時は少し前にさかのぼる。 壮麗にして絢爛。優雅にして重厚。久方ぶりに足を踏み入れた王宮は、以前と変わらず美しく威厳に満ちていて――そして、以前と変わらず、砂礫の存在を圧迫しているように感じられた。再びここに足を踏み入れることになるとは、母が死んでから、考えたこともなかった。 控えの間の中で、すぐ側にいる月季と鏡が軽く緊張しているのが感じられた。そして、そして、自分のことを気にしている気配も。二人はきっと知らないのだろう。今、この場に再び立っている自分が、二人がいてくれるということでどんなに救われているかを。もしも一人でいたならば、きっと砂礫はこの白の重たく冷たい空気に押し潰されてしまっていただろう。 いや、と心の中で小さく首を振る。一人だったなら、おそらく自分はここにはいまい。 二人がいたから、『世界の果て』を目指せた。だから今、ここにいる。 控えの間の扉をたたく音がした。続いて、見知らぬ侍従が入ってくる。 「お待たせしました、どうぞこちらへ」 物々しく頭を下げる侍従に、蔡軌が了解の旨を告げる。 本日彼らが王宮を訪れたのは、このエルスティン国の国王との、公式の面談のためだった。『世界の果て』に旅立つ傭兵が自国内のエルドラド支部から出るということは、その国にとって大きな意味を持つ。もし、その傭兵たちが『世界の果て』に到達したとしたら。今までに例が無いだけに何ともいえないが、その傭兵の出身国は、『世界の果て』関する事柄について何らかの形で有利になる――と思われている。少なくとも、他の国よりは。 本当にそんなことになるかは実際に『世界の果て』に到達し生還しなければ判らないことなのに、まだ旅立ってもいないうちからご苦労なことだ、と砂礫は思う。 侍従に従い、控えの間を出る。王宮の廊下は、不必要に豪華だ。古くから伝わるその建築は、この国の歴史と権力を誇示するもの――彼らの向かう先にいる、一人の男の権力を。 「こちらでございます」 大きな大きな扉の手前で、侍従はまた頭を下げ、そして扉を押し開く。その先には、更に絢爛な世界が待っていた。 玉座の間。並びいる華やかな装いの貴族達。そして、その奥に座するのは。 敷き詰められた深紅の絨毯を踏み、砂礫達は玉座に向かって進んだ。そして予め教えられていた通り、玉座に上る段の手前で跪き、臣下の礼を取った。 「面を上げよ」 低い、深みのある声。言われた通りに頭を上げ、砂礫は真っ直ぐに見つめた。玉座に座する男の顔には、さしたる感慨も見られない。 (少し、老いたな) 記憶にあるよりも幾らか皺の深くなった顔に、会わずにいた時間の流れを感じた。 彼こそ、かつて砂礫の母の死と共に砂礫を捨て、砂礫が捨てた男。 十数年ぶりの、父と子の対面だった。 対面は、滞りなく、また儀礼的に終わり。政治としては、面談したという事実だけがあれば良かったかもしれない。心が篭っているのかどうかも判らない激励を受け取った後、砂礫たちは控えの間へと戻った。これで、全てが終わり――のはずだった。 そこへ。 「陛下が特別に、砂礫様とお話になりたいと仰せでございます」 玉座の間へと案内したのとは別の侍従が砂礫を呼びにきた。軽く眉を顰め、砂礫は立ち上がった。予想の範囲内のことではあったが、まさか本当に話したいなどと言ってくるは。 「レキ……」 月季の小さな声が、砂礫を呼び止めた。振り向くと、心配そうに揺れる大きな瞳。 何でだろう。その瞳を見た途端、己の中のとげとげした気持ちが一気に霧散した。 「大丈夫だって。行ってくる」 笑って軽く手を振った。本当は月季に触れたかったこの手だけれど、それは照れ臭いのでやめておく。ちらと鏡を見遣ると、苦い顔で、でも黙って頷いてくれた。お前の思う通りにしろと、そう声無き声で言うように。 いつも自分を支えてくれる二人。心を救って、背中を押して。二人がいるから――歩いてこれた。 「多分、すぐすむだろうけど……館で待ってて、くれるか?」 おずおずと言った言葉は、二人の笑顔に返された。 「うん、待ってるから!」 「行ってこい、気をつけてな」 「ほら、砂礫。侍従の方が待ちくたびれてるよ。別に何も言わなくても、皆待ってますから」 そう言ってくる蔡軌もまた、今の自分にとっては大事な『仲間』なのだと、そう告げたら、この男はどんな顔をすることか。こっそり想像しながら砂礫は答えた。 「だな。じゃ、ちょっと行ってくる」 そして、先程から待っていた侍従に向かって軽く会釈した。 「……どうぞ、こちらへ」 控えの間を出て、王宮の奥へ奥へと向かう。黙っているのも気が引けて、砂礫はぽつりと口を開いた。 「お久しぶり、ですね」 遠い昔の顔馴染である老いた侍従は、同じようにぽつりと答えた。 「本当に……。ご立派になられたそのお姿、拝見できて真に嬉しゅうございます」 この侍従は、かつて王宮に仮住まいしていた砂礫と、国王の寵妃だった砂礫の母の世話を任されていた人物で。やがて、王妃の嫉妬を買った砂礫の母を、『最強の傭兵』――月季の父親に預けて小さな街に逃がすよう手配したのも、全て彼。 ただ、その時にもう、母と呼ばれるその人は、すでに心を病んでいたのだけれど。 王に愛される程の美貌を誇った彼女は、しかし王宮の醜い争いを渡っていける程の強い心の持ち主ではなかったのだ。 街へ移り住んでしばらくして、母は死んだ。 すでに世継を得ていた王は、愛した女程にその息子には興味を持たず。砂礫もまた王に対する親愛の情など、とうの昔に捨ててしまっていた。 でも、それとこの人物に対する感謝の念とは別のものだから。 「あの方は……どうして今更、俺なんかに会いたいのでしょう?」 「そのようなことを仰いますな。お懐かしくなられるのも、当然のことでございましょう」 「そういう、ものなんですかね」 「そういうものでございます」 ぽつり、ぽつりと言葉を交わしながら、二人は王宮の更に深部へと向かった。 そして。 「こちらでございます」 老侍従は恭しく頭を下げると目の前の扉を開け、そこでまた頭を下げた。 「お連れ致しました」 「入るがよい」 ゆっくりと背後で扉が閉まりゆくのを感じながら、砂礫は部屋の奥に立つ男を見つめた。そのすぐ横に、砂礫に背を向け窓の外を見る女の後姿も目に留めながら。 「……久しいな。母親に似てきた」 「そうでしょうか? ……お久しぶりです」 そして砂礫は、生まれてこの方数度しか口にしたことのない言葉を紡いだ。 「父上」 と。 「お前が『最強の傭兵』のもとで傭兵になったとは聞いていたが、まさか『世界の果て』に派遣されるほどの傭兵になるとは、想像していなかった」 「それは、褒められたと思って良いのでしょうか?」 「褒めているのだ。よくやった」 「……恐れ入ります」 こんなふうに、再び彼と話す日が来ることを、想像しなかったと言えば嘘になる。でも、その想像の中では、砂礫は彼をなじり、自分と母の味わった苦しみを訴えることしか考えていなかった。 もう、父親でも子でもない。もう他人なのだと突きつけたかった。 もう、自分に関わるなと、そう。 けれど、目の前のヒトは以前ほど厳格ではなくなっていて。その目の中の奥の光に、微かに微かに親の情とでも言うべきものを見つけてしまって。 求めてもいなかった何かを、ようやく与えられたように、思えた。 大嫌いで、でもどこか申し訳なく思っていた女性の方は、一度もこちらを見なかった。疲れたようなその背中は、憎悪とは違う、諦めにも似た想いを浮かばせていて。 彼女もまた、もう若くはないのだと気付いた。 感じたのは、否応なしに過ぎた時の流れ。 砂礫が逃げて逃げて、思い出さないようにして。それでも忘れられなかった憎しみやら悲しみやらは、いつの間にか風化して。砂礫が背を向けている間にいつしか、違うカタチに変わっていたようで。 それが、良いことなのか、悪いことなのか、それは判らないけれど。 実りのある会話なんて期待していなかった。 けれど、この僅かな時間を一生忘れることはないだろうと、砂礫は想った。
|