空界を例えて、空に浮かぶ華だと表現する文献は多い。 皇帝の居城とその城下町を中心に、 東に青王の統治する青王領、 西に白王の統治する白王領、 南に赤王の統治する赤王領、 北に黒王の統治する黒王領。 そして、皇帝の兄弟である公王達を始めとした、皇位継承権を持たない皇族達の領地である幾つかの浮島。 それら全てを併せて、四枚の花弁を持つ華と。 その花弁の中の一枚、赤王領の中心たる赤王の居城を、今、一人の青年が訪れていた。 「ようこそ、いらっしゃいました。……ですがあいにく、姫は今日も気分が優れぬとのことで……」 「そうか、病ならば仕方なかろう。早く治せと、伝えてくれ」 赤王城の一角、閑静な森の中の離宮。 恭しく頭を下げる女官に、青年は鷹揚に頷いた。この離宮の主は、先日から急な病によって臥せっている。青年の目的も、その見舞いだった。 表向きには、だが。 「折角だ、温室に寄らせて貰う。我が姫が回復した折には、花園に無い花を贈りたいからな」 そう言って青年は、案内しようとする女官を軽く手を振って下がらせ、迷いなく足を進めた。案内などなくても道が判る程、青年は何度もこの離宮を訪れているのだ。 程なくして、目的の場所に辿り付く。離宮の中庭に建つ硝子張りの温室は、温室というよりもそれ自体が一つの屋敷のような大きさである。中に入ると、扉近くにいた庭師が彼に気付き、慌てて会釈をしてきたが、青年は彼らをも下がらせる。 温室の中は、先程の青年の言葉通り、正に花園そのものだった。空界の花だけでなく、地界の花、そして、ほんの僅かとはいえ神界の花まである。それらがうまく調和を齎すような形で植えられ、育まれ、まるで神話の楽園のような美しさを醸し出していた。 しかし。その美しさは、今現在、青年の心には何の感慨も呼び起こさなかった。既に見慣れた景色だということもある。だが、それ以上に、ここには今、彼にとって何より重要な『花』が存在しなかったから。 彼の『花』――この離宮の主は、何よりこの場を好み、彼が訪れると必ずこの花園の中、嬉しそうに微笑んでいた。 「ちっ……」 青年は軽く舌打ちすると、花園の中央で意識を澄ませた。そして、気配を探る。花園の主、表向きには病に倒れたことになっている、姿を消した彼の婚約者の気配を。 彼女が消えたのは、そう前のことではない。だからこそ、未だに最小限の関係者にしかこの件を知られず、病ということにしておけているのだ。しかし、それもそろそろ限界が近い。一刻も早く見つけ出さねば、幾ら周到な嘘でも剥がれてしまう。 それに何より、青年自身の我慢が、そろそろ限界を越えようとしていた。 (ったく、どこ行きやがった、あの馬鹿は) 青年自身にも、自分が相当煮詰まっている自覚が、ある。ちなみに言うなら、彼女が己の自由意志で消えたのではないことも、おそらくは地界にいるらしいことも、更には、誰の企みによるものか、その理由まで、推測はついている。 しかし。証拠が無い。 証拠が無いことにはいくら彼の立場であっても手が出せない、そんな相手が、おそらくは今回の件の首謀者。だからこそ、まず消えた婚約者を探し出すことにしたのだ、彼は。本心では、さっさと首謀者を問い詰め、居場所を白状させた方が手っ取り早いと思っているのだけれど。一刻も早く、彼女を見つけたいのだけれど。 先日、何とか捕らえた彼女の気配を追って、彼の協力者の一人――彼の、そして彼女の敵に廻ることはないと、青年が確信を持てる数少ないうちの一人が、地界へと降りて行った。しかし、その後さっぱり音沙汰が無い。つまりは、難航しているということだ。 本当は――真っ先に自分で探しに行きたいのに。けれど、彼の立場だとか、意地だとか見栄だとかはったりだとかが、それを許さない。 待つしかない、今のところは。 ふいに。ざわりと――それは、聴覚によるものではなく――温室の花々が揺れたような気配を感じた。 彼は、ゆっくりと……殊更ゆっくりと、振り向いた。 「ご無沙汰しています」 今まで彼以外誰もいなかった花園に、もう一人。砂色の髪の青年が佇んでいた。 「……何の用だ、妖魔。俺は忙しい」 尊大に、しかし一片の隙も見せずに、彼は言い放った。新たに現れた青年はというと、そんな彼の様子も、わざと放たれた『妖魔』という蔑称すら気にした風もなく、くすくすと楽しそうに笑っている。ただ、彼は知っている。この、一見何の害もなさそうな青年が一旦機嫌を損ねたのなら、この赤王宮――いや、赤王領全体でさえも軽く吹っ飛んでしまうだろうということを。今、彼がそれをしないのは……一重に、大変不本意なことではあるが、自分がこの青年に気に入られているからであるということを。 「いやですね、そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。折角、いいこと教えてあげようと思ってるのに」 「いらん」 素っ気無く言い返し、彼はまた、気配を辿るために瞳を閉じた。 「いいんですか? あのお姫様のことなんですけれど?」 砂色の髪の青年のその言葉は、彼を内心ひどく動揺させた。それでも、それを長年培った自制心で何とか表に出すことを避ける。 「いらんと言っている。貴様の言うことなど聞いていたら、一体どんな代償が必要になるか知れんからな」 彼女のこと――おそらく、居場所を、こいつは知っている。彼はそれを確信していたけれど。素直に砂色の髪の青年の言葉を聞く気にはなれない。後でどんな代償が待っているか、考えただけでも面倒くさい。 「そうですね、引き換えに欲しいものもいろいろありますが……おもしろい舞台を見せてもらった後ですからね。特別にただで構いません」 顎に手を添えるようにして、砂色の髪の青年は微笑んだ。 「あなたの大事なお姫様は、今は地界の、紅海を渡っている船の上ですよ」 その内容に、彼は。今度こそ砂色の髪の青年の方へと向き直った。 「何が目的だ? ……いや、何故貴様がそれを知っている?」 「企業秘密です。では、今度はお姫様の救出劇を見せてくださいね」 笑って彼に背を向けると。砂色の髪の青年はそのまま温室を去って行く。その背を彼は、二律背反する気持ちで見送った。 一つ。図らずもあの男に借りを作ってしまった自分に対する憤り。 一つ。彼女の居場所が判明した安堵感。 大きく息を吐いて、彼は気持ちを切り替えた。借りが出来たのは悔しいが、ならばそれを利用するだけだ。 先程と同じように意識を澄ませる。目的の――地界にいる、協力者の意識を見つけるのは容易かった。そうして、彼女の居場所を伝えると、彼は足早に温室を後にした。先に出たはずの砂色の髪の青年は、もうどこにも見えない。おそらく温室の門をどこかの空間に無理矢理繋げて、空界自体から出て行ってしまったのだろう。
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