全くもって腹立たしい。彼は苛立ちを抑えつつ地界の、先程までは己が傀儡の存在していた場所から意識を戻した。 砂狼を使い、彼の者を襲わせたところまでは良かった。あのままなら、彼の者は看取る者もないままに、獣達に喰い殺されて果てていただろうに。しかし……。 本当に、お節介な輩というモノは、何処にではいるのだ。通りかかった人間に助けられ、彼の者はまだ生きている。 居場所を掴めているということだけが、不幸中の幸いといったところか。 とにかく、ぐずぐずしている暇は無い。助けた人間たちの中に『あいつ』がいたのだから。いくらこちらの都合はお構いなしの奴とはいえ――お構いなしだが、迷惑ばかりかけてはくる奴だ。下手に接触すれば、この計画自体がおじゃんになりかねない。 大きく舌打ちをして、意識を地界に戻す。 彼の者には、なんとしてでも『事故死』して貰わねばならないのだ。 「銀河? 果物で良かったかな、林檎なんだけど」 昨日からの雨は勢いを弱め、けれど未だにしとしとと降り続いている。朝食を終え部屋に戻ってきた月季の手には、皿に載せた林檎があった。 『ありがと、月季。貰ってもいいの?』 嬉しそうに答える小鳥――銀河は、昨日よりも大分具合が良さそうに見える。 「もちろん。しっかり食べて、早く元気にならないとね」 皿を銀河の前に置き、まるで本物の鳥のように――といっても、実際今は鳥なのだけれども――嘴で林檎をつつく銀河を見ながら、月季は出かける仕度を始めた。 『……月季? 何処か行くの?』 それに気付いて問いかけてくる銀河に、上着に袖を通しながら月季は答えた。 「ん、ちょっとね。蔡軌に聞いたら、銀河のこと預かってくれそうな心当たりがあるって言うから、一緒に頼みに行くんだ」 月季の言葉に、銀河は申し訳なさそうな様子を見せる。 『わざわざ、ごめんなさい、私のために。……でも、私は……』 消えていく言葉じりに、銀河が何を言いたかったか察して。 「いいってば、気にしなくて。何度も言ったでしょ、僕の自己満足のためだって」 そうやって明るく言うと、銀河はまだ少し申し訳無さそうに、でもほっとしたような雰囲気で、いってらっしゃい、と口にした。 銀河は、割合と素直な性格であるらしい。自分のことは未だにはっきりと明かさない辺り、かなりの頑固者でもあるようだけれども。 行ってきますという言葉を残して。月季は部屋を後にした。 「で、蔡軌のココロアタリってのはどんな人なの?」 並んで道を歩きながらの会話。月季の現在一番の関心事はそれだった。 足を進めながら、ちらりと周囲に目をやる。月季がこのユージスの港町にくるのは、実は初めてのことではない。まだ小さい頃に一度だけ、両親に連れられて、来たことがあった。その時は鏡も一緒で……砂礫だけ、来ていなかった。だから、その頃はまだ、砂礫の母親が生きていた頃だったのだろう。 砂礫の母について、月季が覚えていることは、そう多くない。ただ、子供心にも恐ろしいほど美しい人だったというイメージだけが、ぼんやりと残っている。 「優しい、動物好きの方なんだけどね。彼女とは、彼女の以前の職場で知り合って――昨日、偶然会えたんです」 前の職場。ということは、おそらく左遷なり何なりされたのかもしれない。そう、月季は思ったけれど、口には出さなかった。この町はかなり寂れているということくらい、月季にも判る。でも、以前に来た時のこの町は、もっと広く賑やかだったように、月季の記憶には残っている。 それはきっと、半分だけの真実。広く感じたのは、あの時の月季がまだ小さかったため。成長した今では身体のサイズが大きくなった分、あの時程広く感じないのは当たり前だ。変なところで自らの成長を実感した月季だったが、もう一つ――この町が寂れている理由を思って気を滅入らせる。 やはり、例の魔物のせいで人が離れていってしまったから。今、この街は寂れてしまっているのだ。 「……月季? 月季、着いたよ。どうかしましたか?」 蔡軌の声にはっと我に返れば、彼は一つの建物の前に佇んで月季を待っていた。 「ああ、ゴメン。ぼおっとしてた」 月季は謝りながら蔡軌に駆け寄った。 蔡軌に紹介された女性は、話に聞いていた通りの優しそうな人だった。銀河のことを――『彼女』の抱える複雑な事情についての説明は省いて――頼むと、快く了承してくれた。 「私はもう少し用事があるから、悪いけど月季は先に帰っててくれるかな?」 「いいって。蔡軌ってば、僕のこと何だと思ってるの? 小さい子供じゃないんだからね」 明日、出発前に銀河を預けに来ると約束して彼女と別れた後、蔡軌はすまなさそうにそう言って。子ども扱いされたような気がして。月季は少し不機嫌に答えた。 「そうですね、失礼しました」 そんな月季の心理などお見通しの蔡軌は、苦笑を噛み殺しながら答えた。おそらく月季は、子供でないとムキになって否定することこそ子供たる証だとは気付いていないのだろう。けれど、わざわざそんなことを言って、月季を余計に怒らせることもない。 「じゃ、お先に。……いろいろありがとね、蔡軌」 くるりと踵を返して歩き去ろうとして、ふいに何かを思い出したように、月季は振り向いて。少し照れくさそうに蔡軌に礼を言った。 「どういたしまして。気を付けて帰ってくださいね」 「だから僕は子供じゃないってば!」 今度こそきっぱり背を向けて建物の出口の方へと去って行く月季。どうやらやっぱり怒らせてしまったらしい。一人くすくす笑っている蔡軌に、誰かが声をかけた。 「あんまりあいつをからかうなよ……。すぐにムキになって扱いづらいんだからさ」 振り向けば、うんざりとしたような顔で歩いて来る鏡と目が合った。 「からかってるつもりは無いんだけどな。どうも月季は私のことがお気に召さないようで」 「あー……そうみたいだな、悪い」 はあとため息をつきながら謝ってくる鏡を、蔡軌は不思議そうに見た。 「いや、別に君が謝ることではないと思うけど?」 「いーんだよ、あいつはどうせ、お前に知られてるなんて気付かないだろうし。代理だと思って受け取っておけ」 蔡軌の言葉に、鏡はがりがりと頭を掻きながら答えた。その言葉の意味は判るけれど、そんな考え方は蔡軌にとっては新鮮なもので。気が付くと、微笑みながらこう言っていた。 「大切にしてるんですね、彼らのこと」 知り合ってまだ間もないけれど、彼が仲間である二人のことを何より大事にしているのは、良く判る。 「ほっとけ。だいたい、この話の流れで何故そうなる!?」 ぷいとそっぽを向く鏡。照れ隠しだということは明白だったけれど、それにこそ気付かないふりをして――まあ、鏡のことだからこちらの意図くらいは判っているだろうけれど――さらりと話を逸らす。 「ところで、鏡はここで何をしてるんですか? 私に何か手伝えることがあるなら手伝うけれど」 「ああ、一応現地でも情報集めておこうと思ってな。ここでいろいろ話をまとめてるらしい」 おそらくは例の魔物の資料であろう紙束を指し示しながら答える鏡。 「ああ、それなら今から私も行こうと思っていたところだった。後でまとめて伝えようかと思っていたんだけど、だったら一緒に行きますか?」 「そうするか、せっかくだしな」 そして、蔡軌と鏡は連れだって目的の場所へと歩を進めた。 子供扱いしてっ! 一言で言い表すなら、月季の現在の心境は、まさにこの一言に尽きる。蔡軌の予想通り、子供扱いされて怒るところが大人げないのだとは、冷静さを欠いた月季の頭には浮かぶはずもなく。苛立ちついでに注意力も散漫になっていた月季は、結果として。 「うわっ」 「……っと」 入り口の扉から通りに飛び出した途端、人にぶつかった。 「ごっ、ごめんなさい! ちゃんと前見てなくて……」 慌てて相手に謝るけれど、返事が無い。おそるおそる頭を下げた状態から、目線だけ相手を見上げると。月季のことなど眼中に無さ気に目の前の――つまりはさっきまで月季がいた建物を、ほとんど睨みつけているような迫力で見上げている少女が目に入った。 「……あの?」 おっかなびっくりと。もう一度声をかければ、少女ははっとしたように月季を見た。 「あ、ごめんなさい! 私の方こそ別の所に気を取られてたから……。怪我は、無い?」 否定の意味で首を振ると、少女はほっとしたようにもう一度、「ごめんなさい」と微笑んだ。月季も同じように謝って、彼女の横を行き過ぎる。宿の方へと向かいながら、月季はこっそりと振り返ってみた。少女はまだ、同じ場所に佇んでいる。 少しくすんだ赤銅色の髪が印象的な、大人びて凛とした美少女だった。こういっては何だけれども、こんなみすぼらしい港町の住人とは到底思えない。むしろ、都のような華やかな場所に居ることこそ相応しい、そんな気品の持ち主。 そんな少女がこの建物に何の用だろうと、月季が再び振り返った時には。彼女の姿はもうそこにはなかった。 「まったく……」 苛立たしげに舌打ちをして、少女は目の前に聳える建物を見上げた。吹き抜ける風が、彼女の赤銅色の髪を乱す。それを手で押さえつけて、顔にかかった髪を払いのける。そのため、はっきり見えるようになった彼女の顔には、明らかな嘲笑が浮かんでいた。 「腐れ縁……って言うのかしらね、これは」 そして。少女は再び建物を、その中までも見通しているような瞳で睨みつけて。 その瞳をふっと逸らすと、先ほどぶつかった相手とは逆の方向へと歩き出した。……小さな呟き一つを残して。 「……元気なら、いいけど」 少女はそのまま、振り返りはしなかった。
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