誰も――彼以外誰もいなくなったはずの部屋。灯は充分なはずなのに、彼には何故だか薄暗く感じられた。 「惨めなものだね、緑柱の公王ともあろう者が」 不意に近くで聞こえた声に、彼はびくりと振り向き、呻いた。 「貴様……」 「久しぶりだね。何年ぶりかな? まあ、そんな時間の概念、僕には必要ないけど」 地界の人間から比べれば悠久といってもいい時を生きる空界の民にこんなことを言える種族は、たった二つしかない。 すなわち、神。あるいは――魔属。 「何をしに来た? ここは貴様なぞが来てよい場ではない!」 「それはご挨拶だね。昔はあんなに歓迎してくれたのに。まあ、いいさ。僕は怒っているんだよ」 わざとらしくため息を吐いてからにっこり笑った蔡軌の目は、怒っていると言った割には何の表情も浮かんでいなかった。 「僕が企画した『劇』の中で赤の姫君を殺そうとするなんてね。まあ、そんなことは初めから不可能だっただろうけど。あの魔物だって、僕が用意したものなんだし」 「用意した、だと? 蔡軌、貴様……」 「そう、魔物も、傭兵も、全部僕が退屈しのぎにお膳立てしたものなんだよ。つまり、君は愚かにも、君が心底毛嫌いする僕の掌の上で悪巧みしていた、ってこと」 「そんな……」 掠れ声で喘いだ公王は、急に喉に圧迫感を感じた。しかも、その圧迫は見る間に強く強く、実際に首を絞められているかのようにさえ感じられるほどになって。 「さ、蔡軌……、貴様……な、にを」 さすがに彼にも判った。蔡軌が何らかの力を使って彼の首を絞めている、ということが。 「ああ、やっと名前を呼んでくれたね。最期に聞けてよかったよ。でも、これでおしまい。どうせこのまま生きてたって、王女殺害未遂の犯人なんて余生、君の望むところじゃないだろう? だから……」 蔡軌の手が、ゆっくりと伸ばされた。掌を下に向け、ゆっくりと、まるで何かを掴み取るように握り込む。 「ねえ、君はやっぱりこんな処にいるべきじゃなかったんだよ」 蔡軌のそんな言葉を聞きながら、緑柱の公王の意識は、静かに静かに消えていった。 「……」 蔡軌はそのまま、握り込んでいた掌を上向けた。その指の隙間から、いつの間にか淡い光が漏れ出していた。掌を開くと、その光はまるで小さな光はまるで小さな炎のように揺らめきながら、蔡軌の掌の上で輝いた。 これは、魂。蔡軌の手で掴み取り摘み取った魂。 「さあ、お行き。もう一度、僕のために」 そっと囁くと、淡く光る魂はすっと浮かび上がり。そのまま宙に溶けていった。 空界の民、は。生涯、ただ一人の相手と契約を交わし、それぞれが持つ不思議の力を行使して、そのただ一人を守護する。相手が死んでも、その魂が存在する限り何度でも契約を交わし、自分自身の消滅のときまで、ソレを繰り返す。 しかし、本当は。あまり知られていない、もう一つの事実がある。 永くを生きる空界の民より、さらに永い時を生きるだけの力を持った上位魔属である蔡軌だからこそ知りえている事実。 すなわち、翼の民もまた、己が死んでも契約した魂が存在する限り。何度も同じ相手との契約を繰り返すのだ。 蔡軌は、魂の光が溶けていった先を見つめるように。どこかここでない場所を見つめるように。視線を虚空にさ迷わせた。 『空界を、契約者が魔属だからって、そんなことで他人を蔑む世界じゃなくしたいんだ』 そう、彼が言った日のことを、今でも昨日のことのように覚えている。 自分にとって、そんなことはどうでもよかったのだけど。でも。 『それで、そしたら世界中に自慢してやるんだ。俺の契約者はこんなにかっこいいんだぞーって』 そう言った彼の気持ちは、とても嬉しかったから。その度に蔡軌は「楽しみにしているよ」と年下の親友に笑いかけたものだった。 それなのに、いつもいつも。 蔡軌と笑い合った少年は、結局は魔属を嫌悪する世界へと飲み込まれてしまう。その度に彼の魂を摘み取り、生まれ変わった彼と再び契約を交わし――。 そんなことを、もう何度繰り返したことだろう。 「なあ、僕は――」 ぽつり。蔡軌は聴く者のすでにいない呟きを零す。 「僕はただ、君とずっと友達でいたいだけ、なんだ」 そして。先ほどの魂と同じように。蔡軌の姿はその場からその姿を掻き消えた。
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