月季が部屋に戻ると、そこにはすでに先客がいた。 「よお、お帰り月季。邪魔してるぞ」 起きた時にきちんと整え直しておいたベッドに座って、サイドテーブルの上の小鳥――銀河を構っている砂礫の姿が。幼い頃から家族同然、云わば兄弟のような存在である彼が勝手に部屋に上がりこんでいることについては、今更別に構いはしない。そう、いつもなら。 だけど、今は銀河がいるのだ。 「何か用?」 上着を脱ぎながら、極力何でもないような素振で。砂礫が銀河に何かするとは思わない。けれど、それでも、銀河を護らなければという、意味不明の使命感を月季は抱いていた。 「いや、別に用って訳じゃないけど……。暇だったし、さ」 ついついと指先で銀河の頭を突付きながら、砂礫は答えた。 「だったら遊んでないで、部屋で休んでたらいいでしょ。出発は明日なんだよ、判ってる? 後、銀河は怪我してるんだから乱暴に扱わないでよね」 「へえ、銀河っていうのか、コイツ」 「話を誤魔化さない!」 砂礫が言い返せないように、明日の出発を楯にして。でも、これに関しては実際に心配でもあるから。月季だって、この後はゆっくりと、明日に備えて休むつもりだった。明日のことは、もう、今更じたばたしてもどうしようもないこと。下手に疲れを残していたり、緊張のあまり体調を崩していたりしては、良い結果など出るはずも無い。 ましてや、砂礫は自分たちの『要』なのだから。 「けど……」 「けどもデモもクーデターも無い! そんなんで、明日何かあったらどうするんだよ! 判ったなら、部屋に戻って休むなり何なりしなよね」 砂礫に対する心配半分、この部屋にいて欲しくない気持ち半分から出た言葉。――正確にいえば、後者の気持ちは銀河への気遣い以外にも、もっと別の理由もあったけれど。それには気付かない振り、で。 「ちぇ。判ったよ。じゃ、また夕飯の時にな、月季。じゃあな、銀河」 不承不承、立ち上がった砂礫は、最後にもう一度銀河の頭を突っついてから、砂礫は出て行った。 『別に私のこと、言っても良かったのに。月季が信用している人なら』 「うん……でも……」 言わなかったのは、子供っぽい独占欲のせい。この綺麗な小鳥の背負う秘密を、自分だけのものにしておきたかったから。 でも、と言ったまま黙り込んでしまった月季に、銀河は何も言わなかった。あるいは、単に別のことに気を取られていたためかもしれないが。 『それより、良かったの? 彼、月季と一緒にいたかったんじゃないの?』 代わりに銀河が口にしたのは、月季には思いもよらないことで。 「は? なんでそうなるワケ?」 うじうじとした気分が一気に吹っ飛ぶ。むしろ呆気に取られてしまう。 『だってあの人、月季のことが好きなんでしょう?』 「なんでっ! お前がそれを知ってんだ!?」 思いもかけない言葉その二、月季は顔を真っ赤に染めて銀河に食って掛かった。鏡の口から出た言葉なら、まだ納得は出来る――いや、内容についての納得は、したくないかもしれないけれど。まあ、それは置いておいて。 『だって、そう言ってたもの。月季のことが好きだって』 「あ……そ」 脱力。 なにやら、銀河と話していると、どうも力の抜けてしまうことが多い気が、する。 というか、あの男はいったい何を言っているのだ何を! 『月季のこと、いろいろ聞いたわ。というか彼自身、例え返事が返ってこなくても、誰かと……何かと、話していたかったみたい』 「ふーん……。やっぱりあいつも、少しは緊張でもしてるのかな?」 先程まで砂礫が座っていた場所に、今度は月季が腰を下ろして。手近にあった枕を抱き寄せて、なんとなく両手に抱えて弄ぶ。 『そうなんでしょうね。やっぱり彼も不安なんじゃないかしら。……こう言ってはなんだけれど、聞いた限りでは、月季たちの審査って生還率が高いとはけっして思えないし』 「判ってるよ! 判ってるから、あんまりはっきり言わないで欲しい」 いくら自分達が承知していたって、部外者にこうもはっきり言われては、やはりへこんでしまう。 『あ……ごめんなさい。月季は当事者なのに、私、無責任なこと言ってしまって……』 「いいよ、もう。僕こそキツいこと言ってごめん」 しょぼんとしてしまった銀河に、月季の方が罪悪感を感じてしまい。なんとなく気まずくて、とりあえず月季も謝って。そのまま、二人とも黙りこむ。けれど、どれはどこか判り合えた様な、居心地の良い沈黙。 何故だろうか。出会ったばかりの――それも、けっして普通とは言えない形で、だ――二人なのに、まるで数年来の友人と過ごしているかのような、不思議な相手への信頼を二人ともが感じていた。 『あの、ね』 ふいに、銀河がポツリと口を開いた。 『勘違いだったら悪いのだけれど……、月季もあの人のこと、好きなんじゃない?』 今まで、いろいろな知り合いだの友達だのに言われたのと同じ言葉。でも、もうそれほど狼狽する気にもなれなくて。……銀河になら、この気持ちを話せるような気がして。 「わかんないんだ……」 抱えていた枕に鼻を埋める。そうすると、ほんの少しだけ呼吸が苦しくなる。発する声も、少しくぐもる。 「好きなのは、そうなんだ。大好きって、ちゃんと言えるよ。だけど、銀河が言ってるのって、そういう好きじゃないだろ?」 『……ええ』 ぷは。 流石に苦しくなってきて、月季は枕から顔を上げる。そうすると、当たり前だけど肺に流れ込んでくる新鮮な空気。 「ほんと、わかんないんだよね。レキが、っていうより、恋愛の好きが。親愛の好きとどう違うわけなのさ。僕は、鏡ってもう一人の幼馴染、そいつのことも好きだし、銀河のことだって好きだし。なんで区別つけなきゃいけないんだろう。区別つけないと――一緒にいられないの、かな」 台詞の語尾と一緒に深い深いため息を吐き出して。急に思いついて、逆に銀河へと話を振る。 「そういや、銀河は? 好きな人いるの?」 『え?』 今度は銀河が絶句する。と思ったら、動揺しているのが丸判りに、あたふたとし始めた。 「いるんだ?」 その様子に答えを確信して、月季の声が笑いを含む。 『……うん』 おそらく、人間の姿だったなら真っ赤になっていただろう。そんな風に俯き加減の銀河の答え。 「どんな人? 恋人なのか?」 好奇心丸出しで尋ねる。 『恋人……じゃなくて、婚約者なの。生まれた時からの』 「へえ! ってことは、銀河ってば、いいとこのお嬢様なんだね」 言われてみれば、確かに銀河の言葉づかいなどは、男ばかりの中で育ってきた自分よりも、よほど女らしい。 「平和でいいじゃん、婚約者が好きなんて」 そういう家柄での結婚は、大抵が政治的な意図のみによる、本人の意思は無視した家同士のものだと聞く。そんな中で婚約した相手を好きになれたというなら、それはきっと幸せなことなのだろう。 「銀河はさ、その人のこと、そうして好きなの? ってか、その好きってどういう感じ?」 好奇心と真剣さが綯い交ぜになった声音。おそらく月季は、銀河の気持ちを参考としたいのだろう。そして、量りたいのだ、自分の、砂礫への想いを。 どうか。自分の気持ちが、少しでも月季を導ける指針となれるのならば。そう思う、願うのだけれど。 けれど。 『ごめんなさい、なんで好きかって言われても、私にもよく判らないの。覚えている限り、ずっとそうだったから……。ただ、あの人のことが、誰よりも何よりも好き。父上様より母様より、義兄様よりも、大好き。そう……私の特別なの、彼は』 銀河はきっと今、その相手のことを心に描いているのだろう。少し遠くを見るような眼をして、銀河は続けた。 『多分ね、私が最後の最後に選ぶのは、きっと彼なの。どんな選択肢が目の前にあったとしても、私は、彼のいる方を選ぶわ。あるいは、彼にとってより良い道を。それが……私の好き。私の彼への好きな気持ち』 ふ、と。視線を月季に戻して。銀河が申し訳なさそうに首を傾げた。 『ごめんなさい、あまり参考にはならないかもしれない。でも……話して、なんだか気持ちの再確認が出来たみたいな気がするわ。……ありがとう、月季』 奇しくも、二人ともが溜め込んだ思いを口に出して言うということは初めてだった。そのことを、お互いは知らないけれど。 「え? いや、僕が話してって頼んだんだし。……でも」 言いたいけれど、言ってしまって良いのだろうか。今、自分が感じたことを。 『何? どうかしたの?』 前と同じように、でも、と言って黙り込んだ月季に今度は、銀河は問い掛けてきた。 銀河は人の感情に敏感なのかもしれない。聞かれたくない時には聞かないでいてくれたし、聞いて欲しい時には、こうやって聞いてくれる。 「銀河って……いーこだよなあ」 『は?』 思わず、しみじみと言った月季を、当然ながら銀河は怪訝そうに見た。 「あ、ううん。ただ、そう思ってさ」 そう言って、一端言葉を切る。どういう風に言うべきか、考えながら再び月季は口を開いた。 「なんか、さ。僕にはやっぱりそういうのわからないや。銀河みたいに、たった一人だけを絶対選ぶって……そういう自信、無いもん。それに……なんか怖いんだ、そこまで一人だけを選んじゃうのって」 自分が砂礫一人だけを選べるかというと。他にも捨てられないと思うモノがたくさん脳裏をよぎる。鏡だとか、エルドラドの仲間たちだとか、『世界の果て』に行った両親だとか。 「やっぱり……僕、レキのこと好きじゃないのかなあ……」 また枕に埋まってしまった月季を、銀河は困ったように見て。穏やかなような淋しいような、複雑な声で語りかけた。 『好きっていう気持ちの在り方は、きっと一つだけじゃないの。私はたった一人を選べるけど……私の好きな人は、私だけを選んではくれない』 「え?」 月季は驚いて顔を上げた。対する銀河は、いっそ悟りきってしまったかのように淡々と、言葉を続けた。 『彼は、ちゃんと私のことも好きでいてくれるのは判るの。でも、彼には、他にもたくさん背負わなければならないものがあるから。形は違うだろうけど、月季は彼と似ているのかもしれない』 「それで……寂しく、ないの? 銀河は」 そんな風に、全て当然のことのように話す銀河がどこか悲しくて。月季はおそるおそる尋ねた。 『仕方の、ないことだもの』 悟りではなく、諦めを。その声音の中に感じた月季は。 『げ、月季?』 傷には障らないように、そっと。銀河を抱き上げ、緩やかに抱きしめた。 「別に、いいじゃんか、本当のこと言っても。ここには、本当の銀河を知ってる奴なんていないんだから!」 『月季……』 腕の中の小さな塊から伝わってくる温もり。銀河が迷っていることが、何故だか今の月季には判った。そして、銀河がずっとその気持ちを押さえつけてきたことも。 『じゃあ……』 ゆっくりと、紡がれる言葉。 『ほんの……ほんの少しだけ、愚痴を言っても――良い?』 頼りない声に、月季は頷くことで答えた。 『一緒に……彼と一緒にいるでしょう? その時、彼は絶対私のことだけ考えてるってこと、ないの。いつも、同時進行で他のことを考えてる。でも、それをやめて、私だけ見てって言えないの……だって、その考えてることが、彼の背負っているモノに対する責任なんだから』 ぽろぽろ。零れる涙。本当の鳥はこんな風に瞳から涙を零すのか、どうか。月季は知らないし、今はそんなこと、どうだっていい。ただ、そおっと背中を撫でるだけ。 『ねえ、私ってワガママなのかな。ただ、私を――私だけを好きになって欲しいの。同列一位じゃ嫌なの。あの人の一番になれるなら……それだけで良いのに』 血を吐くような。そんな言葉を、月季は思い出していた。前に、鏡の小説を読んだときに出てきた表現。血を吐くような叫び。その時にはよく判らなかった、それはきっと、今の銀河の叫び。 『皆、そう。私のこと好きって言ってくれても、それが本当でも……絶対、一番好きにはなってくれないの』 ワガママといえば、ワガママといえるだろう。誰にも愛されていない者からすれば、贅沢者の一言で詰られること請け合いだ。 だけど銀河は。最後の時に、たった一人を選べると言い切ったこの小鳥は。 「銀河は、怖い? 最後に誰も自分を選んではくれないかもしれないって……置いて行かれるかもしれないのが、怖い?」 月季の言葉に、銀河がびくりと震える。昨日の夜とそれは似ていて、でも違うのは、今の二人には不可思議な、それでも確かな心の繋がりが出来ていること。 『怖い……よ。いつか一人になってしまいそうで、置いて行かないでって……。でも……でも、そんなこと考えてる自分が一番大嫌い!』 吐き捨てて、それっきり銀河は何も言わなかった。月季も、何も言わなかった。ただ、二人ひっそりと身を寄せ合っていた。 その後、夕飯を食べて、明日に備えてミーティングをし――といっても、もうほとんどのことは決まっているので、最終確認みたいなものだったけれど――、お風呂に入ったり銀河と他愛無い話をしたりして……そして。眠った。 次に目覚めたら。それはすべてが決まる朝。 もう、後には戻れない、朝。
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