「あれが、審査に合格したと……それも魔物を倒して生還したと、そう申すのだな?」 「は、恐れながら……」 「……もう良い! 下がれ!」 女はヒステリックに叫びながら、彼女に報告していた男に向かってグラスを投げつけた。男はそれを避けず、男に当たり跳ね返ったグラスは床に落ち、砕け散って破片となった。しかし、次の瞬間には男の影は消え、後には目を血走らせた女のみが残った。 「おのれ……おのれ! あ奴め、どこまでも妾を愚弄しおって……っ」 女はグラスだけに飽き足らず、それが乗っていた小振りなテーブルをもなぎ倒した。 「おのれ……あの男、一体何をしていたのだ! 妾を助けると――あ奴を殺す手伝いをすると、そう申していたではないか!」 一度彼女の前に現れた青年は、確かにそう言った。退屈だから、手を貸すと。だから女は、その手を借りた。――その青年が、人外のモノだと判っていて、それでも。 、と。 ふわり。カーテンが揺れる。閉じていたはずの窓から入ってきた風が、女の頬に触れ、流れていく。 女は、ゆっくりと振り向いた。言い様のない既視感を感じながら。 「多少、申し訳ないと思わないでもありません」 そこには、あの青年が立っていた。ぞわり、と女の背が粟立つ。 「申し訳ない。貴女の殺したい人は、生かしておいた方が、私にとってはおもしろくなりそうなもので」 「何、だと……」 常の女であれば、このようなことを言われて黙っていはしない。思う様相手を罵倒し、詰っていただろう。しかし、目の前の人外の男に対しては、どうしてもそれが出来なかった。男の纏う空気――思わず頭を下げずにはいられない、王者の威圧故に。 「貴女の望み通りに動かなかったお詫びに、貴女からは『何も奪わない』。奪う価値のあるものが、貴女にあるとも思えないけれど、それでも全てを失うよりはましでしょう」 そう言って、ふっと浮かべた苦笑めいた表情を最後に、青年は夢か幻であったかのようにその姿を闇へと溶かし、掻き消えた。残された女は、思わずその場に膝を崩してしまった。急に感じた冷えた風に、全身に冷や汗をかいていたことにようやく気付く。 少しでも逆らえば殺される。 本気でそう思ったのは初めてだった。 今までに感じたことのない圧迫感。あれが――魔属。 己がどんなに危険な相手の手を借りようとしていたかようやく自覚した女は、しばらく正気を失ったかのように虚ろに空を見つめていた。 「失礼致します、王妃。国王陛下がお呼びでございます」 やがて、扉の外からこう声をかけられるまで、女は――このエルスティン王国の王妃は、時の流れすら忘れ果てたように座り込んでいた。 シェニファの港に月季たちが着いてからは、上を下への大騒ぎだった。 ユージスとの間の海路に巣食っていた魔物が倒されたのだ。 例え実感が湧かなくても、月季たちは既に英雄といって差し支えなかった。 まるで嵐のような歓迎式典や祝賀会。そういったことをシェニファで一通り終えてエルスティン国に戻ってみれば、また似たようなことの繰り返し。本拠地である古城でも熱烈な歓迎を受けた月季たちは、彼らのねぐらでゆっくりすることすらほとんど出来ず、国賓として王都に向かうことになった。 月季も鏡も、それから姿を隠して付いてきた朝緋も王都を訪れるのは初めてで、けれど。 そこは、砂礫にとっては生まれ故郷だった場所だ。――同時に、母子して追われた場所でもある。良い想い出があるはずもない。長い付き合いの中で、月季も鏡も砂礫の身の上に関する事情については否応なく知っていた。だから、砂礫にとってこの王都訪問は辛いことなのではないかと心配していたのだが。 「全く、レキときたら……」 王都に入った月季たちは、エルドラドの所有する館に身を寄せることになった。それなりに立派なその屋敷は、先日まで乗っていた船に比べれば数段居心地が良い場所だったが。月季の本音を言ってしまうと、住み慣れた古城の自室の方がずっといい。贅沢なものでは埋められない空白は、まだ月季の中にあった。でも、それは以前より――銀河と出会う以前よりは小さくなっていて。月季自身、そのことに自分でも驚いていた。 「っとに、レキときたら……」 館の中の広々とした中庭で一人愚痴る。むしろ今の月季にとっての問題は、砂礫の態度にあった。王都に入って以来、やけに明るいというか元気がいいというか。それでいて時折、ふと気付くと遠くを見ている。 先ほど、月季たちは国王との謁見を済ませてきた。謁見後、砂礫だけ、国王が直に話をしたいと呼び出され。そして、彼はまだ戻ってこない。 砂礫の態度の原因が、この場所に――国王のいる、この場所にあるのは明らかなのに。砂礫は絶対に自分ではそうとは言わない。どうせなら、もっと前面に出して悩んでくれればいいのにと思う。そうしたら、いくらだって慰められるのに。だけど砂礫は、いつも月季にも鏡にも気づかれないように悩むから。その悩みに、簡単に触れて欲しくないように悩むから。だから月季はいつだって、側で苛々しながら機会を窺うしかできない。 もう一人の幼馴染である鏡はといえば、それでも要所要所でさり気なく砂礫を気遣っている。けして器用ではない月季にはとても出来ない芸当。正直、鏡がとても羨ましいし――何だか妬ましい。 「銀河がいてくれたらなあ……」 空界に帰ったままの守護者を思う。他人に愚痴を零すのは嫌いだが、それでも今のこの気持ちを銀河に聞いて貰えたら、少しはすっきりするだろうに。 「あ〜もう! やっぱりレキが悪い! レキのせいだっ」 ぐわうと叫んだ月季の背後で、突然。 「ひでえ言い草。俺が何をしたってんだよ」 「レキ?」 いつの間にか、そこには。呆れたような顔の砂礫が立っていた。ついついと人差し指を動かして、中庭の隅に配置されているあずまやへと、砂礫は月季を誘った。特に文句はないけれど、まだちょっと驚きにばくばく音を立てている心臓を抱えたまま、月季は素直に砂礫の後に続き。 あずまやの中の木の椅子に、隣り合って腰掛けた、ところで。 肩に突然の重みを感じて、それが何かもわかってしまって。月季はらしくもなくうろたえた。 「レキ、え、レキ!?」 「……わり、ちょっとこうさせてて」 月季の肩に、砂礫の頭の重みと、砂礫の体温が伝わってくる。 そして、初めてじかに感じる、彼の弱さ、も。 だから、月季は。 「……うん」 ただ、黙って。初めて自分の前に曝け出された彼の弱さを支えるように――それはずっと、彼女の望んでいたことでもあった――ただ、黙って。傍らに、寄り添っていた。
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