「てかさ、すんごい魔物が出てくるようなら、もっとこうおどろおどろしい天気になっても良いんじゃないの?」 空はどこまでも抜けるような蒼。しかしそれとは裏腹に、荒い波がこの状況の常ではないことを示している。月季自身も、己の呪機のパーツにしっかりと掴まってバランスを取っている状態だ。その隣では、砂礫も同じように月季の呪機に掴まっている。 「ま、そんなお約束通りには行かないものだろ、現実なんて」 そう言いながら右手を口元に寄せた砂礫は、その掌を噛み切った。溢れ出す血を気にもせずに、そのまま腰に帯びていた多節鞭――星蛇を手に取り、じゃらりと足元に打ち付けた。砂礫の掌の血が、星蛇へと伝わっていくに従い、鈍青をした鞭は鮮やかな、それでいて青とも緑とも紫ともつかない――あるいは、その全ての色を内包したような――色へとその姿を変えていく。それは、星蛇の力が発動した証。砂礫がもう一度甲板に打ち付けると、星蛇は砂礫の手の中で、瞬く間に長槍へと変形した。 「おい、様子はどうだ!?」 同じく甲板に出てきた鏡が、少しふらつきながら月季たちの元に駆け寄った。 「いかにもなんか出てきそうですーって感じの波なんだけど……」 「今のところは、まだ」 二人の言葉に頷きながら、鏡はなんとかバランスを保ちつつ甲板の手摺へ歩み寄り、海面を覗き込んだ。深い海の青は、波の砕ける泡と波紋とで、容易にはその懐を見抜かせない。 「いえ、よく見て下さい」 いつの間にか、蔡軌が鏡に並んで水面を覗き込んでいた。 「いいですか……ほら、二時の方向から!」 蔡軌の指差す方向で、何か……海の紺青とは違う色が揺らめいた、気がした。それがこちらに近づいてきたと思うが早いか、船全体を激しい揺れが襲った。 「私は操舵の方へ行く。手動に切り替えた方が避けられると思う」 そう言って、蔡軌は甲板の先に存在する操舵室へと走って行った。その隙に、今度こそはっきりと判るようになった影が、再び船へと向かってくる。 「ちっ、船が壊れる前に何とかしねえと……」 「砂礫、ちょっと空嗣を押さえてて!」 砂礫が月季を振り向くと、月季はいくつかあるパーツの一つに登っているところだった。砂礫は慌てて、月季が登るそれを支える。影が船に激突するかと思われた時、間一髪で船はその突撃を避ける。どうやら、蔡軌の言葉は伊達ではなかったようだ。 「命無き命よ、我が力により立ち上がれ!」 包みを解かれた月季の呪機。ばらばらだったいくつものパーツが、月季の声に応じるように、独りでに組み上がっていく。揺れる船の上、完全に組み上がった呪機がふわりと甲板に降り立った。 何処か微笑ましい、少し不恰好な、この場にはそぐわない大きな胴体と丸っこい手足を持つ――それは、ゴーレム。 「空嗣! 空よりの鉄槌を下せ!」 月季の言葉と共に、空嗣がぎくしゃくとした動きで腕を空に掲げる。その両腕が淡い燐光を纏い始め、それは瞬く間に激しい電撃へと姿を変える。そして、空嗣はその腕を海面へと勢い良く振り下ろした。 これが、月季の呪機の力。かつて、月季の両親がとある依頼の際に手に入れたモノだったのだが、二人とも呪の才能は無かったため、エルドラドの倉庫の片隅で、すっかり忘れ去られていた。それを動かしたのが二人の娘の月季で。かくて持ち腐れだった宝は、主人と名前とを得て、月季の重要なパートナーとなった。雷撃以外にも、幾つかの能力を持つこのゴーレムは、現代最強の呪機の一つと言って差し支えない。ただ、扱い辛さにおいても天下一品で……今のところ、月季にしか扱えない代物だ。 グ――ォォォ――ゥゥゥ――ィィ…… 電撃は海へと直撃し、水を伝って魔物へと届いた。言葉ではうまく表記できない、むしろ振動に近い雄叫びが波底から響く。 次の瞬間。 波を割って、巨大なイキモノが姿を現した。 魔物という言葉の持つグロテスクさは、それ程感じられなかった。どちらかというと、未知の生物を目前にしているような、そんな気分に月季はなった。半ば海面に隠れた太い胴体には長い首が、その先の頭部には二対の目と鋭い牙を持つ口。その目と口を除いた全ては闇紫色の鱗に覆われていて、ぬめぬめとした印象を受ける。 しかし、この魔物が。この魔物が多くの船を沈め、この航路を使用不能にし。それを利用して砂礫を合法的に『殺す』ための口実とされたのだ。 「さて、と……戦闘開始と行くか!」 「月季、落ちた時には回収頼む!」 そう言うが早いか鏡は銃を構え、魔物の目を狙う。同時に、砂礫も魔物目掛けて飛び上がった。 鏡の放った銃弾は、船に喰らい付こうとした魔物の動きで目標はずれたものの、首の辺りを打ち抜いた。銃弾による衝撃と蔡軌の操舵のおかげで、船は魔物に食われる羽目にはならず。その隙に魔物の背に乗り移った砂礫が、ぬめりに足を取られそうになりつつも、首の付け根に長槍で貫いた。魔物は身を捩って咆哮を上げる。抉るように長槍を引き抜いた砂礫だったが、魔物が身体をくねらせた動きに今度こそバランスを崩し、海へと転がりかけた、その時。 「うわっ!」 海へと落ちかけた砂礫を作り物の腕が支えた。本体から離れた空嗣の腕が、そのまま船へと砂礫を運ぶ。 「助かった、月季」 「いえいえ」 そう、砂礫も見ずに返した月季は、腕が戻ったのを確認すると空嗣への命令を下す。 「敵を焼き払え! 空嗣!」 その声に応え、空嗣は炎を発現させ、灼熱の渦が魔物を襲う。が、炎が届く前に、魔物は再び海底へと潜り込んでしまった。 「ありゃ……不発?」 舌打ちしながら言う月季に、砂礫が指示した。 「おい、空嗣は徹底的に首を狙え。あの手の魔物は頭を倒さないとダメだ」 魔物といえども、生命活動の中心は普通の生物とほとんど変わらない。つまり、心臓と頭――脳である。この魔物の場合、心臓は太い胴体の皮と肉とに覆われて、そう簡単に手出しは出来ない。しかし、頭部なら。 「了解! 次に出てきた時を狙うからな!」 月季はそう言うと、空嗣の上から海面を覗き込んだ。潜っていった魔物は、今はまだどこにいるのかすらわからない。 その時。 船が突然大きく揺れたかと思うと、船のすぐ側で上がる水柱。その余波も合わせ、船は更に激しく傾いだ。バランスを崩し空嗣から転げ落ちた月季を、自分も倒れそうになりながらもなんとか砂礫が支えた。 「くそ……!」 真っ先に体勢を整え直した鏡が、銃を構え頭上にある魔物の頭部を狙う。独特の破裂音と共に、魔物の顎から血が吹き出した。 「やったか!?」 砂礫が上を見上げる。 しかし。 その長い首を今にも倒れそうに傾けた魔物は、次の瞬間、その反動で思い切り首を船に打ち付けた。流石の蔡軌も、これは交わしきれなかったらしく、ちょうど船の中辺りを激しい一撃が襲った。 「っ、月季!」 月季を抱えたままの体勢でいた砂礫が、懐深く月季を抱き込んだ。どうしたのかと声を上げようとした月季は、大小の瓦礫が降り注ぐ音を聴いた。同時に、右頬を灼熱が走る。魔物によって真っ二つにされるかと思われた船体は、なんとか折れずには済んだようで。けれど甲板の中心は陥没し、その部分を構成していた材質は原型を留めず散乱している。 「月季、空嗣で首をやれ!」 どこかで鏡の声が聞こえた。唐突に砂礫の体温は月季から離れ、その走り去る背中を、月季は半ば呆然として見送った。砂礫の手の中で、星蛇はまたも姿を変え、刀身の長い細剣の形が現れる。魔物は、まだ動いていない。砂礫は、その首に一太刀を浴びせるつもりなのだ。 今。砂礫が離れていく瞬間に散った飛沫は。あの、赤い飛沫は。見送った砂礫の背中に見た、裂けた布地は、突き刺さった細かな瓦礫は。その下の、暗く赤い……。 砂礫の剣が、魔物の首を斬りつける。全体の大きさで見ていた時には細く思えたそれだが、実際には生半な剣では切断出来ないほど、太い。大きく振りかぶった星蛇の刀身が、肉に喰い込む。一瞬の後に現われる、肉の赤と骨の白。すぐにそれを覆い隠したのは、鮮血の迸り。 「風の……」 怖いかどうか聞かれたら、もちろん怖いに決まっている。今までだって、何度も傭兵として依頼をこなしてきた。怪我をしたことだって数えきれない。 でも、こんなに『死』を身近に感じた経験は、今までなかった。 自分だけでなく、仲間たちの『死』も――砂礫の、『死』も。 でも、 「刃持て……」 今はそんなこと考えていられない。ほら、この隙にも、痛みにのたうちだした魔物が、砂礫を粉々にしてしまうかもしれない。 「風の刃持て、切り裂け! 空嗣!」 そんなの、イヤだ――。 「よけろよ、レキ!」 砂礫の服が翻る――もう、飛沫は飛び散っていない。空嗣の、体全体で振りかぶった動きから生み出されたカマイタチが、目には見えない速さで、甲板に裂傷を刻みながら、砂礫の残した傷口を襲い。 ザ、シュ なんともつかない音と共に、切り離された胴体が、力を無くして海に沈んでいく。残された首も、自重に耐え切れずにずるずる沈む、その余波で。再び激しく揺れる船体。 「レキ! 大丈夫!?」 満身創痍の砂礫に走り寄って、月季はその傷に顔を顰める。血はもう固まりかけているものの、決して軽傷といえる傷ではなかった。 「ったく、なんでこんな無茶すんだよ、お前は!」 思わず怒鳴りつけた月季に、砂礫は……何か、大切なものをみるような笑顔を月季に向けた。 「だって、さ。やっぱりお前が大怪我でもしたら、俺は絶対嫌だから……」 「だからって、お前が怪我したら意味ないだろ……?」 その笑顔に、なんだか言葉に詰まってしまった月季は、視線を海へと逸らした。 「死んだ、のか……?」 ぼんやりそう呟きながら、体の力が抜けていくのを感じた。気がつくと、同じように海を見ている砂礫の横に、へたり込んでしまっていた。頭の中が真っ白で、どうもうまくものが考えられない。 でも、さっき考えていたことの中に、そして、今の砂礫との会話の中に、銀河と約束した『答え』があったような……。 ――銀河? 「……あ」 ゆっくりと、視線を船に残された陥没に向ける。その部分は、三階建ての構造になっている船の中の、おそらく二階部分にまで届いているだろう。 二階部分のこの箇所には、何が――どの部屋が、あった? 「……銀河、は?」 ふらりと立ち上がった月季は、瓦礫の散乱した元食堂部分――魔物が来るまで話していた場所、銀河を置いてきた場所に駆け寄った。そして、段差になったところを飛び降り、周りを見渡した。壁の破片、テーブルの破片、椅子の破片。その中で、なんとか原型を留めている作り付けの戸棚。 銀河が入れられた、あの箱らしきものは、どこにもない。 「そんな……」 さっきとは違った理由で再びへたり込みそうになった月季だったが、大きく息を吐くことで、なんとか自分を落ち着かせようとした。 落ち着け。 蔡軌が、銀河はここにいた方が安全だと言った。なら、この部屋だった場所で、あの小鳥が最も安全だと言える場所はどこになるのか。机の上にそのままというのは危ない、船が揺れた時のことを考えると。かといって、椅子の上だの床の上だのも、同じような理由で駄目だ。なら。 ……なら。 頭上の甲板からは、鏡の声が切れ切れに聞こえる。でも、その内容までは月季の耳には届かなかった。 ふと、さっきも眼に止まった『ある場所』が、月季の脳裏に引っ掛かった。作り付けの、木製の戸棚。作り付けならば倒れることは、壁が破壊でもされない限りないだろう。しかも、木製の棚というのは。衝撃に対して引き出しが開きにくい構造になっているのではなかったか。 恐る恐る、戸棚に近付く。あの、銀河が入れられた箱が入るような引き出しは、二つしかない。膝を付いて、月季は下部にある少し大きめの引き出しの一つに手をかけた。 一つ目は……何やら色々な小物が雑多に入っていた。 二つ目……焦るような祈るような、そんな気持ちと期待が、月季の指を微かに震えさせていた。 「……銀、ッ河……」 引き出しの中、そのまた更に蓋を開けられた箱の中。銀色の小鳥は、そこに力なく横たわっていた。 「良かったぁ……」 小鳥を抱き上げ、月季は心底安心した笑みを浮かべた。 魔物は倒せた。シェニファに向かうための最大の障壁は取り除かれた――これで自分たちは審査を乗り切れる。しかも、誰も死なずに。思いつく限り、最高の形での結果だ。 そんな思い全てが篭った笑顔で、月季は先程飛び降りてきた段差を、今度は飛び上がろうと、した。 「月季!」 「くそ、まだだ!!」 そこからは、まるで時間の流れに異変が起きたかのようにゆっくりと――そう、月季には感じられた。 何の前触れもなく、いきなり上がった水音と、空に踊った黒い影。 シャァァ――ァ 水と気体とを、一度に吐き出すような、そんな音がした。その音につられて、上を見上げた月季の眼に映ったのは、細く伸びた、蛇のようなモノ。それが、砂礫と空嗣によって切り落とされた魔物の首だと気付いたのと、降ってくる液体に、咄嗟に瓦礫の陰へと身体を滑り込ませたのと、どちらが先だったか。しかし、次の瞬間訪れた衝撃は、月季の意識に火花を散らせた。 「うあああああああッ!!」 熱い。 痛い。 引き攣る。 背中が――焼ける。 飛び上がり、重力に従ってそのまま落ちてきた魔物の首――いや、今やこれは、立派に一個の魔物だ――に、鏡が銃弾を浴びせ掛けていたのだが、その音すら月季には聞こえなかった。ただ、身体中の血の流ればかりが、どくどく煩い。 「月季!」 誰かの声が遠くに聞こえる……。霞んだ視界の中、駆け寄ってくる影が見えた。
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