「月季!」 瓦礫の山を飛び越えて、砂礫は月季の元へと走った。 守れたのに。守れたと思ったのに。 魔物を倒したと思い込んで油断していた自分を、いっそ呪い殺してやりたい。 鏡は、再び海へと潜り込んだ魔物を、銃の照準を合わせながら探している。おそらく、出てきたところを狙うつもりなのだろう。 駆け寄った月季は、例の箱をしっかりと抱えながら、低い呻き声を上げていた。その背中は、血に赤く染まっていた。 「……っ、月季! しっかりしろ!」 声をかけても、月季は弱弱しい反応を返すだけだった。 先程切り落としたはずの魔物の首。どうやらそれは、それ自体で新たな魔物へと変化してしまったらしい。その魔物が空中で吐いた毒液。それを、月季はもろに浴びてしまったのだ。 月季の背中は、一言で言って酷い状態だった。焼け爛れたような傷口から、止め処なくじくじくと血が沸いてくる。その血臭と、毒液の何とも言えない異臭、そして潮の香りが交じり合い、異様な匂いがあたりに漂っていた。 そっと、月季の背の傷に障らぬように抱き上げる。その体の華奢さに、砂礫の脳は場違いにも、月季が紛れもない『少女』であることを再認識する。 頭を過ぎった考えは、非常事態故か、多分に現実逃避を含んでいた。しかし逃避するには、砂礫にとって月季は大切すぎた。だから砂礫は、その考えを意図的に頭から追い出す。今はそんなことを考えている場合ではないのだから。ともかく、月季を安全な場所に移さなければならない。操舵室の蔡軌のところに連れて行けたら、それが一番良いのだが……。 再び、大きな水音が響く。同時に、さっきと同じ、毒液を吐き出す音も。 「鏡! 平気か!?」 魔物が海へと落ちていく、その音に負けぬように砂礫は声を張り上げ、鏡の安否を確認しようとする。間を置かず「大丈夫だ」と聞こえてきて。ひとまずはほっと息を吐く。 この状態では、少しの移動も侭ならない。自分なら、何とか月季を運ぶことも可能かもしれないが、その間、鏡一人であの魔物と渡り合うのは危険が大きすぎる。 どうするべきか、悩む砂礫の体に叩き付けるかのように、新たな水音がすぐ側で、響いた。海に背を向けていた格好になっていた砂礫は、一瞬遅れて振り向いた。 魔物が――切り離したはずの胴体部分が、傷口を中心に、その体の半分程に亀裂を走らせたような、ぬらぬらとした赤い口を開けて、そこにいた。 「なっ……!!」 ここでようやく、砂礫は理解した。あの魔物は、切り離した部分が更に一個の生命として、新たな魔物として誕生するのだと。こんな魔物、今までに聞いたことなどない。それだけの思考が頭の中で廻ってから、砂礫は腕の中に月季が――彼にとって、掛け値無しに大切な存在がいることを改めて自覚する。 今のところ、魔物はこちらとの距離を、そして襲い掛かるタイミングを測っているだけのようだ。つまり、もうしばらくすれば……間違いなく、こちらを襲ってくる。 警戒を解かず――襲い掛かってくる隙を与えぬよう、細心の注意を払いながら、そっと、月季を横たえる。その拍子に、月季の抱えていた箱の蓋がずれ、中の小鳥の銀羽が覗いた。その朱線の走る磨いたような羽に、一雫二雫、月季の血が零れかかる。それがやけに綺麗だと想いながら……砂礫は、星蛇を構えた。 流れ込んでくるのはさっき目覚めた時とはまた違う、嗅いでいるだけで気分が悪くなるものの、その匂い自体には体や神経を毒する要素は無いように……思える空気だった。 重い瞼を何とか抉じ開けると、まず見えたのは暗い影と、それと対になった光、そして木片やら床やら。 もそりと無意識に動いてしまってから、もう大分薬は抜けていることに気付く。自分はどうやら箱に閉じ込められていて、今はその箱が倒れるか何かして蓋が外れたらしいと、銀河は考えた。 それにしても、一体ここはどこだろう。 段々と、意識が外に向いていく。響いてくる、規則正しく時に乱れる音、聞いたことのないような、あるような……。水の、音? そう、噴水の音に似ている気がする。 軽く羽ばたいてみれば、なんとか翼は動くようだった。しかし、その瞬間、例の何とも言えない匂いは更に強まった。後、なんだか……体がねばねばしている気がする。この感覚、さっき目覚めた時にはなかったはず。わずかに差し込んだ明かりで、改めて自分の姿を確認した銀河は、今度こそ絶句した。 『血……っ!?』 混乱した銀河は――彼女は、今まで体中塗れる程の血を見たことなどなかった――思わず大きく羽ばたいた。その拍子に、箱の中から飛び出てしまった銀河は、更に信じられない光景を目にすることになる。 『げ……つ、き?』 この姿になってから、初めて優しくしてくれた人。友達になってくれた人……。それが、何故今こんなに傷付いて、苦しそうにしているの? それとも、これも悪夢の続き? ほんの少し頭を廻らせば、悪夢はあちこちにその爪を伸ばしていた。ぼろぼろになった船。遠くから響く銃声。海――さっきの水音は、波の音だったのか――には、月季が流す血と同じ色の口を開いている魔物。魔物と対峙しているのは……月季の大事な人。 何で。 不意に。不意に怒りが湧き上がる。 何で、私はこんな姿にされてしまったの。何で、こんな風に誰かが死に立ち向かっているの。何で、私の幸せになって欲しいと願った人達が、こんな所で殺されようとしているの。何で――何で、こんな風に月季が傷付かなきゃいけないの。 『月季を……』 何に怒ったらいいのか判らない。いや、もしかしたら――何も出来ない、自分自身への怒り。それが、目の前の魔物への怒りへと摩り替えられていく。 『私の友達を……』 なんだろう、何故だろう。今なら、『力』を使えそうな気がする。無力な小鳥にされ、何も出来なくなったはずの自分なのに、今は力に満ち溢れているような感覚すら、覚える。 「私の友達を傷つけるなぁっ!!」 その感覚に任せ、銀河は、全てを解き放った。 「……私の友達を傷付けるなぁっ!!」 その声――絶叫が聞こえたのは本当に唐突で、鏡は思わず動きを止めた。ちょうど頭上に来ていた魔物の頭部を狙ったはずの弾丸は大きく外れ、的外れに空中を飛んで行ってしまった。鏡の攻撃を免れた魔物は、水面へと落下しながら、鏡目掛けて毒液を吐き出した。それを何とかやり過ごすして鏡は、魔物が海面へと潜っていく際の衝撃に揺れる船上でバランスを取りながら、その声が聴こえた方を見遣った。 目に付いたのは、銀の光。 僅かに遅れて、そこが砂礫と月季がいるはずの、元食堂部分だと気付く。その途端、今対峙している魔物のことも何もかも、頭から消え失せた。 「砂礫! 月季!」 大事なのだ、あの二人は。全てを失った自分が、最後の最後で手にしたもの。 二人の安否以外何も考えられずに、崩れた部分まで走り寄った鏡は、そこで更に信じられないものを、その目にした。 倒れた月季に寄り添うように、純白の翼が広がっている。それも、一対ではなく三対、六枚の翼が。その翼が、銀の光を放っていたのだ。ゆるやかに、まるで花開く蕾のように翼が動き、その持ち主の姿を露にする。 翼持つ美しい少女が、そこにはいた。 長い銀の髪が背の中程までにかかり、真紅の瞳はきっとして眼前の魔物――そこで初めて鏡は、そこにもう一匹の魔物がいることに気付いた――を睨み付けている。背の羽根と同じ純白の衣には、月季のものだろうか、首筋にかけてまで鮮やかな緋色が散っている。 それは、異形の姿だった。そして、地界にはあり得ない姿……。四つの世界の中、ただ一つにだけ存在するもの。 空界の、翼の民。 息を呑んで見つめる鏡と同じく、まるで魂を抜かれたかのように唖然としていた砂礫だったが、ふと我に返ったように微かに身動ぎした。 魔物は、その瞬間を見逃さなかった。 「っ砂礫!」 一瞬遅れて自失状態から抜け出した鏡の声は、そして砂礫が星蛇を構え直したのは。ほんの少しだけ、遅かった。 残された床を食い破る勢いで。ほとんど口だけに見える魔物が、砂礫に肉迫した。 「やめてっ!」 聞きなれない、水晶を弾いたような声が響いた。その刹那、砂礫と鏡の目の前で、魔物の体が弾け飛んだ。 魔物は内側から爆発したかのように見えた。いや、内から外に向け切り裂かれたのか、体中に亀裂が走り、内臓と血とを噴水のように吹き出していた。人血とはまた違う、しかし、どこか通じる生臭さを持った液体と肉片とが、船の上へと降り注ぐ。最早どこから見ても命を失った巨体は、今度こそ、ゆっくりと大きな波を引き起こしながら、海底へと沈んでいった。 一体、何が起こった? 目の前の状況を理解出来ずにいた鏡は、忘れてしまっていた。自分が対峙していた、もう一匹の魔物のことを。 きっ――シャぁぁぁァ―― はっとして上を見た時には、細長い姿は海面から躍り上がっていた。その魔物と、目が合ったような錯覚を覚える。太陽を背にした魔物が、影になって黒々とした紐のように見えた。 「ちっ……」 月季達に気を取られて、あの魔物に対する警戒を怠ったのは失策だった。今度こそ、と鏡は銃を構えた。魔物は、毒液を吐こうとその身を大きく撓らせた。 「――ダメっ」 また、あの声が……あの少女が、叫んだ。 次に起こったのは、さっきとまるで同じこと。 空中で、魔物の体が弾けた。空の光の中で、それは先程以上にはっきりと見えた。黒々とした紐が、捩れた何本もの繊維に分解していく――そんなことが、一瞬で起こったように思えた。 空から降り注ぐ血や肉片を、裂け切れないと、鏡は咄嗟に腕で顔を庇った。しかし、予期した醜い雨は彼に、いや彼らに降りかかってはこなかった。腕を退けた鏡の目に映ったのは、彼らを避けて海へと流れて落ちる、血の雨。それはまるで、彼らを覆う壁が存在するかのようで……。 「何なんだよ、一体……」 呟いた砂礫は、自分自身の言葉によって気が付いたらしく、慌てて月季のもとへと駆け寄った。月季に寄り添っていた少女もまた、月季の症状を見るように――それよりむしろ、月季に縋るように、向き直った。 翼の民の少女の頬に、うっすら涙が光っているのを見ながら……鏡は、遠い日の記憶に想いを馳せていた。 「随分、おもしろくなってきたようだね」 くすくすと。青年は楽しそうに笑っていた。 「期待以上、だな。まさか、あのお姫様の呪いまで解いてしまうとは」 楽しそうに楽しそうに笑う青年は、しかし突然に不快気に眉を顰めた。 「それにしても……」 意識を別の場所へと移して、青年は。 「権力の関わった争いなど、醜いことこの上ない。残念だ」 やはり、また。今回もリセットするしかないのかな。 物騒に、でも残念そうに呟く彼の瞼の裏には。彼が今いる船の操舵室の光景ではなく、それどころかこの世界ですらない場所で、憤懣やる方なしといった様子で手にした杯を床に投げつけている男の姿が映っていた。
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