『それ』は必死に羽ばたいていた。 もう体力は限界だった。出来ることなら、何処かでその傷付いた羽を休めたかった。しかし今もっとも望む休息は、現在の状況下では、すなわち死を意味している。 休むわけには……止まるわけにはいかないのだ。 背後からは、『それ』を脅かす襲撃者達の、荒い、息。魔性のモノの棲む世界から、この地界へと移り、順応するべくその姿を変えた、異形のモノ。奴らに裂かれた傷から溢れる血は、確実に力を、意識を奪っていく。 死にたくない。 もはや、その一念だけが、『それ』の翼を動かしている。 まだ死ねないのだ。生き延びなければならないのだ。 いや、そんなことはどうでもいい。ただ、死にたくないだけ。生きていたいだけ。 けれど。 ふっ、と、『それ』の体から最後の力が抜けていった。力無く地面に落ちていく。そして、迫る殺戮者の足音。薄れゆく意識の中で、『それ』はぼんやりと死を思った。 何処かで轟音が聴こえたような気がしたけれど、すぐに何も判らなくなる。視界が暗転していく。 それきり、『それ』の意識は闇に堕ちた……。 「たいくつ……」 ぼそりと呟かれた言葉は、危うくうるさいエンジン音に掻き消されるところだった。もっとも、言った本人からすれば、消されたところで別に構いもしない、ただの独り言だったのだが。 「んなこと言ったって仕方ないだろ。ってか、こういう旅は退屈な方がいいんだよ」 面倒が少なくて済むからな、と荷台にいる月季に応じたのは、助手席にいる鏡。その言葉には答えずに、月季は先刻までと同じように、蒼い蒼い空を見上げた。 ユージス港に向けて出発してから、もう一時間少しというところだろうか。 確かに、自動車というものは便利だと思う。この発明が成されなかったら、今頃は、重たい呪機を抱えながら、徒歩なら約十日、騎獣を使っても約五日の道程をこなさなければならなかったのだから。 でも。 例えその道程が、たったの三時間強になるからといって。その間何もせず、ただひたすらぼーっとしているには……絶対に長すぎる時間だ。正確にいえば、月季がぼーっとしていたのは、一時間ずっとではない。十五分くらい前までは、同じく荷台に座っている蔡軌といろいろおしゃべりしていたのだ。所々で、鏡や、現在運転中の砂礫のツッコミが入ったりで、それなりに騒がしい道中だった。 しかし、話題のネタというものは、いつかは尽きるもので。 その結果が、最初の月季の言葉だった。 「月季は、退屈なのは嫌い?」 どこか面白そうに、蔡軌が聞く。余談だが、この軽トラでの席順について、砂礫は少し――いや、かなり露骨に不満気だった。要は、月季の隣が良かったということなのだが。 しかし、この席順は仕方のないことなのだ。つまり、この何が起こるか判らない旅路で、魔物などに襲われた場合を考えてのこと。前方から何かが現れたのが確認できた時は、まず射程の長い武器を持つ鏡が応戦する。そのため、鏡は助手席に。また、後方から襲われた場合は、荷台に積んだ呪機を始めとする武器で、月季が応戦する。とすると、運転するのは砂礫か蔡軌になるが、公平なジャンケン勝負の結果、砂礫が運転することになった。 そういうわけで、砂礫も一応――心境はともかく――納得してはいる。しかし、鏡に言わせれば、「ガキのヤキモチと同じレベルだねぇ」となるらしい。それを聞いていた蔡軌はにこにこと笑うだけで、余計なコメントは避けていた。 蔡軌の問いに対して月季は、ほんの少し考えるように俯いてから、ぽつりぽつりと口を開いた。 「うーん……なんて言うのかな? 嫌いって訳じゃないんだけど……。うん、やっぱり嫌いなのかも」 今回の旅は、彼らにとって特別なものだ。『世界の果て』への派遣を決める審査。だからだろうか、いつもの依頼とは違う、非日常のような何かを期待していた。しかし現実は、いつもと変わらず。荷物が重くてかさばるのも、長いこと似たような姿勢でいるため、体も痛いのも。何より、いつ、何処で、どんな状況で死ぬかも判らないのも。 いつもの依頼への旅立ちと、全く変わらない、退屈な出発。いや、いつもと違うモノはあるけれど。 月季はそっと隣を窺った。そこに座る蔡軌は、涼しげな顔で空を見ている。何を考えているやら、月季には全く判らない。 蔡軌を加えたチームで依頼をこなすこと数件、蔡軌の実力は月季の目から見ても明らかだった。月季は、自分の持つ古代呪機の特性ゆえに、逆にその呪機を使わず済むよう様々な呪機や武器を扱えるように訓練してきた。今ではどんな得物であろうと、それなりに使いこなせるだけの技量はある。 でも、蔡軌は。月季と同じことを、月季以上にこなせていた。 その事実に焦りを、憤りを、感じなかったと言えば嘘になる。というか、月季としては地団太を踏んで口惜しがりたいところだったが、そこはやはり、蔡軌が『世界の果て』を目指した希望を通してもらえるだけの『例外』なのだから仕方ない、と自分を(無理やり)納得させた。 けれど、それ以上に月季に複雑な想いを抱かせたのは。 これだけの実力を持ちながらも、月季も砂礫も、蔡軌の存在を今まで知らなかった、ということ。もちろん、もともと蔡軌の噂を知っていた鏡に後から詳しいところを教えられたものの、蔡軌ほどの実力でも『誰でも知っている傭兵』にはなれない、という事実が月季の心を重くした。 月季の父親は、『伝説の傭兵』、『最強の傭兵』といった呼び名を欲しいままにしている人物である。地界において最も有名な傭兵、名前を聞けば誰でも「ああ」と思い当たるような、そんな存在だ。母親もまた父親とチームを組んでいる傭兵の一人で、ようするに両親ともにエルドラドのエルスティン支部に所属する傭兵だったから、二人の間に生まれた月季はあの古城で育ったのだ。 そんな両親は、今、何年か前の『世界の果て』への派遣チームに選ばれ、未だ帰らない。 今では自分も傭兵になり、それなりに実績も積み、『世界の果て』への派遣チームの候補として選ばれるくらいにはなった。でも、蔡軌にさえ届かない今の自分では、はたして父親とはどれだけの差があるのか。 別に、父親への対抗心から『世界の果て』を目指しているわけではないけれど、こんな時に月季の心はどうしようもなく苦しくなる。 立派すぎる、伝説にまでなってしまっている父親への、名前の付かない気持ちで。 苦い想いで見上げた空は、本当に、嫌味なくらいに真っ青だった。 「蔡軌はどうなの? 退屈って、嫌い?」 そんな想いを見透かされたくなくて。月季は蔡軌に、問われた言葉をそのまま返す。蔡軌は、先程の月季のように一瞬空を見上げてから、見慣れてしまった何処か掴めない笑顔で答えてきた。 「そうだな、私はどちらかというと、少し退屈な方が、何だか平和でほっとするな。ということだから、嫌いではないんだろうね」 そう、笑って言った蔡軌の表情が。急に険しいモノとなった。 「何? どうかしたのか?」 不審気な月季の声には答えずに、蔡軌は不安定な荷台で立ち上がると、じっと前方を見つめた。三人とも、蔡軌のその行動を量りかねて。その場に何処か居心地の悪い、張り詰めた空気が流れ始める。 しかし、それは一瞬のこと。 「前方! 砂狼の群れがいる!」 蔡軌の声の鋭い響きに、彼らはようやく状況を理解した。 それらは飢えていた。近頃、彼らの縄張りであった場所に、別の群れが入り込んできたせいだ。それまで少ないながらも、群れを支えるには充分だった餌は、二つの群れを支えるには、到底足りなくて。群れ同士で餌を争い、それに勝てたなら、今度は群れの中でその餌を争い。それでも、やはり空腹を満たすには足りない。 しかし、今日は、見たことも無いような不思議なイキモノが、自ら彼らのテリトリーに迷い込んできたのだ。 餌が充分足りている時ならば、彼らはそんな小さな獲物は相手にしなかっただろう。彼らは――砂狼は賢い獣だ。もともと魔界に生息する闇狼が地界へと出でた後、その場その場の特性に合わせ、進化してきた種だ。そのイキモノでは、彼ら全ての空腹を満たすなどありえない大きさであることも……それどころか、一匹の砂狼の空腹さえ、補えないということも。普段の彼らなら気付けたはず。 しかし、極度の飢えが、彼らの判断を狂わせた。結果、彼らはその獲物を追い始め、そして、追い詰めていった。 普段の彼らなら気付けたはず――そこに、彼らの意思に干渉して、そのイキモノを追わせている思念があることに。 しかし、彼らは気付かず――それが、命取りになった。 砂狼達は、どうやら何かを追いかけていたようだ。そのせいか、耳が良いはずの砂狼たちが月季達のトラックに気付いたのは、蔡軌が気付いたのよりもしばらく遅かった。普通の人間ならば逃げ出すことを選択するだろうその時間差。でも、傭兵である彼らにとっては砂狼程度、その時間の有利があれば、充分に勝てる。 確かに闇狼を祖とする砂狼の力は侮れない、けれど。 彼らには、勝てるだけの力がある。 助手席の窓から、半分以上身を乗り出して、鏡が己の得物であるライフルを構える。揺れる道を走るトラックと、不安定な姿勢。並みの人間なら外してしまうだろう条件の下、射程距離に入ったその瞬間、鏡は迷うことなく引き金を引いた。 銃火器特有の音と共に、砂狼の内の一匹がどうと倒れる。 それまで、目前の獲物を追うことに夢中だった群れは、予想しなかった事態に一瞬動きを止める。しかし、次の瞬間こちらを敵と認識し、それまでとは打って変わったスピードで走り迫って来た。それを迎え撃つ鏡のライフルの音がさらに何度も響く。 しかし、それは単なる時間稼ぎ。その隙に月季と蔡軌は準備を整えていた。軽トラックの荷台から、運転席部分を砲台代わりに。巨大なバズーカ砲が組み立てられる。 「さあ、散火――あなたの出番だよ」 月季がそっと、その人工呪機に語りかける。そっと砲身に這わせた手のひらから、温度のようなものが月季に伝わってくる。同時に脳裏に浮かび上がってくるのは、目の前の砂狼たち。目に見る景色とは違い、個々の存在として一つ一つ、手に取るように伝わってくるイメージ。月季はその一つ一つに意識の照準を当てる。 「放て!」 単純で短い命令。砲身が一気に熱を持ち、そして。 幾筋もの光が、砲台から放たれた。その光の一つ一つが、違うことなく砂狼一匹一匹を捕え、燃やしつくす。生きながら焼きつくされる苦しみにのたうつ砂狼たちは、自分を焼く火を消そうと地面に身を叩きつける、何度も、何度も。けれど炎は消えることなく、その場の砂狼たちが全て灰と化すまで、そう時間はかからなかった。 「さすがですね、月季」 蔡軌が感心したように言う横で。月季はもう一度、熱を失いつつある砲身を撫でた。 「ありがとう、散火」 人工呪機、散火。バズーカ砲の形をとるこの呪機は、使用者が意識の上で照準を合わせた物体を焼きつくす力を持つ。人工呪機なので制約らしい制約はなく、あえていうなら太陽光をエネルギーとしているため、定期的に日光に当てなければならないくらい。その使いやすさから、傭兵業界、また各国の軍事配備で多用されているメジャーな呪機だ。けれど普通の呪機使いなら、おおよその範囲を指定しその範囲内のものを焼きつくすのがせいぜいだ。先ほどの月季のように、複数いる標的を個別に焼きつくすことは難しい。それができるのが、月季の呪機使いとしての才能の高さを現している。 月季が呪機を発動させたあたりからスピードを落としていた軽トラックが、完全に停止する。敵がいなくなった今、わざわざ走りながら呪機をしまうこともない、停めてやればいい、という砂礫の配慮だろう。砲身を撫でていた手のひらの下、呪機の気配が眠りに就くのを感じながら。月季は何気なく――本当に何気なく、砂狼たちがいた場所に、視線を投げた。 「――あそこ!」 散火の片付けに入った蔡軌を尻目に、月季が軽トラックの荷台から飛び降りる。 「どうかしたのか、月季!?」 まさかまだ砂狼が残っていたのかと、砂礫は運転席の窓から身を乗り出したが、別にそういう訳ではないようだ。月季は、つい先程までは砂狼たちの灰が残った場所の少し先にしゃがみこんでいる。 「……どうかしたのか、月季?」 先刻発した言葉を、先刻とはまるで違った調子で。座り込んだままの月季をいぶかしんで、砂礫も運転席から降り、月季に問い掛けながらその場所へと近付く。トラックに残った二人も、興味深そうにこちらを見ている。 「レキ……このコ……」 月季が何かをその手に拾い上げた。立ち上がった月季の掌にすっぽりと納まった、小さなモノ。傷を負い、血に塗れた、小さな小さなイキモノ。砂狼が追いかけていたのは、これだったのかと、砂礫は悟った。 気を失った『それ』は――優美な姿の、銀色の羽根を持つ小鳥だった。
|