床がゆっくりと軋む音がして、砂礫たちは鏡が戻ってきたことを悟った。けれどその足音は、どういうことか一つではなく。やがて、開いたままの扉から姿を現したのは……鏡ではなかった。 「朝緋!?」 座り込んでいた銀河が、信じられないというような声を上げた。入ってきたのは、月季よりはいくらか年上に見える、赤銅色の髪をした少女だった。大人びた雰囲気のその少女の背には。 銀河と同じ、純白の翼が二対。 「銀河……! 貴女の乗っている船って、コレのことだったのね……」 朝緋と呼ばれたその少女は、銀河の名を呼ぶと、そのまま深々とため息をついて。銀河のことを抱きしめた。無事を確かめるように。 「全く……あなたって子は」 「朝緋……、朝緋! 月季を……月季たちを助けて!」 「ちょっと、落ち着きなさい、銀河」 ため息混じりの声を遮って、銀河が叫ぶ。少し驚いた様子で、少女は落ち着かせるように銀河の背を撫でた。それを横目に、砂礫は少女に続いて入ってきた鏡に尋ねる。 「鏡、誰だ、これ?」 どうやら銀河の知り合いらしいということは分かるが、鏡が彼女を伴ってきた理由――いや、それ以前に、今までこの船にはいなかったはずの存在が、今ここにいる理由が分からない。 「彼女は俺の……」 そこまで言って、鏡は口篭った。かすかに迷うような逡巡があって。 「彼女は、朝緋。俺の『守護者』で、空界の翼の民だ。傷を治す力を持っている」 守護者。その言葉を砂礫は知っていた。ただし、伝説上のものとして。それ故に、砂礫の目が驚きに見開かれる。 「鏡、あなたが言っていたのって、この人たちのことね?」 「ああ、こっちのでかいのが砂礫で、ベッドに転がってるのが月季。頼みたいのはこの二人だ。月季は、変な魔物が吐いた毒液にやられて――」 「ちょっと、待って」 鏡を振り返った朝緋の顔が急に険しくなった。しかし、その目線の先にいたのは鏡ではなくて。 「どうして、ここにいるの!?」 「一応、彼らの仲間として、『世界の果て』に向かう審査中ということになっておりますのでね。お久しぶりです、殿下」 「そんなこと、信用できるとでも?」 「信用も何も、事実なんですけどね」 困ったなあと、さして困った風でもなく飄々として、蔡軌は朝緋の刺すような視線と口調を受け止めた。 「な……お前ら、知り合いだったのか?」 「蔡軌さんて、朝緋のお知り合いだったの?」 その様子に驚いたのは鏡と銀河で、それぞれの口調で問い掛けられた朝緋はというと、苦々しい顔を隠しもせずに答えた。 「知り合いなんて高尚なものではないわ。銀河、あなたを陥れた張本人の契約者よ」 「……え?」 「だから近付いちゃ駄目。離れてなさい」 戸惑ったように首筋に手を当てた銀河にそう言い渡してから、朝緋はうつ伏せている月季の傍らに立ち、その背の上に右手を翳した。 「頼む、朝緋」 「ええ。安心して、鏡」 朝緋の手から、淡い色の光がゆったりと溢れ出す。その光は、しばらく朝緋の手のひらに留まっていたが、やがて月季の背へと落ちていき。傷全体を包み込んだ。 光の中での傷の変化は劇的だった。焼け爛れた傷が見る間に塞がり、その上を新しい皮膚が覆っていく。見ようによってはグロテスクな光景だったが、この場にはそう指摘するような人間はいるわけもなく。月季の傷が完全に治ったのを見届けると、朝緋は砂礫の元に移り、同じように手を翳した。その様子を見ながら、蔡軌は朝緋に声をかけた。 「おそらく、とは思っていたんですが……やはりあの人だったんですか。赤の姫君にこんな仕打ちをなさったのは」 「だからそうだと言っているでしょう? さ、具合はどう?」 前半は蔡軌に向けて、後半は完全に傷の癒えた砂礫に向けて。朝緋は、特に怪我のひどかった腕を動かしてみるように促した。 「ああ。すげえ、全然痛くない。これなら、月季も大丈夫だな!」 腕を上下に上げ下げした砂礫は、手のひらを握ったり開いたりしながら心底感心した声と笑顔で言った。 「ええ、呼吸も落ち着いたし、顔色も良くなったわ。ありがとう、朝緋」 銀河がほっとしたように言いながら、健やかな寝息をたて始めた月季の背中に、今まで掛けられなかった上掛けを掛けた。その様子に、部屋の空気もふっと和んだ――一部を除いて。 「銀河、首を見せなさい」 「……え? え?」 動いた拍子に自分の方にさらされた銀河の首筋に険しい視線を注ぎながら。朝緋はつかつかと銀河に近付き、有無を言わさず肩を掴んだ。月季の血が未だこびり付いたままの銀河の首筋は、一見、銀河自身が怪我をしているようにも見える。けれど、朝緋が見ていたのはそこではなくて。 「これ、強制変化の呪紋よね?」 「あ……ええ、そうよ。だから私、ずっと鳥の姿に変えられていたの。そこを月季が助けてくれて……。ついさっき、なんでだか元に戻れたの」 「なんでだか、って。どういうこと?」 「本当に分からないのよ。目の前で月季が怪我したのを見たら、頭がかーっとなって……気がついたら、元に戻れていたの」 「それって……」 言いさして、不意に朝緋は口を噤んだ。その視線は銀河の首筋辺りをさ迷って。 「おそらく、そうでしょうね」 いつものように、唐突に、しかし全てを分かっているような口調で蔡軌が言った。 「月季の血がかかった部分は、呪紋が消えているはずです。それが意味していることは、あなたにはもうお分かりのはずだ」 ゆっくりと、朝緋は蔡軌へとその視線を向け。そして、逸らした視線は、今度こそしっかりと銀河のことを見つめた。 「あの……朝緋?」 その不躾なまでの視線に、銀河の方がたじろいでしまう。 ふ、と。朝緋の眼差しが緩んだ。強さは減じたものの、優しくなったともいえない、むしろどこか複雑そうで弱々しい瞳で、朝緋はぽつりと呟いた。 「おめでとう」 「え?」 いつの間にか、すっかり蚊帳の外に置かれ、話の筋が見えない砂礫たちだけでなく、間違いなく当事者であるはずの銀河でさえ、その祝いの言葉の意味を正確に理解することはできなかった。 「朝緋?」 小首を傾げる銀河に、朝緋ははっきりと告げた。 「おめでとう。あなたは、あなたの『契約者』を見つけたのよ」 『一緒にいてね』 『側にいるわ』 その言葉に嘘はなかった。 その時の気持ちに、偽りはなかった。 でも。 その言葉が、こんなにこんなに重い意味を持ったものだなんて、 知らなかったんだ。
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