激しい風の吹く夜だった。 豪奢な造りの部屋の大きな窓辺に、女が佇んでいた。少し離れて、男が一人。 「そうか……、下がってよいぞ」 女がそう言うと、男はうやうやしく頭を下げ、音もなく部屋を後にした。 一人、取り残された女はぴくりとも動かずに窓の外に視線を向けていた。やがて彼女は、ゆっくりと視線を下げる。俯くことで曝された白い首筋が、小刻みに揺れ始めた。 「くっ、くくっ……は……」 堪えきれないように、女は笑い出した。 「はっ、これで……これであの者も死ぬわな……。これでもう、わらわが脅かされることは、無い……」 身を捩りながら女は笑う。 「ほんに、馬鹿なことを……『世界の果て』など、生きて帰って来られるはずが……」 ふと、女が全身をびくりと揺らして笑い止んだ。 「戻って……生きて戻ってきたら……、いや、まさかそんなことは……しかし」 ぶつぶつと呟きながら、女はぎゅっと自分自身を抱くように回した腕に力を込めた。色を失った指先は、その力の強さを示していたが、女は痛みなど微塵も感じていないようだった。 「やはり、『世界の果て』に赴く前に殺してしまわねば……。『世界の果て』から初めて帰還した冒険者ということにでもなったら、あの方とて……」 自分の考えに没頭していた女は、気付かなかった。いつの間にか、部屋の窓が開き、そこから風が吹き込んで来ていることに――そして、その風音に混じって、くつくつと笑う声が聴こえてきたことに。 「そうだ……『課題』の際に、絶対に死んでしまうような場所に送ったならば……。しかし、そのような場所、どこに……」 噛み締めた唇から、一筋の赤が伝った。その痛みと鉄の味に、女は我に返ったように開かれた窓を見た。窓――その外のテラスに、いつの間にか一人の男が佇んでいた。 「……何者ぞ!」 女は金切り声を上げた。 「そんなに警戒しなくとも構いませんよ」 男は微かに笑うと、女の元へと歩を進めてきた。 「ち、近寄るでない!」 女はうろたえた様に叫んだが、男は一向に気にする様子が無い。女の傍近くまで来ると、男は彼女の顔を覗き込んだ。 「『絶対に死ぬような場所』――作って差し上げましょうか?」 男の口調は丁寧だったが、そこに女を敬うような響きは無い。常ならば、それは女にとって不快なことのはずだったが、今は。男の無礼を咎めるような余裕は、女には無かった。 「……なんだと?」 女はまじまじと男を見遣った。年の頃は二十をいくつか越えているようだが、その眼は――年齢以上の何かを宿しているようで。 「でも、私の力で創った場所で、それでも生き延びてしまったら――その時には諦めてください。それが条件です」 楽しそうに言う男に、女は問い掛けた。 「そなた、一体……。いや、何が、望みだ」 今まで、女に媚びてきた者達は、皆何か見返りを求めていたから。だから男の言葉を、女は素直に受け取ることは出来なかった。 「貴女から望むものはありませんよ。……でも」 男はまた、小さく笑った。 ずっとずっと昔から、叶えたい願いがあるのです、と。 人間、誰にだって機嫌が悪くなるという時がある。 例えば、腹が減った時とか。 例えば、買い物に出たのに目当ての品物が売り切れていたとか。 例えば、少し目を離した隙に未来の花嫁(予定)が、女にナンパ――いや、この場合は逆ナンというのか――されていたとか。 今日の天気は、気持ちのいい青空に真っ白な雲がふわふわと浮かんでいる、最上級といっていいような気持ちのいい日。気温も湿度も過ごし易い状態。普通なら、それだけで何となく幸せになれそうな日。けれども彼の場合、そんな天気であるのにも関わらず、不機嫌絶好調。まあ、先程の、機嫌が悪くなる条件が、全て一度に自分の身に降りかかってきたのだ。機嫌が悪くならないわけがない。 「――月季!」 不満不機嫌全開で呼ぶ声に、困ったように女性に応じていた相手が、薄い紅茶色の髪を揺らしながら振り向いた。途端に、髪と同じ色の瞳にほっとした色を浮かべて、連れが来たからとかなんとか言って女性に別れを告げ。そのまま踵を返し、自分よりも頭一つ分背の高い、黒髪の青年の元へと駆け寄った。 「さんきゅ、レキ。助かった」 「だったらはっきり断ればいいだろ。そもそもお前女だろうが」 女が女に口説かれてどうする、と言いたげなレキ――砂礫に対して、月季は不満気に口を尖らせながら言う。 「しょーがないじゃん、あの人しつこかったんだもん。悪い人じゃあなさそうだったし」 砂礫は深く深くため息をついた。こっちの気苦労はお構いなしか、コイツ。 でも、仕方ないと言えば仕方ない。何せ、真横を歩く幼馴染は、見た目は最上級の『美少年』なのだ。さらさらの、少し長めに切った髪。大きな瞳と滑らかな頬。華奢で全体に小柄だけれども、それが女性から見たら「可愛いオトコノコ」という評価を与える材料になっていることは、今までの付き合いで嫌というほど学んでいる。 ただし。 ただし、だ。自分の幼馴染は、『美少年』ではなく『美少女』のハズなのだ。小さい頃から一緒だった自分が言うのだから間違いない。 「さ、ぼけっとしてないでさっさと行こうぜ。買い物まだ終わってないんだぞ」 その前にお昼にした方がいいかなー、と。砂礫の心中を知ってか知らずか。男装を常としている幼馴染――月季が砂礫を呼ぶ。その恰好もうヤメロ、というのは言うだけ無駄というのもいい加減に骨身に染みてきているので。砂礫はもう一つため息を吐くに留めて、先を行く月季の後を小走りに追った。 地界の地図を広げてみると、三つの大陸と四つの小島から成っているのがわかる。 三つの大陸のうち、一つは森林大陸オーレリア。この大陸は地界のほぼ中央に位置している。その名の通り、全体の約八割が森や林などで占められている。 オーレリアの北と南に位置している大陸は、それぞれ氷河大陸アルバース、沙漠大陸ナーヴォースの名をもつ。どちらもその大陸の特徴を表した名。 アルバースは氷河大陸の名の通り、一年を通して気温が低い。特に最北部は、見渡す限り一面の氷に覆われている。 逆にナーヴォースは、大陸全体が沙漠とオアシスで成り立っているといっても過言ではない。年間を通しての気温も高い。 そして、この三つの大陸に挟まれるようにして、四つの小島が存在している。 パティリア、エストム、シェニファ、クェイファという名のこれら四つの島には、大陸ほどの極端な特徴は無い。それぞれ近い大陸の影響をうけながらも、穏やかな気候を保っており、それらの島々を境にして、地界の海は紫海、黒海、紅海、蒼海の四つの名で分けられている。 そして。そのさらに外側。地図の枠の外の、本来ならただの余白でしかないそこには、こう記されている。 『世界の果て』、と――。 そこに何があるのか、それなりに文明の発達した地界の技術をもってしても、未だ判明できていない。財宝のあふれる楽園だとか、神々に見捨てられた不毛の地だとか、俗説ならばそれこそ山のように存在する。 そこはいったいどのような場所なのか。未知なるモノを求めるのは人の性。 知的探究心。 あるかどうかもわからない財宝。 それを見つけたときに得られるであろう、名誉。 あるいは、ただの好奇心。 さまざまな目的から、『世界の果て』を目指す者は少なくない。 しかし、己が求めるモノを手にして帰ってきたものは皆無であった。その場所に辿り着けずに帰って来た者は、皆、意気消沈とした姿で戻ってきた。 だが、中には探求に出て、それきり戻ってこなかった者もいる。彼らが求めたモノを手にしたのか、旅の途中で海の藻屑と消えたのかは、誰にもわからない。 ただ、誰も見たことは無くとも、『世界の果て』が確かに存在している。それだけは、揺ぎ無い事実だった。 森林大陸オーレリアの北東部には、大陸最大の領土を持つエルスティン王国が位置している。エルスティンは、オーレリアだけでなく、地界の中でも力を持つ大国である。その歴史は古く、地界最古の国とも言われている。 森林を多く保有するこの国は、木材の輸出や、木材を燃料として稼動する火力機関などによって栄えている。特に火力機関については、この国を発祥とするため、その道では多くの技術者を輩出している。そのため、オーレリアの王都には火力機関に関する学問を志す者を始めとして、その他の学問についても多くの学者が集っている。地界の中でも一、二を争う学術都市としても名高い都市なのである。 現在の国王である景湘王は、賢王として名高く、近隣諸国に対する外交政策、国内の問題などを見事な手腕で処理している。国内の問題に関していうと、この国の主要産業である木材のための森林開発についてで、彼はただ森林を伐採するだけでなく、人工林の開発にも力を入れるように指導している。それにより、数年前から心配されていた森林破壊に対する問題の解決を目指しているのだ。そして、その政策は国内外で評価を受けている。 古からの広大な領土、それを支える国王の力。この二つにより、エルスティンは現在の地界第一の大国と言っても過言ではない。 その大国の、中心部からかなり外れた地方都市。の、外れにある森の中。そのさらに外れにある古城に砂礫と月季が帰ることができたのは、結局、夕方近くなってからだった。出掛けたのが今朝早くのことだったから、いつも必要最低限のものしか買わない彼らにしては、ものすごく時間がかかったことになる。 「お、お帰り」 「なんだ、デートか。泊まりじゃなくていいのか?」 すれ違う、この城に共に住む仲間たちが声をかけてくるのに適当に返事をしつつ(うち、デートかとほざいてきた男には、砂礫と月季からの鉄拳がプレゼントされた)、二人は自分たちに割り当てられた区画へとたどり着いた。 「よお、遅かったな」 広めの広間と、そこに続いた三つの個室。それが、砂礫たちに割り当てられた居住区。広間に置かれた大きいテーブルで、何やら紙束を広げていたもう一人のここの住人が、度の低い眼鏡を外しながらこちらを見上げた。 「月季がナンパされまくったせいだ」 心底ウンザリしたような顔で言う砂礫をきっと睨みつけて、月季が反論した。 「なんだよ、レキだってナンパされてたじゃんか!」 「俺はちゃんと対処してたからいいんだよ。お前も迷惑なら迷惑だってはっきり言えばいいだろうが!」 「……もう何でもいいから、痴話ゲンカなら外でやってくれよ。俺は徹夜明けで辛いんだからさぁ」 ぎゃあぎゃあ言い合う二人の横で、来ていたシャツの胸ポケットに眼鏡をしまいながら同居人の青年がぼやくと、月季は今度は彼を睨んだ。 「あのね鏡、これのどこを見て痴話ゲンカなんて言ってる? だいたい、鏡の徹夜ってのはどうせ副業の方でしょ?」 「まあ……そうなんだけどな。締め切りってどうしてこう重なるんだか」 あふ、と欠伸をする鏡の副業とは、小説家で。なかなかの売れっ子なため、締め切り前はまさに修羅場が展開されているのを、ほぼ同居状態な月季と砂礫はよく知っている。 副業、と言うからには本業があるわけで。彼ら三人は、この古城に拠を構える傭兵部隊の隊員――つまりは傭兵なのだ。 彼らの所属する傭兵組織は、地界最大規模の組織で。エルスティン王国に存在するこの拠点も、各地にあるうちの一つに過ぎない。傭兵たちはいくつかのチームに分かれて行動し、地界に住む様々な人々の依頼をこなしている。もちろん、傭兵という職業柄、もっとも多いのは戦争、あるいは戦闘関連の依頼であるが。 砂礫、月季、鏡の三人は、この組織内のチームを組んでいる。もともと三人とも幼馴染で、それぞれの理由でこの古城で育った。成長して傭兵となってからは、いくつかの依頼を先輩に付いてこなした後、三人でチームを組むようになった。以来ずっとこの三人で仕事をし、今では組織の中でも実力派として名をはせている。 「はいはい、俺が悪うございました」 身長差をいかして睨み上げてくる月季に、鏡は両手を挙げて降参の意を示した。ここでさらに月季の機嫌を損ねたとしても、百害あって一利なし。下手に逆らえば、さらに耳元でぎゃーぎゃーと喚かれるのがオチだ。とりあえず、ここは誤魔化しておこう。 「二人とも、飯食ったら支部長のところに行くぞ。話があるとさ」 「話?」 「ああ、詳しくは三人揃ってから直接話すってさ。俺も内容は聞いてない」 「ふーん……どうせまた新しい任務だろ。三人揃ってから、ってのが引っかかるけどな」 ヤバい仕事じゃないといいけどな、と言いながら。買ってきたものを片付けに広間を去っていく砂礫を見送ってから、鏡は月季に向き直った。 「ヤキモチ妬いてるくらいなら、素直になっちまえばいいのに」 言われた月季は、ぷいと顔を背けた。 「別に……妬いてなんかないし」 「なら、何そんなに不機嫌なのさ?」 月季は答えない。ただ、不機嫌な顔を隠そうともしない。 鏡は深々とため息をつきながら、黒い皮手袋をした左手で、長めの、手袋よりも深い黒――闇色の前髪をうっとおしげにかき上げた。 「いい加減素直になんないと、いつか砂礫に愛想つかされるかもよ? それで良い訳?」 砂礫は気付いていない。月季もまた、砂礫が好きだということに。鏡から見れば、とっとと恋人同士にでも夫婦にでもなってしまえと思うのだが、ここで問題になるのは月季の性格。 ひたすらひたすら、意地っ張りなのだ。 砂礫はまだいい。鈍いことに月季の気持ちに気付いていないとはいえ、少なくとも彼は、月季が好きだという自分の気持ちを素直に表に出している。一方、月季はというと。砂礫に対する気持ちを、自覚はしていても認めたくはないらしい。素直じゃないのだから。 「さっさと認めちまえばいいのに」 さっさと一言認めてしまえば。そうしたら楽になるのではないのだろうか。意地っ張りで自分の気持ちを認めたがらない月季は、ささいなことから思いつめてしまう傾向がある。 「……もう、さっきから何が言いたいんだよ。認めるとか認めないとか! 僕はレキのことは幼馴染の友達としか思ってないんだからね!」 月季は苛立ったように声を荒げると、そのまま身を翻して、二階にある自分の部屋の方へ駆けていってしまった。 「あー……、また失敗したかな?」 月季と砂礫には、うまくいって欲しい。そう思った鏡が、月季に向かって、素直になれ、と諭すのはこれが初めてではない。しかし、成功した試しは今まで一度も無い。 あの二人には間違えて欲しくない。自分のように。そう思う鏡だったから、今日もまた同じ説教を月季に繰り返すのだ。 まあ、無意識な痴話ゲンカに辟易しているという理由もあるのだけれど。
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