結局。 砂狼の群れとの遭遇以外には、特にこれといった問題も無く、彼らはユージス港の――港の規模に比例して、かなり小さめとはいえ――港町に到着した。 少し前から降り出した雨は、未だ止む気配を見せない。それどころか、どんどん激しさを増して、舗装された道路を打っている。降り始める前に宿に入れて良かったなと、月季は窓の外を見ながらぼんやり思った。本部が今回の審査のために用意した宿は、なかなか快適だった。その個室で、月季は独り、窓辺に立って外を見ていた。 出発は、本当なら翌日の予定。けれど、この雨の影響で一日延期せざるを得ないと、夕食の席で蔡軌が告げてきた。いかに成功率の低い審査だとはいっても、やはり少しでもその確率が上がるようにと。悪天候の中での出航はしないらしい。 叩きつけるような雨によって、まるで涙を流しているかのようにずぶ濡れの窓から視線を外し、月季はベッドの側に置いてあるサイドテーブルへと歩み寄った。その上に置かれた、小さな籠。柔らかな布が敷き詰められたその中には、昼間拾った小鳥が眠っている。 本当は、この宿もおそらくは動物の連れ込みは禁止なのだろうけど。月季はこっそりとこの鳥を隠して部屋に入った。見つけた時点で、一応の手当てはしてある。でも、出来ることならちゃんと完治して、空へと還せるようになるまで面倒を見たかった。 それが出来ないことだとは、判っているのだけれど。 砂礫と鏡には、月季の考えなどお見通しだった。二人とも、言い方の違いはあったけれども、出発が延びた明日の間に、誰かにこの鳥を渡した方が良いと言ってきた。 二人の言いたいことは判る。審査に向かう自分には、鳥の世話をする余裕など、ある筈も無いから。それでも、出来ることなら。旅立つギリギリの時までは、自分が手当てして、側にいるべきだと思う。拾った者の責任として。 蔡軌、は。特に何も言わなかった。ただ、エルドラド本部へ報告を送ってくると宿を出て行ったその帰りに、籠に入った果物を買ってきた。月季の部屋でその果物を三等分に分けた後、空になった籠を月季にと差し出して。「必要でしょう?」と、すっかり見慣れた、でも未だに読めない笑顔で言ってきた。そこに思うところはあったけれども、月季はとりあえず、彼の好意を受けることにした。やはり、テーブルの上に、布を敷いてあるとはいえ、直に寝かせているというのはなんだか可哀想だったから。比べれば、やっぱり籠の中の方が良いに決まっている。 血の汚れを落したその鳥は、美しいけれど見たことの無い鳥だった。銀色の羽根は、作り物めいた中にも柔らかい輝きを放ち、翼と長い尾羽の先、そして首の――鳥に首があるとするなら――周囲にぐるりと紅く、模様のように違う色の羽根が入っている。 売れば結構金になるかもなと言ったのは、鏡だった。なんかむかつく言い方だが、それも確かに納得出来る。現実の世界ではなく、神話や御伽話の中に存在している方が相応しく思える、そんな鳥。この手のモノが好きな金持ちなら、きっと大金を積んででも手に入れようとするだろう。かといって、売る気なんてさらさら無いけど。 「お前、いったいどこから来たのかな?」 そっと呟きながら、その羽根に手を伸ばす。触れるか触れないか。微妙な位置に届いた時、小鳥の体がわずかに震えた。どうやら目を覚ましたらしい。動いた羽根に驚いて、一瞬は引っ込めた手だったけれども、目覚めたことが嬉しくて、月季は再び手を伸ばした。 「良かったぁ。目が覚めたんだ」 しかし。 鋭い羽音が月季の耳を打った。伸ばした手に怯えたように、小鳥はまだ良く動かないはずの羽根を精一杯羽ばたかせ、月季の手から逃れようとし。 「痛ッ……」 反応が遅れた月季の手を、小鳥の嘴が掠める。勢いが付いていたそれは、わずかに月季の手の肉を抉った。ぽとりと落ちる、真っ赤な鮮血。ほんの少し滴ったその血が、小鳥の羽根を濡らす。けれど、それにも気付かないように暴れ続ける鳥は、遂には籠と共に床へと落下してしまった。 慌てて下を覗き込むと、小鳥はぐったりとしていた。それでも、月季が近付くと、少しでも距離を取ろうと羽根をばたつかせる。 「ごめん、驚かせて……。誰も君を傷付けたりはしないから。もう、大丈夫だから……」 言葉が伝わるとは思わないけれど。でも、敵意は無いと、味方なんだという気持ちが、少しでも伝わるように。優しく語りかけた月季に。小鳥はふと、暴れるのをやめ、まるで言葉を理解したかのように、未だその紅い瞳に怯えた光を浮かべているものの、じっと月季を見つめた。 本当に信じて良いのかと、問い掛けているように。 月季はふんわりと笑って、今度こそ小鳥に手を伸ばす。そっと触れて、そのまま持ち上げてみても、おとなしく自分の手の中に納まっていてくれる小鳥にほっとする。そうして、とりあえず再び小鳥をテーブルの上に載せ、落ちてしまった籠と布を拾い上げる。 きちんと整え直したそこに、またそっと小鳥を持ち上げて、載せる。 「おとなしくしてれば、きっとすぐに良くなるよ。そうしたら……」 そうしたら、空に還れば良いと。そう言いながら、月季の脳裏に浮かぶ、空の青。そこにこの鳥が飛び去って行く様。二日後に旅立つ自分では、見ることの出来ないであろう情景に、どこか憧れ気持ちを抱きつつ、月季は小鳥の羽根を指で撫で。 「あ……」 すっかり忘れていた、手の傷。血はもう固まりかけているけれど、まだ固まっていない、ぶよりとした部分が小鳥の銀色の羽根に臙脂色のシミをつけた。よく見れば、先程零れた血も、小鳥本来の紅い模様に混じっている。 綺麗なモノを汚してしまった罪悪感のようなモノが、月季の胸に満ちて。月季は思わず謝っていた。 「ごめん……」 『ごめんなさい……』 と。 月季自身の声にかぶさって、もう一つ。声が聴こえた。 「え?」 空耳だろうか、けれど、今確かに。 この部屋に居るのは、月季だけ。別の部屋に泊まっている人間の声という可能性もあるけれど、それにしては、ささやく様な小さな声だったから、多分ありえない。しかし、月季しかいないこの部屋で、月季以外の声が聴こえるなんて、ありえない。 いや。 人間ではないけれど……この部屋には、月季以外も存在している。 「まさか……」 目の前の、小さな存在を見つめる。 「今喋ったのって……お前?」 しばし見つめ合う一人と一羽。小鳥はきょとんとしたように首を傾げて、月季のことを見上げている。一種、緊迫した空気が流れる。そう感じたのは、月季だけかも知れないが。 「……まさかだよねぇ」 はふ。詰めていた息を吐き出して、月季はテーブルの前に座り込んだ。 「ほんと、だめだよね、僕。鳥が喋るなんて、御伽話みたいなことある訳無いのに。こんなことばっか考えてるから……」 気が抜けた瞬間、別の腺も緩んだように、頬を何かがぽとりと伝う。 蔡軌の力を見せつけられてから――いや、『世界の果て』への審査が決まってから月季の中で渦巻いていた、情けなさとか、悔しさとか、これから先への不安とか。そんないろいろが混じり合って、水になって。 驚いて、止めようと思っても。そう想って止まるモノではないのが、涙というモノ。無理に抑えようとすれば、今度は逆に嗚咽まで漏れてきて。 個室で本当に良かったと、暑くなってきた頭の片隅で月季は思った。こんな情けない姿、例え仲間であっても――いや、仲間だからこそ、絶対に見られたくは無い。 『……泣かないで……』 確かに。今度こそはっきりとすぐ近くで聞こえた。耳で聴こえるというより、直接頭の中に響いてくるような、そんな声。がばりと起き上がった月季の眼に映るのは、自分が拾ってきた銀色の小鳥。小鳥はくるりと首を傾げて、そして嘴を開いた。普通なら。そこで聴こえてくるのは、音楽のような囀りのはず。しかし、零れてきたのは……。 『涙、止まった?』 まるで水の流れのように透明な、けれど水晶の硬質さを秘めた、楽器を思わせる――少女の声。 「え? え!? あ……」 とっさに頭が働かずにパニックに陥りかけた月季だったが、その驚きのせいかそう言われてみれば確かに、いつの間にか涙は止まっていた。そのことに気付いた途端、それまでの驚きが臨界点を突破してしまったようで、小鳥をじっくり見つめる余裕も出て来た。 「えっと……お前、喋れるの?」 とりあえず、一番の疑問点について言及してみる。小鳥は、どうやらそれが癖らしく、また小首を傾げながらはっきりと答えた。 『……私も、まさか貴女と話せるとは想わなかったけど、なんだか話せるみたいね』 それを聞いた時、月季が感じたことはといえば。 「……そんな、他人事みたいに……」 がっくりとした自分を責められる人間は、おそらく誰もいまいと。月季は心の底から思った。 「大体! なんで鳥が喋れるの!? 話す器官とかの構造違うんじゃないわけ!?」 がっくりした反動でか、少し腹が立ってきた月季は、責める様な口調で捲くし立ててしまう。……なんだか話し方が砂礫か鏡かの受け売りのような気は自分でもしたけれど、そこら辺はとりあえず無視。 『私だってびっくりしてるわ。それに……私、元は鳥ではないもの』 「……へ?」 返された小鳥の言葉に、月季の思考は一瞬止まった。 「えーとー……、つまり、元々は人間だった。ってこと?」 『人間、というのは正確ではないのだけど……まあ、そんなところかしら』 真っ白になった頭で、それでもなんとか状況を理解して解釈して。辿り着いた結論を問うてみれば、返ってきたのは曖昧な答。おそらくは、人族以外の種――例えば、獣に似た容姿を持つ獣人とかの出身なのだろうと、これまた自分なりに解釈する。 「じゃあ、どうして今は鳥なの? 悪い魔法使いに呪いでも掛けられたとか?」 ありえないとは思うけど。いや、もう充分非常識なことが起こっているのだから、今更ありえないはない、か。 『それも、……当たらずとも遠からず……といったところかな』 ほんの少し困ったような返答は、やはり先刻と同じにはっきりとはしないもので。話を変えるように、どこかおずおずとした様子で、小鳥が話し掛けてきた。 『あの……』 「何?」 『あなたが助けてくれたの?』 そう言われて、ようやく思い出す。自分がどうしてこの小鳥を拾ってきたのかを。小鳥にしてみれば、自分がどういった経緯で今この場所に居るのか、見当はついても一応確認したくなるだろう。元が人(のようなモノ)だとすれば、尚更だ。 「うん。砂狼に襲われてたらしいね、お前。僕達はその群れとバッタリ遭遇しちゃってさ。そこでお前のこと見つけたんだよ」 『そう……。ありがとう、助けてくれて』 綺麗な声で礼を言う鳥という異常事態ににだんだん慣れてきてしまっている自分に気付いて、月季はなんとなく微笑んだ。 「どういたしまして。それで、どうしてあんな所にいたの? あなたの姿を変えた悪い魔法使いの棲家はあの辺にでもあるの?」 ふざけた気持ちで尋ねてみたけれど、それに対する答はなかなか返ってこない。小鳥は困ったように下を向いてしまっていて。その様に、何か聞かれたくないことに触れてしまったと悟る。 「あれ?もしかしてマジにそうだったり……? ごめん、言いたくないなら、無理に言わなくていいから」 なんだか気まずくて、そっぽを向きながらそう言うと。今度はぽつりぽつりと言葉が返ってくる。 『ううん、私こそ、ごめんなさい……。でも……言えないの……』 どこか辛そうなその様子につられたように、月季の胸もちくりと痛んだ。じわりと広がる、誰かを困らせてしまった時に感じる、重たく圧し掛かるカタマリ。それを振り払いたくて、月季はいつもそうするように、明るく元気に――そう装って、言葉を紡ぐ。 「いいってば、気にしなくて。くよくよしてると傷の治りも遅くなるし!」 月季のその声に、小鳥は弾かれたようにびくりと身を震わせた。 「大丈夫。お前の世話は……ちょっとの間しか見れないけど、でも、それまでは僕がしっかり見てあげるから!」 『……ダメ!』 間髪入れずに響く、鋭い拒否の声。いや、鋭いというよりも、拒否というよりも。 「どうしたの……?」 小さく震える身体。それは、先程目覚めた時のことをどこか思い起こさせて。あの時のように、怯えて、いる? 『私は……私は大丈夫だから。これ以上、あなたにご迷惑をかける訳には……』 「迷惑なんかじゃないって! ほんとにどうしたんだよ突然!? 怪我酷いって自分で判ってるの!?」 急によそよそしい様子になった小鳥に、月季の苛立ちも募る。けれど。 「お前拾ったのは僕なんだから。だからちゃんと責任持つのが筋でしょ? 少なくとも、僕はそう教わってきた」 なんとかその苛立ちを押さえつけて、月季は小鳥に語りかける。 「何か訳があるならさ、話してみてよ。僕に出来ることなら……」 力になるからと。そう言いかけて、月季は口を噤んだ。 力になんてなれるの? この、情けなくなる程に無力な自分が? 月季の沈黙を、小鳥がどう解釈したのかは判らない。ただ、先に口を開いたのは、小鳥の方だった。 『違うの……あなたの言うような意味での迷惑をかけたくないと、そう言っている訳ではないの。でも、理由はいえないけれど、お願いだからこれ以上私に関わらないで。あなたは私を砂狼から助けてくれた。傷の手当てをしてくれた。それだけで充分よ、本当に感謝してる』 小鳥が、どうやら自分のことを案じて、その上で関わるなと言っているのは月季にも判った。判ったけれど……納得出来ない。小鳥のためではなく、自分自身のために。 もしもこのまま小鳥との関わりを捨ててしまえば。自分はこの後ずっと後悔するだろう。例え、そのずっとが二日後――『課題』の実施日――までのモノになったとしても、そんなのは嫌だ。いや、だからこそかもしれない。最後に悔いの残らないように。 「ねえ、聞いてくれる?」 出した声は、月季が意図したものよりも、ずっと穏やかだった。 「僕はね、二日後に『世界の果て』に挑戦するための審査を受けるんだ。仲間と一緒に」 突然の、何の脈絡も無い話に、小鳥は面食らっているようだ。しかし、おとなしく話は聞いてくれているので、月季はそのまま続けた。 「その審査ってのがさぁ、その辺りを行く船をみんな沈没させちゃう魔物がいる海を無事に渡れってのなんだ」 驚いたような空気。何か言おうとしている小鳥を無視して、月季は言う。 「だからさ、この審査で僕はもしかしたら死ぬかもしれない。そんな審査の前に、お前みたいな怪我したイキモノ放っておいたら、僕は絶対後悔する」 真剣な眼差しを小鳥に向けて。例え屁理屈だとしても、どうしたって譲ったりしない。 「だから……僕がここを出発するまででいい。面倒見させてよ。後悔し続けて、審査に失敗しないように。ここを発つ時に、お前は誰かに預けてくから、その時は好きにしたらいいから。それじゃ、ダメかな?」 君のこと、深く追求したりしない。だから……。 願いを込めて、小鳥を見つめる。 もう、今日何度目かで流れる沈黙。破ったのはやっぱり小鳥。 『……判りました。ただ……何か起きたら、私のことなどすぐ捨ててくれると約束してくれるなら』 「つまり、何も起きなきゃいいんだね」 ぱあっと、月季の顔に笑みが浮かぶ。その笑顔を見て、小鳥も何だか嬉しくなる。 この人には、ずっと笑ってて欲しいな。 そう思ったところで、月季が何か思い出したように手を叩いた。 「そうだ! 名前! まだ聞いてなかったよね。僕は月季っていうんだ、君は?」 『私は……私の名前は銀河』 「じゃあ、よろしく銀河。短い間だけど、一緒にいてね」 握手のつもりか、人差し指を差し出してくる月季に、小鳥――銀河は、嘴でその指を軽く突付いて答える。 『こちらこそよろしく、月季。私でいいなら……側にいるわ』 一緒にいてね。 側にいるわ。 それら言葉の持つ意味と重さを、二人はまだ、知らなかった。
|