「ふん……。これはこれで、都合が良いかもしれんな」 地界の様子を、送り込んだ手先の目を介して眺めながら一人ごちる。 すうっと意識を集中させ、彼は。彼の駒にちょうどいい、先程見つけた人族へと、その力の手を伸ばした……。 昨日の灰色はどこに行ってしまったのか、見渡す限り晴れやかな青と白。雲が残っているのが多少気になるけれど、まあ船出にはぴったりの日和といって構わないだろう。 国の基準からすれば小さい部類に入る港に着いている船を見上げて、月季は、ほんの少しだけわくわくしていた。船に乗ったことなら、今までにも何回かある。でも、今回は今までとは違う。今回は『特別』なのだ。 そう考えると、今度はまた様々な不安が、胸をよぎる。審査に対する不安……はもう今更として、もう一つは、さっき別れてきた小鳥のこと。 銀河とは、朝、宿を出る前に、一応の別れの言葉を交わした――お互い、他人のいる所では話したくはなかったから。 自分が、帰って来られるかは、まだ判らないけれど、少なくとも帰ってくるまで、銀河は預けたままの場所にいるだろうか。怪我が治ったら放してくれるように頼んだから、いないような気はするけれど……でも。それを同じか、もしかしたらそれ以上の割合で、またあの声を聞けそうな気もするのだ。 ふわりと空を見上げたその拍子に、銀河が別れ際に告げた言葉を思い出した。 「こら月季。何ぼんやりしてんだ?」 砂礫の声と一緒に、こてんと軽い拳が落ちてきた。 「せめて自分の呪機の運び込みくらい手伝えっての。重いんだからさ」 そう言う砂礫自身、月季の呪機のパーツの一部を抱えているし、周りを見れば、それ以外の荷物を積み込んでくれている手伝いの姿も見える。 「あ、ごめんごめん! 今やるから!」 にっと笑い合ってから、月季は船に向かって行く砂礫の後ろ姿をこっそりと見た。 銀河が最後に言ったこと、それは。 後悔するようなことにはなるな、と。 とりあえず、何に対しても後悔する気などさらさら無い月季だったけれど。砂礫の姿を見ると、どうしても、まだ答えの出ていないあの疑問を思い起こしてしまう。 銀河があの言葉に込めたのは、きっと彼への気持ちの整理をつけろということだったのだろう。それとも……もっと別の、何か? 「おい、今やるんじゃなかったのか? 黄昏てるなら置いてくぞ?」 呆れたような声に振り向くと、どんっといきなり、重い塊を渡された。 「うわっ……! 何すんだよ、鏡!? びっくりした……」 「サボってるからだ、ほら、さっさと積み込む!」 はーいと――言い方はムカつくが、手伝わなければならないのは重々承知していたので――素直に返事をして、月季は渡された呪機の一部を持って船に乗り込んだ。 荷物を積み終わり甲板に上がると、風が潮の香りを運んできた。振り向けば、街を始めとした陸地。もう一度前を向くと、果てが無いようにすら思える、広い広い海――その向こうにあるはずのシェニファの陸地は、影すら見えない。まあ、距離を考えれば当たり前のことなのだか。 この、果てすら見えないその向こうに、『世界の果て』は存在するのだ。その場所を目指すための第一歩を、今、自分達は踏み出そうとしている。 「……あれ?」 再び振り向いた港、出発の挨拶のために集まりつつある人々の中に、月季は何やら楽しげに談笑している風な男女を見た。一人は、ものすごく見慣れた姿――砂礫。もう一人は、今朝会ったばかりの、銀河を預けた女性。彼女は、確か出発には来られないと言っていたのに、何故ここにいるのだろう。……何故、砂礫とあんなに親しそうに話しているのだろう。 女性は砂礫に頭を下げると、そのまま街へと続く道を辿っていった。その後ろ姿を見ながら、月季は、胸の奥がざわめくのを自覚せずにはいられなかった。 港の、これから乗り込む船の手前。用意されていたらしい口上をすらすらと述べる蔡軌を筆頭に、月季たちは整列して立っていた。それを見つめているのは、ユージス港町の冒険者組合のお偉いさん(らしき人)が数人。彼らと握手を交わすのは、このチームの代表者である砂礫。 「どうぞ、お気をつけて」 まったくもって、阿呆らしい。 それが鏡の率直な感想だった。 こんなことをやって、何になるというのだろうか。見送られたところで、危険が減る訳でも審査が楽になる訳でもない。何より、見も知らない人間に見送られたところで、嬉しくも何とも無い。これだったら、いつも口煩い鏡担当の編集者が見送りに来た方がマシだ。 「では、出航します。全員、船に乗るように」 蔡軌の声を合図に、砂礫、鏡、月季、蔡軌の四人は船に乗り込んだ。般用呪機で動くこの船には、審査に挑む傭兵のチームしか乗らない。関係者以外を巻き込まないために国際協定で組まれた規則なのだ。 けれど、まだ儀式は終わっていない。 ゆっくりと動き出し、港を離れていく船、その後部甲板で、見送っている人間達に対して、敬礼する。見えなくなるまで。 蔡軌は、心中を窺わせない無表情で陸に敬礼している。月季の敬礼は、不慣れなことが一目で分かるが、まあ仕方が無い。こんなに長く公式の場で敬礼していることなど、多分初めてなのだから。そんな風に観察している鏡も、実は初めてと言って差し支えないのだけれども。 そして、砂礫は。まるで型に嵌めたように綺麗な敬礼を、陸に向かって送っていた。けれど、それはどこか心ここにあらずといった雰囲気で。 多分、砂礫の心が今見ているものは、この青い青い空と海ではないのだろう。港町を越えた、そのまた向こう――砂礫の父と、今回の無謀な審査を企てた女のいる場所。砂礫自身も数回しか訪れたことのないその場所が、今の砂礫の目の前には広がっているのではないかと。 鏡はそう思った。 ふと、鏡の目の前に、鮮やかな赤が浮かんできた。幼い日に見た、あの赤が。 燃え盛る家、燃え盛る人、燃え盛る……家族の姿。そして――赤い光を受けてますます輝く、赤銅色の髪と、純白の色……。 あまりにもリアルに浮かんできた記憶に、くらりと眩暈を覚える。 何故、今になってあの光景を思い出したのか、鏡には分かっていた。 もしこの審査で死ぬようなことになれば、その時自分が思い出すのは、きっとあの光景だから。 自分の最期に映るのは、あの光景と……離れてしまった、赤銅色の少女のはずだから。 ユージス港を見渡せる高台に、彼女はいた。少しずつ小さくなっていく船を――月季達の乗っている船を睨みつけながら。 「さてと……」 半ば無理矢理に、視線を船から放す。でなければ、ずっと――見続けてしまいそうだったから。そんな暇は、無いのに。 「困ったわね……」 現在進行形で捜し求めている存在の気配は、欠片ほどにも感じ取れなくなっていた。どうしたことか切れ切れにしか感じ取れないそれを手繰り寄せて、この地に辿り着いたまでは良かった。それが、少し前からぱったりと途切れてしまったのだ。 何があったのだろうか。 考えたくはない、ないけれど、頭は勝手に最悪の事態を想像してしまう。 それに付け加え、最も出会いたくない人物が、この町に来ていたのだ。何度ニアミスをしそうになったか……いっそ、顔を合わせてしまった方が楽なような気もしたが、今の自分にはすることがある。第一、どの面下げて会えというのか。 最後に、最後にもう一度だけ、振り返ることを自分に許して。 「……か……み……」 小さく呟いた名は、赤銅色の髪を煽る風に掻き消された。
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