「……参ったな」
薄紫の光と藍色の闇の入り混じった中で、鏡は片手で顔を覆った。
「鋭い子みたいね」
「ああ、しかも悪気がないときてる」
「良い子ね、とても。銀河の契約者が、あの子で良かった」
「……ああ」
二人の間に、暫し沈黙が下りる。波音だけが緩やかに流れる中で、鏡は大きく息を吸い込んだ。

今までずっと、言えなかったことを伝えるために。

「朝緋」
彼女の名を呼ぶ。今日になってから、一体何度目だろう。何年も何年も呼ばなかったのに。ずっと、呼びたいのを我慢して。
「朝緋……」
朝緋は困ったような顔になって、それでも鏡の言葉を待っていてくれた。鏡が言いたいこと、言わなければならないと思っていることを、朝緋は知っている。知っていて――けれど、鏡がそれを言う必要はないと思っている顔で、それでも。
「すまなかった。お前のせいなんかじゃなかったのに」
ずっと、ずっと伝えたかった、謝罪の言葉を。ずっと謝りたくて、でも意地になって、謝れないでいて。そのことを、どんなに後悔しただろう。
「……いいえ。私だって、あなたしか助けられなかった。あなたの大事な人たち、助けられなかった。あの時ほど、自分が『癒し』の力しか持っていないのが悔しかったことはなかったわ」






鏡と朝緋が出会ったのは、鏡がまだ、月季や砂礫と出会う前のこと。
鏡の一族は、俗に言う『流浪の民』。各地を転々として暮らす彼らは、土地によっては嫌がられもしていたが、その分一族の結束は固く、鏡もまた、そんな一族と生活を愛していた。一族の中には、古くから伝わる伝承が幾つもあり、その内の一つが、月季にも話した『失われた半身』の伝承だった。鏡が『半身』として認めた朝緋を、一族の皆は暖かく受け入れ。とある事情により家族にあまり恵まれていなかった朝緋も、彼らの中で初めて無条件の安らぎを得た。
幸福だった。ほんの僅かな、一年にも満たない共に過ごした日々。
それが崩れたのは、あっという間。

流浪の一族は、彼らが自分の領地に住み着くことを嫌った貴族の手によって殺された。






「あの時お前がいなかったら、俺も死んでた。……一人だけ生き残るくらいなら死んだ方がましだ、って思ったけどな、あの頃は」
「あの時は、本気で私が銀河だったら良かったって思ったわ。あの子の力が私にあれば、誰も……」
「でも、お前の力じゃなかったら俺は死んでた」
瞳の奥に、今もあの光景は焼きついている。正直、当時の鏡には何がなんだかわからなかった。何故、仮営の天幕や馬車が燃えているのかも。何故、武器を持ち鎧を着た人間が、次々仲間を殺しているのかも。何故、自分を抱き締める母の腕が冷たくなっていくのかも……。
痛くて熱くて。冷たくて苦しくて。
――気がついたら、少し離れた丘の上で、隣で朝緋が泣いていた。声も出さず、ぽろぽろと。他には誰もいなかった。身体はもう痛くなかった。それどころか、今までのことがただの悪い夢だったかのように思えた、けれど。
起き上がった鏡の眼下にあったのは、焼け爛れたかつての幸せの名残。
「随分、酷いこと言ったよな、俺」
「罵られても仕方なかったのよ。でも……正直に言うとかなり堪えたわね」
苦笑混じりに朝緋は言うが、当時はとても笑って話せるような状態ではなかった。
ずっと続くと当たり前に信じていた場所を奪われた恐怖と混乱。それは鏡にとってだけでなく、朝緋も同様で。お互い、相手の気持ちを考える余裕なんて無くて、傷つける言葉を放って、傷つけてくる言葉から逃げて――その結果、遺された二人さえ、別離の道を歩むことになってしまった。
鏡は朝緋に向き直り、深く頭を下げた。

「酷いこと言ってごめん。助けてくれて、ありがとう」

この一言を、ずっと。
「鏡……」
朝緋の静かな声が聞こえる。頭を下げたままの鏡には、彼女がどんな表情をしているかは見えない。彼女が謝罪など求めていないと知っていて尚。
鏡には――許しが必要だった。
「……鏡」
朝緋が小さく笑んだ気配がした。

「あなたに、また逢いたかった。――また、逢えて良かった」

何の脈絡も無い言葉。けれどそれは鏡にとって――朝緋にとっても許しの、贖罪の言葉だった。
頭を上げた鏡と、朝緋の視線が緩やかに絡む。何年かぶりの、穏やかな空気がそこに流れた。
「さっき、蔡軌に『殿下』って呼ばれてたな」
するりと、聞くつもりも無かったこと、でも、どこかで引っ掛かっていたことが、鏡の口から零れ落ちた。まるで、今この時にそれを聞くのが、自然に決まっていたかのように。
「……そうよ。今じゃ私は『赤の王太子妃』だから」
蔡軌の名前に少し嫌な顔をした朝緋だったが、僅かな沈黙の後にゆっくりと答えた。
「……結婚、したんだな」
「ええ……」
朝緋に婚約者がいることは知っていた。そして、その相手が朝緋と同じ境遇にあったということも。朝緋が、その相手をとても大切に思っているということも。
「じゃあ、銀河は赤王家の」
「『赤の第一王女』よ、あの子は。本来なら王太女になるはずだった、空界の『剣』」
「そうか。月季も、すごい守護者を持ったもんだな」
「あら、伝説の呪機、空嗣の使い手なら、契約者として不足は無いと思うけど?」
くすり、と朝緋が笑う。鏡はそれを、とても穏やかな気持ちで見つめた。
かつて予想していたほどの衝撃は無く、代わりにただただ静謐な。幸せ、と言ってもいいような感情だけが残っていた。そして、それはおそらく朝緋も同じだろうと、鏡は何の根拠も無い、けれど確かな確信を持っていた。



お互いに、告げたことなど無かった。

お互いに、告げるつもりも無かった。



けれどもそこに確かに存在していた恋心が、永い年月を経て、ようやく終わった瞬間だった。











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2011.09.11