声が聞こえる。 「……な……のか」 「今……でも……える……」 横向きに寝転がった姿勢から寝返りをうとうとした月季だったが、強い力でそれを押さえつけられた。 「動くな、この馬鹿!」 「月季! 気が付いたのか」 「良かったぁ……」 苛立ったような鏡の声。心底安堵したような砂礫の声。涙ぐんでしまっている……これは、この声は。 「銀河!?」 反射的に飛び起きようとした月季だが、その寸前でまた鏡に押さえつけられた。 「動くなって聞こえなかったのか!?」 その声に首を竦め、月季は改めて周囲を見渡した。 始めに目に入ったのは、見慣れない、でもどこか懐かしいような顔立ちの少女。いや、確かに顔自体に見覚えはないのだが、その瞳は。その、深紅の色は。 「銀河……なの?」 頭に浮かんだままに呟くと、少女は嬉しそうに頷いた。その拍子に、大きな目からぽろりと一粒、涙が零れ落ちる。 「え? 嘘……。元に、戻れたの?」 「ええ、ついさっき。私にもどうしてなのか判らないのだけど……」 「さて、と。月季が気が付いたところで、あんたが誰なのか聞かせて貰えるか?」 ほのぼのと言葉を交わす二人に、鏡が不機嫌丸出しで割り込んだ。 「どうしたんだ、鏡? 顔怖いぞ?」 「拗ねてるんだよ、こいつ。さっきまで散々心配してたのに、お前けろりとしてるから」 相変わらず自分を押さえている鏡を訝しく見上げながら言う月季に、砂礫がうししと笑いながら告げる。 「人のこと言えるか。さっきまでこの世の終わりみてえな顔してた奴に言われたかない」 憮然として返された言葉に、砂礫がぐっと詰まる。その顔がなんだかおかしくて――そして、自分を心配してくれていたのが嬉しくて。思わず笑い出してしまった月季は、次の瞬間背中に走った鋭い痛みに声を詰まらせた。 「動かないで! いえ、振動が傷に響くのね……どうしよう」 なんとか首だけ動かして背後を見ると、焼け爛れたようになった自分の背中が目に入った。 「……うわ」 人間、想像を越えるものを見てしまうと、返って言葉が出てこないものなのだということを、今、月季は実感した。確かに怪我はしていると思ったが……こんな、すごい傷だとは予想外だった。 「ごめんなさい、月季。私に、傷を癒せる力があったら良かったのに……」 俯いてすまなそうに言う銀河は、まるで非力な自分自身を責めているようで。そんなことない、と月季は言おうとしたのだけれど、それより早く、月季の言いたかったことを言葉にした声があった。 「いや、あんたには魔物に止めも刺して貰ったし、庇って貰ったりもしたんだ。充分だよ、それで。これ以上望んだら、欲張りすぎだって罰が当たっちまう」 ぽんと、いつも月季にするように軽く銀河の頭を叩いて言ったのは、砂礫。銀河ははにかんだように、それでもやはり申し訳なさそうな複雑な表情で、小さく「ありがとう」と微笑んだ。儚げなその表情はとても綺麗で。返すように、砂礫も笑って。 ツキン 月季の中に、鋭い痛みが生まれた。それは、一瞬、背筋で疼く傷さえ忘れるほどの。砂礫が港で女性と談笑していたのを見た時よりも強く。 「月季? 大丈夫?」 その気持ちが表情にまで出ていたのか、銀河がまた泣きそうになりながら月季を気遣う。だけど、月季にはそれに応える余裕はなく。胸の痛みを背中の痛みに摩り替えてやりすごした。少なくとも、今だけでも。 「ほらほら、そんなことより先にやることがあるんじゃないのかい?」 いつの間にか薬箱と真水の入った壜を取ってきた蔡軌が、歩み寄ってきた。 「おら、とにかく応急処置だ。沁みるから動くなよ」 蔡軌から壜を受け取った鏡が、月季の横に膝をつく。蔡軌はというと、砂礫の傍らで、器用に彼の怪我を手当てし始めた。 「――ッ――っう!」 真水で背中を洗い始めた途端、月季は声にもできない唸り声を上げた。反射的にのたうつ身体を、砂礫が慌てて押さえつける。床を掻き毟ろうとする月季の手を咄嗟に握った銀河は、次の瞬間皮膚に爪を立てられた痛みに顔を顰め。それでも月季の手をしっかりと握り返す。そんな二人を横目に、鏡は淡々と傷の洗浄を続けた。所々に破れ残った衣服の欠片は、剥がさずそのままにしておく。下手に剥がすと、傷口が広がってしまうから。丁寧な洗浄を終え、最後に鏡は、ふわりと大きなガーゼで月季の背を覆った。 「……よし。じゃ、こいつを運ぶぞ。一応ベッドは無事だったからな」 怪我人をいつまでも甲板に寝かせておくわけにもいかない。 「……ベッドじゃなくていいからしばらく寝かせて〜……」 ようやく断続的な痛みから解放された――あくまで傷を洗う時の痛みからの解放であって、背の痛みが完全に消えた訳ではないけれど――月季がそんなことをほざいたが、潮風吹きすさぶ板の上など、寝るのにいい環境だとは絶対に言えない。 「んなこと言ってもダメ。あ、えーと、銀河だっけ? ベッドの方、多分悲惨な状態だと思うから、適当に片付けてくれる? そこの半壊してる方の階段降りたとことこの廊下、一番奥だから」 そんな月季には取り合わない砂礫の台詞を受けて、蔡軌はさっさと月季の足を抱え上げた。ほぼ同時に鏡が、月季の脇の下に手を入れて、上半身を持ち上げた。担架があればいいのだが、あいにくさっきの戦闘で、どこにいったかわからない。 「いたっ、ちゃんと丁寧に運んで……っうっ!」 運ぶ時の振動が傷に響くのか月季が苦しげに呻くが、それでもやはり寝台に寝かせた方がいいに決まっている。だからせめて、慎重に慎重に運ぼうとしているのだが。ベッドまでの道のりは、月季にとっては、まさに苦行に等しかった。 「おい、月季……大丈夫か?」 ようやくベッドに辿りついて。気遣うような鏡の声は届いていたが、月季にはどこか遠く感じられて。なんとか返事をしようとは思うのだが、周りの空気全てが湿った綿になって自分を包んでいるようで、身体が重くて重くて。指一本動かすのさえ、億劫だった。 ぐったりとうつ伏せに横たわる月季を見ながら、鏡はぎりりと奥歯を噛み締めた。 月季の傷は、決して軽いものではない。できることなら、一刻も早く医者に見せなければならないのに。鏡自身、今までの冒険の経験から、それなりに医療の知識はあるが、傷の原因が原因だ。未知の魔物の毒による傷など、下手に手を出しては余計に悪化させる恐れがある。 月季だけではない。砂礫にしたって、さっきの手当てで済ませていいような怪我ではない。 シェニファの港までは、うまくいっても後二日。それ以上かかる可能性だってある。それまでに、二人の状態が悪化してしまったら……。 ぎり、と。再び奥歯を噛み締める。同じほどの力で、強く拳を握り……左手の、革手袋の感触を感じた。力を緩め、指の腹でその感触を幾度もなぞりながら、鏡は横目で銀河を見つめた。先ほどの銀河の言葉が脳裏を過ぎる。 『私に、傷を癒せる力があったら良かったのに』 傷を癒す力。そんなもの、鏡にだってない。 けれど。 もし、自分のちっぽけなプライドを捨てるなら。もしかしたら、二人を助けられるかもしれない。 もう二度と頼らないつもりだった、でも。……でも、ここで二人を失うようなことがあれば。二人に出会ってからの自分、その全てが無になる。意味のないものになってしまう。 目の前には傷付いた月季、そして満身創痍の砂礫。 ぎりっと。もう一度だけ奥歯を噛む。そうして鏡は、重い口を開いた。 「……俺に、傷を治せる奴の心当たりがある」 鏡の言葉に、月季の枕元に寄り添っていた銀河が、弾かれたように振り向いた。続いて、砂礫が緩慢に反応を見せる。 砂礫本来の反応速度とは程遠いその仕草。鏡はそれに、砂礫の失血量の多さを実感した。 彼らを失うくらいなら。自分のプライドや後ろめたさなど――。 「多分、俺が呼べば、あいつはここに来る。来ざるを、得ないはずだ」 ぎゅっと、革手袋の左手を握り締めて。鏡は、ふいっと部屋を後にした。 「鏡?」 理解が追いつかないというように、顔中に疑問符を浮かべて鏡を追いかけようとした砂礫を、誰かの手がやんわりと押しとどめた。 「なっ……蔡軌?」 「そっとしておいてあげよう。せっかくの再会なんだから」 告げられた台詞も、砂礫には――おそらく月季にも全く意味不明で。 「あんた……一体何を知ってるんだ?」 砂礫の最もな疑問に、蔡軌は笑ってこう答えた。 「彼を、というより、彼の半身のことを少々……ね」 甲板に上がるまでの記憶は、ほとんど残っていなかった。気が付いた時、鏡は潮風に吹かれながら、青い青い空を見上げていた。 この空に、この空の向こうに、あの少女がいる。 「――朝緋」 そっと、彼女の名を呟く。この空の向こうから、今。彼女がここに向かってきていると……素直に心が受け入れていた。 もう一度彼女に逢う予感は、すでにあったのかもしれない。もしかしたら銀河を見た時から。六枚の翼を持つ、翼の民である少女を見た時から。 不意に。鏡のすぐ近くで羽音がした。その音がした方に顔を向けると、今まで誰もいなかったはずの甲板に、一人の少女が立っていた。真白い四枚の翼をその背にはためかせ、赤銅色の髪が風に靡くその姿は、最後に逢った時とさほど変わっていない――むしろ、少し幼く感じられた。それが、幼かった自分が成長したのに対し、人とは違う時間を生きる彼女は、それほど年をとっていないからだ、と鏡は気づく。 「……朝緋」 「……鏡」 もう一度、彼女の名を呼ぶ。同じように彼女――朝緋も。久方ぶりに聞く、彼女が自分の名を呼ぶ、その声を。鏡は、懐かしいような新鮮な気持ちで、聞いた。 「あなたに呼ばれるとは、思わなかったわ」 どこか素っ気無い口調は、彼女の癖だった。あまりに変わっていないその口調、その声音。今まで会わなかった時間が嘘だったかのような錯覚に捕らわれそうになりながらも、鏡は努めて自然に聞こえるように言った。 「どうしても、お前の力が必要なんだ。仲間が……俺の友達が、魔物の毒を受けて。大怪我してる奴もいるんだ」 彼女を前にして、自分がまるであの頃の小さな子供に戻ってしまったような、そんな気がして。鏡は眼の奥底から熱い何かがせり上がってくるのを必死に押しとどめようとした。鼻の奥がツンとする。無理に抑えつければ、微かに語尾が震えた。 「頼む、あいつらを助けてくれ、朝緋」 堪らず俯く鏡。目の奥の熱が、溢れてきてしまいそうになる。 ふ、と。彼女が微笑う気配がした。 「もちろんよ、鏡。私はあなたの――『守護者』だもの」 弾かれたように顔を上げる。鏡と『契約』を交わした翼の民の少女は、柔らかに微笑んで。 「私はずっと、もう一度、あなたに逢いたかったのよ」 「朝緋」 もう一度、彼女の名を呼ぶ。 あの日、彼女のことをひどく詰って責め立てた日は、何年も経った今でも忘れたことはない。あの日見たうねる炎と合わせて、今でもよく夢に見ては魘される。 もう一度あの日に戻ってやり直せたら、と願ったことは数えきれない。 でも。 今、時間を巻き戻さなくても彼女は鏡の目の前にいる。また、鏡の声に応えてくれた。 そっと、姿勢を正して鏡は左手を差し出した。時をおかずに乗せられた温かさは、あの日のまま、何も変わらないままだった。
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