全部がべとべとする血に染まる。でも、それよりも気持ち悪いのは――臭い。他の人間の血が、自分の体中から臭ってくる。

喉の奥が詰まる。吐きそうになる。喉の奥にせり上がってきた酸っぱさを、なんとか飲み込む。胸の中が焼けるような不快さに顔を歪めて、それでも。

「ちっきしょう……」

なんとか起き上がり、ショウは走り出した。去っていったグラファイトの、もう見えない背中を追って。そう長くない廊下は、すぐに突き当たり。ショウが出たのは、猫の額みたいな広さの園庭。グラファイトの姿は見当たらないそこは、いつも子供たちと遊ぶ場所。

でも、目の前に広がっていたのは、ショウの知る園庭ではなかった。

鎖の千切れたブランコとか、そこここで赫く染まった砂場とか、――倒れている、体とか。

こんな場所、ショウは知らない。

急に、すぐ近くで爆音が響いた。慌てて物陰に隠れる。我に返ってみれば、周りはそんな物騒な音であふれていた。

銃の音。悲鳴。逃げ惑う足音。爆音。

なんで、こんなことになっているのだろう。もう、何度も考えたことが、再びショウの中を渦巻く。こんなこと――こんなこと、あっていいはずないのに!



憤っていたショウは、不覚にも後ろから口を塞がれるまで近づいてきた気配に気付けず。

「む、ぐ!?」
「何してるの、あんた」

焦って首だけでもなんとか動かそうとしたショウの目に映ったのは、冷ややかな黒っぽい色とした美羽の瞳。
「なんで出て……ううん、地下にいろって、言ったわよね?」
ショウの口から手を離して、美羽はショウを見た。ショウが、美羽の言葉に従わなかったのは明白で。言いたいことや聞きたいことはいろいろあったが、地下の子供たちを放ってきてしまった罪悪感がショウの口を重くした。
「わかってないでしょ。私やグラファイトだったらともかく、あんただったら……確実に殺されるのよ?」
苛々と言う美羽に、ショウは言い返すこともできずに項垂れた、その時。



『死んで欲しくない』



美羽の声に被って、そんな言葉が聞こえた気がして。ショウは弾かれたように顔を上げた。
「何よ、いったい」
さらにいらっとしたように美羽が問いかけた。でも、さっきの、ショウの中に響いた声は、まるで刻印されたかのようにショウの耳から消えず。



「死んで、欲しくない……」



思わず口の端に上ったその言葉は、今までになくしっくりとショウの内に沁み込んでいった。

そうだ、ショウは誰にも死んで欲しくない。殺されて欲しくないし、殺して欲しくも、ない。たとえ、それが全然知らない相手であっても。



「死んで欲しく、ないのに……」



空気を震わせなかった先ほどの美羽の声、その想いがショウの中に溢れかえる。

体が熱い。

死んで欲しくない、と。自分の存在全てがその想いになったような、そんな錯覚に襲われる。

「ショウ!?」

どこか遠い、美羽の声。でも、なんだかまわり全部が真っ白で……。



「死んで、欲しくないんだ。誰にも――」



ショウの意識が残っていたのは、そこまでだった。











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2013.01.01