「『契約者』? 何それ」 「私たち空界の民は、一生の内でたった一人、契約者を持ち、その人を護ることになっているわ。そういう種族なのよ」 「えーと……僕が銀河の契約者ってことは、銀河が僕を護ってくれるってこと? 確かに護って貰ったけど、でもレキや鏡だっておんなじだし、僕だけってわけじゃ」 「あなたの血によって銀河の呪紋が解けたのが、何よりの証拠よ。契約者の血は、私たちにとって、全てを癒す薬になるのだから」 畳み掛けるような朝緋の言葉に、月季はむっつりと黙り込む。その横には、まだどこか呆然とした表情の銀河。 月季と銀河。この二人が『契約者』と『守護者』の関係にあるのだと明らかになったのは、つい先程のことで。そう判明するまでの一部始終を見ていた砂礫や鏡、当事者の片割れであるところの銀河でさえ、未だにうまく事態を飲み込めていないというのに、今まで気絶していた上に起き抜けである月季に、この状況を理解しろという方が、無理なのかもしれない。 海の上に揺れる船。陸地はまだ遠い。 『守護者』と『契約者』の『契約』というものは、案外と簡単に成り立ってしまうものなのだという。基本的には、ただ、側にいると――傍らにあると、お互いに誓うだけ。もちろん、その前提として、守護者は複数ある世界のどこにいるとも判らない、たった一人の契約者を見つけ出さなければならない。そこまでの過程こそが、困難なだけで。 とはいえ、こんな風に――銀河のように、偶然契約者を見つけること自体は、よくあることらしい。というより、どこにいるのか判らない相手だからこそ、偶然の時と場所で出会ってしかないものなのかもしれない……とは、蔡軌の弁。けれど、相手が契約者だと気づかず、あまつさえ無意識に契約まで交わしてしまったというのは、さすがに前代未聞のことだと、朝緋は苦笑いの顔。 「まあ、あなたらしいといえばあなたらしい気もするけどね」 そして朝緋は、契約を確固たるものにしなくてはならない、と説明した。言葉のみの契約は、それだけでも有効ではあるけれども、それだけでは形として『脆い』ものであるらしい。契約の証として、体のどこかに呪紋を刻む。そうすることでようやく、契約は完全なものとなる。 例えば、鏡と朝緋の契約の証は、左手の甲にある。出会った頃からずっと、外したところを見たことがなかった鏡の手袋。その下にそんな印があったなんて、月季も砂礫も知らなかった。と、いっても、実際にその呪紋を見ることができたのは、月季だけ。契約の証が見えるのは、空界の者以外では、契約を交わした者だけらしい。つまり、この場でそれに該当するのは鏡と月季と。そして、やはり契約者がいるという蔡軌。 「で、この契約の証ってのは、何で書くんだ?……血とか?」 鏡と朝緋の契約の証を見て、多少興味が湧いてきたらしい月季が尋ねた。それに、今度は銀河が答える。 「血とかじゃなくって、何も付けずに、ただ指で描くだけで良いんですって。私も、実際に見たことがあるわけではないのだけど」 自信無さそうに言う銀河の首筋には、まだ例の呪紋が残っている。 「そう、その通りよ。印の形は、銀河が知っているわ」 だからさっさと、きちんと契約して頂戴。 そう言う朝緋に対して月季は。 「……ごめん。ちょっと時間が欲しい。何もかんも、急過ぎて……」 銀河が嫌いとか、そういう訳じゃないけど、突然過ぎて何がなんだか分からないんだ。 月季の言葉に、銀河は静かに頷いた。 静かに揺れる海に、今、ゆっくりと太陽が沈んでいく。壊れかけた船から眺める夕日は、どうしてだろう、なんだかやけに物寂しく見えた。それともそれは、こちらに背を向けて、甲板から一人夕日を見ている彼の寂しさなのだろうか。 「ここにいたんだ、鏡」 ほんの少し、声をかけるのが躊躇われたものの。月季は明るい声で鏡の傍らに近付いた。 「なんだ、月季。下であいつらの話を聞いてたんじゃなかったのか?」 月季の方に振り向いた鏡は、さっき月季が感じた憂いなど微塵も感じさせなかった。けれど、月季は知っている。この幼馴染は、辛い時や苦しい時ほどこうやって、平気な顔をするのだということを。 「レキはまだ聞いてるよ、飽きもせず。好きだよねー、ああいう伝説とか伝承とかに出てくるような話」 「まあ、だからこそ俺の副業みたいな商売が成り立つんだけどな」 今現在、階下の部屋で銀河たちから空界の話を聞いている砂礫をネタに、二人で笑い合う。いつものように。まるで日常の中に戻ったように、月季は錯覚しそうなった。 けれど。 「俺と、朝緋のことか?」 鏡の台詞は、月季に否応なく現実を思い出させた。いや、忘れていた訳ではない。ただ。 ただ、少しでいいから、忘れていたかった。それが現実逃避と言われるものであったとしても。 「……うん」 それでも、いつまでも逃げている訳にはいかないから。逃げないために、鏡に聞きたいことがあった。 「鏡は、なんで朝緋さんと契約することにしたの? 別に強制されたんじゃないでしょ?」 月季の問いは、おそらくは鏡の予想の範囲内だったのだろう。鏡は僅かに苦笑すると、たいして躊躇いもせずに答えた。 「やっと逢えたと思ったからさ、俺の半身に」 「半身?」 「そう、半身。魂の片割れともいったか。まあ、俺の一族の言い伝えっていうか、信仰みたいなものにな、あったんだよ。人は皆、生まれたままでは欠けている。どこかにそれを補うもう一人がいるんだと。だから人は、生涯失われた半身を捜し続けているんだってな」 「失われた、半身……」 月季は顔を曇らせた。 銀河のことは、同年代の同性の友人がほとんどいない、というか皆無な自分にとっては、初めての対等な立場――といっていいのかわからないけれど――友人だ。砂礫や鏡は、確かに幼馴染で仲間で親友ではあるけれど、やっぱりそこは男と女なのでちょっと違う。 でも、銀河のこと。魂の片割れだとまで感じたこと、ない。 それに、半身と言うならば。言えるのであれば――。 「おい、あんまり先走るなよ。俺にとって朝緋がそうだったってだけで、全部の守護者と契約者が、お互いにそう感じるとは限らないと思うぞ」 はっとして鏡を見ると……ちょうど大きくため息を吐かれたところで。その様が、少しだけ――いや、かなり癇に障る。 「な、なんなんだよ、それ! そのため息!」 「だってお前、すぐ自分に悪い方に考えちまうだろうが。体に悪いぞ、そんなの」 「そんなことないって! なんだよ、悪い方ってのは」 「……銀河が自分の半身なら、砂礫は一体なんなんだ。とでも考えたんだろ」 ちゃかすでもなく、至極真面目に言われた言葉に、月季はとっさに声を失った。何故なら、鏡の言葉は、決して的外れのものではなかったから。 「なあ、月季」 静かに柔らかに、鏡は言った。沈みゆく最後の夕日の光は、鏡の顔に影を落としていて、そのせいか今彼がどんな表情をしているのか、月季にはうまく見えなかった。 「なあ、砂礫って、お前にとってなんなんだ?」 「なんなんだって……」 大事な幼馴染。それじゃ悪いか? いつだって、鏡のこの問いにはそう答えてきた。 「なんなんだって……」 なのに。 なのに。 なんで今、その言葉が出てこない? 「答えられないか」 鏡が体ごとくるりと反転して、欄干に背中を持たせかけた。そうなってようやく、月季は鏡がどんな表情をしているのかが見えた。 鏡は、声と同じに柔らかい、でも、どこか苦々しい、そんな表情をしていた。 「答えられないのが、お前の答えなんだよ」 「……なんだよ、それ。そもそも、なんでレキの話になってるんだよ。今、レキは関係ないだろ!?」 「じゃあ、銀河の話にするか」 食って掛かると、鏡は不可思議なほどすんなりと話題を変えてしまった。拍子抜けしてしまった月季だったが、そもそもは銀河のことを――銀河との契約のことを話したかったのだ。それにあのまま砂礫の話を続けていたら、なんだか、こう……もう、『覚悟』を決めないといけない。そんな気がした。だから、月季にとっては、この話題転換は有難かった。 「俺は、良い子だと思うぞ、あの子。優しそうだし。なんていうか、まさに『お姫様』って感じだよな。それに、お前嫌いじゃないだろ、ああいう子」 「うん、銀河のことは好き。……でも、そういうんじゃなくてさ」 「まあ、現実的なことを言っちまえば、これから『世界の果て』に向かうからには、守護者がいるといないじゃ、かなり成功率に関わってくると思う。仲間内に二人も契約者がいるなら、生きて帰ってくる確率は、かなり高くなる。……でも、そういうメリットでもないんだよな」 「うん。僕だって、これからのこと考えるなら、銀河がいた方がいいって、分かってるんだ。でも」 でも。 その先に渦巻く気持ちは、正直まだうまく言葉で表せない。それでも、鏡は急かさないで待っていてくれて。だから月季は、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 「なんていうか……違うんだ。護ってもらうとか、そういうの。実際、あの時銀河がいなきゃ、僕たちは多分死んでたけど、でも、そういうの目的で銀河のこと、助けた訳じゃないし」 別に、見返り目当てで銀河を助けた訳じゃない。目の前で死にかけている小鳥に、どんな見返りを求めるというのか。 「僕が護るんだって思ってたんだ。護られるなんて、思ってなかった」 でも、それはただの驕りでしかなかった。結局は、無力な自分を思い知っただけ。 「……なあ、世の中って所詮は助け合いだと思わねえか? 一人で生きられるような人間なんか、無理だ」 「でも、僕は。全部を護るものになりたい」 そう、全てを護るものに。全ての『脅威』から、『全て』を護るものに。 幸か不幸か、月季はそう呼べる存在を知っていた。それも身近に。鏡もそれはわかっている。 ――『最強の傭兵』、月季の父親。 「あの人を目指すのはいいさ。ただ、それでお前は寂しくないのか?」 「寂しい?」 どういう意味だろう。何もかもを自分自身の手で守れるようになれれば、それは自分が強くなるということで。 それは、あの人と――父親と、同じ地平に立てるということで。 それのどこが寂しいんだろう。 「自分一人で何でも出来るってさ、そしたら他の奴なんていらないんじゃないか? って、俺は思う。思うから……俺は、寂しい。そりゃ、他人の力を借りずに全部出来れば楽だけど」 ほんの少し、言い淀んでから鏡は続けた。 「……俺は、そうしようとして、結局全てを駄目にしたことがあるから、尚更、な」 鏡のそんな言葉を――弱音にも似た言葉を聞いたのは、初めてだった。月季の知っている鏡は、いつだって大人で、なんでもできて、いつも自分たちを助けてくれる、そんな存在だった。 「何、言ってるんだよ。お前は――お前らは、なんだってできるじゃんか!」 「そうでもないぜ。そうでもないから、俺たちはお前に助けられてる」 「へ……?」 今。今何か、信じられないことを聞いた気がして。月季は眼を瞬いた。 「……僕? って、僕何もしてないけど……」 「そういう訳でもないさ。けど、詳細は秘密だ」 「なんだよ、それっ! 気になるじゃん!?」 「いいじゃねえかよ、別に!」 「良くないって!」 「良くしとけ!」 「……何やってるの、あなたたち」 言い合いの嵐の中、突然別の声が割り込んできた。すでに夕闇に包まれ始めた空の下、それでもまだ、その声の持ち主の姿くらいは判別できる。 呆れたような顔の、朝緋が立っていた。 「別に……なんでもない」 「なんでもなくないっての。でも、まあ今はもういいや。朝緋さん、鏡に用があるんだろ?」 本当は、全然良くはなかったけれど。鏡にとって、自分が何であるのか、どうしても知りたかったけれど。でもそれは、自分にとっても鏡にとっても、今この瞬間にやるべきことではないと気付いたから。 気付けたから。 「朝緋さん、銀河はまだ下?」 「ええ。あの、月季さん」 朝緋の脇を通り過ぎようとした月季を、朝緋は呼び止めた。赤銅色の髪が、夜風に吹かれて僅かに乱れる。それを片手で押さえながら、朝緋はとても優しく笑って、言った。 「まだ、お礼を言っていなかったから……。ありがとう、私の『義妹』を助けてくれて」 「あ、えと、いや、どういたしまして。そんな大したことしてないけどさ。てか、朝緋さんって銀河の姉さんだったんだ……」 急に告げられた礼の言葉に、月季はあたふたと照れながら答えた。答えながら、月季は・なんだか強い既視感を感じていた。朝緋はなんだか、誰かに似ている。 「ええ。義理の、だけどね」 乱れた髪を直す白い指先を見ながら考えたが、どうしても答えは見つからない。諦めて踵を返しかけた時、月季の頭の中に答えが弾けた。 「あっ……! 朝緋さんだぁ……」 「はい?」 「なんだ?」 唐突な叫び声は、当然のことながら鏡と朝緋を驚かせた。しかし、二人の本当の驚きは、そのすぐ後、月季の次の言葉によって訪れた。 「そっかー、朝緋さんだったのか。鏡の小説のヒロインって、いつも同じイメージがあったんだけど、そっか、朝緋さんがモデルだったんだね」 鏡の書く小説が、月季はとても好きだ。綺麗で幻想的な小説は、普段の口の悪さがなりを潜めていて、最初に読んだ時には少なからずびっくりしたものだ。月季はその作中に出てくる女性に、いつも同じ印象を受けていて。ずっと何でだろうと思っていたのだが。 今、目の前の少女からは、それとまったく同質のイメージがある。 そっか、そうだったのか、と一人で納得していた月季は――鏡の複雑そうな表情にも、朝緋の呆気に取られた表情にも、気付くことはなかった。 「じゃ、僕ちょっといってくるね」 行ってくるね。 言ってくるね。 今必要なのは、他の誰でもなく銀河と話すことだと思ったから。銀河が結局自分にとって何なのか、整理しなければ、契約はいつまで経ってもできない。そう思ったから。 「ああ、いってこい」 鏡は全て判ったように言ってくれた。相手は違っても、鏡にとっても必要なのは――ずっと必要だったのは、同じことなのだろう。 甲板に残る二人に背を向けて階段を降りながら、月季はふと考えた。 誰かと話して、自分の気持ちを整理するなんてこと、絶対一人じゃ出来ないよね。
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