背後に賑やかな気配を感じながら、蔡軌はそっと部屋を出た。今回自分の仲間となったうちの一人(かなりのワケアリ)と、顔と周辺事情だけは知っていた姫君(こちらもかなりのワケアリ)は、何やらやけに意気投合してしまっている。のほほんとした性質に、お互い共感めいたものでも感じているのではないだろうか。はてさて、どこぞの誰かが焼きもちを妬きそうな状況だ。 そんなことを楽しく考えていると、廊下の向こうから、まさにその『どこぞの誰か』が瓦礫の破片を避けながら歩いてくるのが見えた。 「あ、蔡軌」 月季は彼を認めると、何の警戒心も持たない様子で近寄ってきた。今は甲板に行っているらしいもう一人の仲間とはえらい違いだ。 「ねえ、銀河ってまだそこの部屋?」 「うん、砂礫と二人で話してるよ。気が合うみたいですね、あの二人」 軽く爆弾を放り込むつもりだった蔡軌は、しかし、月季の顔を見て、おや、と思った。 確かに月季は眉を顰めた。気に入らないというように、おそらく無意識に。けれど、そこには今までのような翳りが――まだ完全に消えたわけでは消えたわけではないけれど――随分と薄くなっていた。 (さて、一体何を話したのやら) 人の良い顔の舌で自分が何を考えているのか、月季は知らない。だからこそ、素直に「ありがとう」と言えるのだ。そんな風に、少し皮肉に蔡軌は考えた。もちろん、欠片もおくびには出さず。 「あ、なあ、蔡軌……」 蔡軌の脇を擦り抜けて、ドアノブに手をかけた月季が、開こうとした扉から離れて蔡軌を見上げた。その声に微かな躊躇いを読み取った蔡軌は、優しく月季を促した。 「何? どうかしたんですか、月季?」 その声に押し出されたように、月季はぽつりと呟くように言った。 「なあ、蔡軌はさ……。……蔡軌、の、守護者ってどんな人?」 いかにも聞いてはいけないことを聞いています、といった風情の月季に、蔡軌はひっそりとした苦笑を噛み殺した。 「そうですね……いいひと、だったよ。私と初めて出会った頃は、本当に」 なのに、と目線を下げてみる。まるで悲しさに耐えるように。そう、見えるように。 「誰かを陥れるとか、そんなことを考える子じゃ、なかったのになあ」 ぽろりと零れるように言うと、月季の顔色はあからさまに慌てたように変わる。 「あ、あの、でもさ。なんかの間違いかもしれないじゃん! 蔡軌の守護者が銀河のことを、その……殺そうとしたってのも」 これで一応、蔡軌のことを慰めてくれているらしい。本当におもしろい、この月季――月季を含めたこの船の乗員は。 「いいんだよ、月季。人は、変わるものなんだ……悲しいけれど」 「蔡軌……」 どことなく寂しさを感じさせる蔡軌より、月季の方がよっぽど哀しそうな顔をする。だから、こちらは逆に明るい顔をしてみせる。月季が気にすべきことではないと、そう言外に伝えるように。 「でもね、私は努力を怠らないつもりなんだよ」 「努力?」 「そう、彼にずっと変わらないままでいて貰うための――ずっと友達でいるための、努力をね。悪い方に変わったと思うなら、引き戻してあげるのが友達というものだろう?」 「蔡軌……うん、うん、そうだね。そうだよね!」 ぱあっと、月季が笑顔になる。それに微笑み返しながら、蔡軌は。すっと奥の部屋を指示した。 「ほら、月季にはまだやることがあるんでしょう? うまくいくことを祈っているよ」 優しい声と笑顔に、有無を言わせない響きを含ませて。蔡軌はこの場から月季を追いやることにした。 「うん、ありがと蔡軌! ……がんばってね」 そう言うと、月季は扉を開き、部屋の中に足を踏み入れた。一瞬聞こえた月季を迎える声は、すぐに閉ざされた扉によって聞こえなくなる。 誰もいなくなった廊下で、蔡軌は一人込み上げてくる笑いを押さえきれずにいた。しかしそれは、今まで月季に対して向けていたものとはまるで違う、とても酷薄な――嘲笑。 カナシイ? 誰ガ? 悲しさなど、寂しさなど感じるわけがない。 感じているとすれば、それは。 明らかな失望。 「さて……そろそろお仕置きに行かないと……」 悪い方に変わったなら、引き戻してあげないと。それは、月季に言った通りで蔡軌の本心なのだけれど。月季が受け取ったであろうものとは全く違う意味を持っていることを知っているのは、蔡軌本人だけだ。 くすりと、もうひとつ小さく笑みも零して。蔡軌は音も無く、文字通りその場から掻き消えた。 「あ、月季」 「お、今お前の話してたんだぞ」 部屋に入ってきた月季を、砂礫と銀河は楽しげに迎えた。蔡軌の言っていた通り、この二人は気が合うようだ。その仲睦まじげな様子に、月季の心のどこかがもやもやとした感情を訴えてくる。しかし、そこには今までほどの不快感はなく。 「やだな、何の話してたんだよ。レキってば、銀河にヘンなこと吹き込んでないよね?」 「いや、別に……」 視線を泳がせる砂礫を月季が軽く睨みつけると、銀河がくすくすと笑いながらばらした。 「あのね、砂礫さん、小さい頃のお話をしてくれていたの」 「小さい頃……って、おい! レキお前まさかっ」 小さい頃の話というと、まず真っ先に思い浮かぶのは。 『俺さ、ぜーったい月季のことしあわせにするから、だから大きくなったら俺のおよめさんになってよ』 何度も何度も何度も聞かされたプロポーズの言葉。 「いや、だって、だからっ」 「おーまーえーはーなーっ!」 砂礫の胸倉を掴んでぐらぐら揺さ振る月季を、銀河が慌てて止める。 「げ、月季、落ち着いて! 変な話なんかじゃなかったもの。素敵だなあと思ったのよ?」 「素敵……ねえ」 自分の腕を押さえた銀河の細い腕を振り払うことはできたけれど、月季はそうしようとは思わなかった。代わりに、砂礫と銀河の間によいしょと座り込んだ。 「レキ、今日のところは見逃してやる。話があるんだ、二人に」 月季としては、できるだけ気軽な声を出したつもりだったのだけれど。それを聞いた二人の方ははっとして、表情を引き締めた。 「って、そんな硬くならないでよ。僕だって、まだちゃんと自分のいいたいこと、分かってるわけじゃないんだから」 慌てて釘を刺して、少し二人の顔が緩んだのを確認して。月季は一つ、長く息を吸った。空気中に流れている勇気を、自分の中に取り込むかのように。 「僕はさ……銀河が好きだよ。まず、それだけは分かってて欲しい」 銀河がふわりと微笑み、頷いた。その反対側で砂礫が不満そうな顔をしているのを見て。月季は小さく苦笑した。 「なあ、レキ」 「ん?」 「僕のこと、好き?」 「……月季?」 そこで月季はもう一つ息を吸った。今まで認められなかったことを認めるということは、存外に勇気が必要で。だからこそ今まで認めることから逃げていた。 けれど。認めることで何かを変えることが――前に進むことが、できるような気がする。 だから、今。 「僕は、レキが好きだ。多分、ずっとずっと、特別だったんだ」 もういい加減、認めてやるさ。それでこの胸を刺す痛みが小さくなるのなら。……もう少しだけでも、前に進めるのなら。 砂礫は、一瞬固まって。それから目に見えてあたふたしだした。 「げ、月季……あの。あの、俺……俺、も好きだ」 「知ってる」 顔を真っ赤にして、しどろもどろになりながら、それでもはっきり自分を好きだと言ってくれた砂礫に、月季はにっこり笑って言った。 たった一つの好きだという言葉が、こんなに心を楽にしてくれるとは思っていなかった。 「ありがとな、レキ。自信が出てきた。……あのさ、銀河。僕、自信が無かったんだよ、今まで」 急に話を振られた銀河は、驚いたように二、三度瞬きをした。 「自信?」 「うん、自信。今まではさ、僕の父さんってすごい人で、ちょっとやそっとじゃ追いつけない人で、僕はあの人の子供なのに全然すごくなんかない、ただの女子供でさ。それで男の恰好してみたり、男言葉使ってみたりして。でも、それで何か変わるわけじゃないし」 月季は改めて自分の幼さを認識し直してちょっとへこむ。恰好や言葉を変えたくらいで、性別まで変えられるわけがないのに。自分はずっと、そんなことを気にしてきた。 「銀河とのことだってそうだよ。銀河、すごく強くてすごく綺麗で……僕なんかが契約者でいいのかなって」 銀河は微かに眉を顰めたが、ただ黙って月季の話を聞いていた。 「でもさ、『僕が好きな砂礫』が『僕のことを好き』なんだって言うからさ。もしかしたら、自信持ってもいいような気がしてきたんだ。僕がすごいと思って、僕が誰より信じてるレキが、他でもないこの僕を好きでいてくれるなら……それなら、それって僕にとっても信じられることだと思うんだ」 だから、と言葉を繋ぐ前に、月季はもう一度息を吸った。今まで一番の勇気を、自分に、どうか……。 「だから、さ。僕が信じられる僕なら、僕の好きな人たちの傍にいられる。そう思ったんだ。だから」 月季は、ゆっくりと手を差し伸べた。 「銀河。僕が契約者でもいいんなら、僕はこれから銀河とも一緒にいたいよ」 銀河は月季の掌を見つめた。そしてゆっくりとその視線を月季の顔に移した。 すうっと、白い手も差し伸べられる。 「こんな私が守護者で良いのなら……私も、月季と――月季たちと一緒にいたいわ」 そして二人の手は、しっかりと繋がれた。 再び結び直された絆。 新しく結ばれた絆。 そして、それを見守っていた者。 それぞれがそこにあることに満足し、全てがそこで完結していた。 だから、誰も気付かなかった。 気付くのが遅れた。 この船に乗っていたはずのもう一人の気配が、完全に消えてしまっていたことに……。
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