四月二十日(火曜日)









「頼む、コレ、お前が預かっててくれ」
 ソレを渡した手は震えていた。震えを抑え込むように、カラになった指をぎゅっと握った。
「いいのか、これ……」
「いいんだ」
 戸惑ったような友人を遮って。差し出したままだった両手を、最後の未練を断ち切るようにだらりと垂らした。
「そのうち、コレからも彼女は消える。僕やお前の中から消えるのと同じに」
 だったら、持っててもツラいだけだ。そう零すと、友人は自分の方がどこか怪我して痛いような、そんな顔をした。最近は、こんな顔をさせてばっかりだ。
 友人の手の中、手渡したソレの中で。今はもういない――いや、今はまだいないというべきか――彼女が、一面の桜と共に微笑っていた。

 ***

 アリスが指定した十一時。三人は昨日と同じファミレスに集合していた。同じように窓際の四人席のテーブルで、昨日と同じ席順で。アリスが早速、切り出した。
「で、見せたいモノって?」
「コレだよ」
 アキラがカバンからクリアファイルを取り出すと、その中から小さな紙片を取り出すと、クリアファイルの上に載せた状態でテーブルの上に置いた。紙片、いや、ナオが見間違えるはずもない――写真。しかも、この写真は。
「おまっ……、飯塚! お前、どこでこの写真……」
 あの、桜吹雪の写真だった。
 ナオ自身、撮ったことすら忘れていた写真。プリントした後は専門学校の中でしか発表していなくて、もちろんアキラに見せた覚えも、ましてや渡した覚えなんて、これっぽっちもない。
「やっぱり、コレも忘れちまったのか」
 呟くアキラは、昨日と同じような、どこか痛そうで悲しそうに見える顔をしていて。昨日からこんな顔をさせてばっかりだな、と頭の片隅で思ったけれど。正直、それどころじゃない。
「お前が俺に、渡してきたんだよ、この写真。持ってるのはツラいから、って」
「なんで」
 アキラの答えに、ナオは呆然と問い返した。
 写真に映っているのは、一面の桜吹雪。今年の桜の季節に撮った、ナオの最高傑作、の写真だ、これは。
「この写真、本当はアリスちゃんが映ってたんだよ。満面の笑顔でさ。昨日見たら、やっぱり消えちまってたけどな。消えるのがわかってるから、持ってるのがツラい――って、楠本、俺に渡してきたんだ」
「そんな……」
 そんなの知らない、覚えてない。そう言いかけて――ナオはようやく、自覚した。
 これが、『忘れた』ということなのだ。
 過去の自分がしていたこと、持っていたモノ。他人が覚えているのに、肝心の、自分自身が何も覚えていない、思い出せない。まるで他人事のように思えるのに――撮った写真は、確かにナオのものなのだ。
 今、この瞬間まで。ナオが、今よりほんの少し前、未来からやってきたアリスと恋に落ちたというのは、見知らぬ少女が話す絵空事のようなモノだった。だって自分に、少しも実感がなかったのだから。なるほどそんなことがあったのか、と頭でだけ納得して、心は全然、わかっていなかった。
 この写真にアリスが映っていたというアキラ。そして一昨日、アリスに写真を撮っていいか尋ねた時に聞かされた、未来の人間は過去の人間の記憶だけではなく、写真などにも残らないという話。それらがナオの中でつながって――。

 ***

「××!」
 桜吹雪の中、彼女が風に乱れる髪を押さえながら振り向いた。
「すごい、すごいよ! すごい綺麗!」
 興奮気味に「すごい」と「綺麗」を連発する彼女に苦笑しながら、彼は桜吹雪に向かって何度も何度もシャッターを切っていた。
 強く吹く風、視界一面、桜色に染まる。一枚一枚の花びらが、まるで一つのイキモノのようにうねって、空に駆けて行くようで。いつしか、カメラを持つ彼の手は力なく垂れてしまっていた。ファインダー越しではなく、自分の目で。ただただ桜の渦を見つめていた。
「××!」
 彼女が、また、彼を呼んで。彼は。
 桜の中で嬉しそうに微笑む彼女を、見た。無意識に、カメラに手がかかる。愛用のカメラを構えて、そして。
 風が止む、ほんの少しの手前――もう一度、彼女の笑顔に向かって、シャッターを押した。

 ***

「うそ……」
 アリスの声に、ナオは我に返った。食い入るように見ていた写真から、テーブルを挟んだアリスの方に視線を移すと、アリスもまたナオと同じように、食い入るように写真を凝視していた。
 と、アリスが急に立ち上がった。
「ちょ、どうしたの」
 ナオの声にも返事せず、アリスはすたすたとファミレスの入り口に向かって行って。そのまま「ありがとうございましたー」という店員の挨拶を背中に受けながら、出て行った。後に取り残されたのは、昨日と同じでナオとアキラだけ。
「……悪い飯塚、ここの払い頼む!」
 呆然としたのは一瞬で。ナオは慌ててカバンを引っ掴むと、アリスの後を追いかけるようにファミレスを飛び出していった。途中、店員にぶつかりそうになり、慌てて謝りながらも、ただ、アリスの背中を追いかけて。
「……」
 最後、たった一人残されたアキラは。
「まあ、いいんだけどね。これで丸く納まってくれれば」
 と、テーブルの上に取り残された写真を、ちょっと寂しそうな手つきで撫でた。



「ねえ、おい、ちょっと待ってよ。どうしたんだよ急に!」
 すたすたと、俯いて。足早に歩くアリスは、返事どころか振り向きもしない。それを必死で追いかけるナオの耳に、通りすがりの通行人の「あ、カップルの痴話喧嘩」という声が飛び込んできて。「いや、違うんです。すみません」と謝りたくなった。
 痴話喧嘩以前に彼女が何にむくれてファミレスを飛び出したのかすらわからないし、そもそもがカップルではない――いや、『まだ、ない』と言うべきか。それとも『もう、ない』と言うべきか。カップル――というと恥ずかしいけれど、とにかく、そういうふうにくくられるのは、ナオの過去と、アリスの未来、だ。
 駅から離れ、住宅地を迷う様子もなく(というより、周りを見ようともしていない)ざくざくと進んで行くアリスを追いかけて。二人はやがて、小さな児童公園にまで来ていた。昼時なせいか、こどもの姿は無い。ナオでさえ初めて来る場所で、当たり前だけれどアリスだって初めての場所だろう。そこでアリスはようやく足を止めて。大きな木の陰にあるベンチに座った。
 膝の上で、両手をぎゅっと握りしめて。やっぱり俯いたままのアリスに声をかけていいものか、それ以前に近寄っていいものか。ナオはそのどちらもできず、ベンチから少し離れた場所に立ち尽くしていた。
 何分くらい、そうしていただろう。二人の間には、相変わらず沈黙が横たわっていて。さすがに気まずくなってきて、辺りを見回したナオは。公園の端に自動販売機があるのをみつけた。そちらに向かって行こうとした時、ナオの動く気配を感じてか、アリスが小さく、びくりと震えた。その仕草に、ちょっと困った表情をしてから。ナオは、自動販売機で冷たい缶のお茶と、清涼飲料水、二本買ってアリスのいるベンチまで戻ってきた。
「はい、これ。どっちでも好きな方」
 缶を二つ、アリスの横に並べて置いて。さらにその横に、缶の分だけ隙間を空けて座り込む。アリスはちらっと缶を見て、でも手は伸ばさずまた俯く。
 そうして、また数分。汗を掻いてきた缶の足元に、水たまりができ始めた頃。す、と動いたアリスの手が、お茶の缶を選びとった。そのままプルタブを上げて、一口だけ、こくん、と飲む。それを見届けたナオも、内心ホッと息をつきながら残された清涼飲料の方を取り上げて、こちらはごくごくと一気に缶の半分くらいまで飲み干した。
「……きみ、授業じゃないの?」
「え? ……ああ!?」
 ようやく口を開いたアリスの指摘に、腕時計を見て。ナオは絶望的な声を上げた。今から駅まで戻って電車乗って学校まで走っても――授業の半分、間に合わない。しまった、すっかり時間を忘れていた。……けど。
「仕方ない、かな」
 こういう時は開き直るに限る。図らずもアキラが言っていたように、『女のために授業をサボる』状態になってしまったけれど。
「仕方ないって何よ。学費自分で払ってるんだから、授業出ないと割に合わないんでしょ?」
「でも、君を放っておくわけにもいかないでしょ」
 そう言ったら、「ばっ……!」とアリスが口をぱくぱくさせて絶句した。心なしか、顔が赤い。
「ばっ……かじゃないの?」
 ようやく出てきた言葉は、ナオを罵倒する内容だったけれども。生憎とこちらには、罵倒される覚えがない。
「や、だって未来から来た女の子を、よく知らないところで一人歩きさせられるわけないじゃないの。昼間だからって、危ないことはあるし……」
「そんなことで授業サボるわけ、信じらんない!」
 さっき、一口だけ飲んで両手に持ったままだった缶を、ぐびぐびという効果音が付きそうな勢いで飲み干して。ぷは、と息を吐いたところで、「でも」とアリスが小さく、呟いた。
「……ありがと」
「どういたしまして、ってお礼言われるようなこと何もしてないんだけどね」
 ナオの方ももう一口、温くなってきた清涼飲料を飲んでから。改めて、アリスに問いかけた。
「それで、いったいどうしたの、急に飛び出して」
「……」
 まただんまりになるアリスから、またしばらく待つことになりそうだと思いながら。ナオが長期戦を覚悟したところで。ふっとアリスが顔を上げた。といっても、見ているのはナオの方ではなく、真っ直ぐ前、公園の入り口の方を、だけど。
「あの写真、きみが撮ったの」
「え、ああ、うん。三月の終わり頃に。……君が映ってたなんて、知らなかったけど、自分ではいい出来だと思ってる」
「そう」
 興味なさそうなアリスに、またどうしたらいいかわからなくなって。言葉を探して空を仰いだナオの耳に、ぽつりと呟くような声が届いた。
「あたし、あの写真、知ってるの」
「――え?」
 言われた内容が脳内で理解されるまで、数秒かかった。まるで、昨日『ナオがアリスと恋に落ちた』と聞かされた時のように。動揺は、遅れてやってきた。
「え、え、え、なんで!? もしかして僕、未来じゃすっげえ写真家になってるとか!?」
「うるさいよ」
 思わずアリスに詰め寄りかけて、うざったそうに手で払われる。
「ごめん、でも」
「何、きみって今あたしが『きみは将来すっごい写真家になってるよ』って言ったらどうするつもり?」
「どう、って……」
 逆にアリスに尋ねられて。ナオはううんと考え込んだ。例えば将来、すごい写真家になっているとして。だからといって今の貧乏生活や無名生活が変わるわけでもないし、写真を撮らなくなるわけでもないだろう。結局、何も変わらない……と思う。
「ごめん、どうもしないと思う」
「そう……きみはそういう人なんだね」
 アリスはちょっと目を閉じて。またナオではない真っ直ぐ前を見つめて、続けた。
「ま、そもそもあたしが本当のこと言ってる保証もないしね。――でも、あの写真を知ってるのは本当」
「なんで、って。それは聞いてもいい?」
 おそるおそる、聞いてみると。アリスは意外とあっさり話し出した。
「おじいちゃんが、写真好きでね。見るのも撮るのも、集めるのもっていう。その中にあったのよ、あの写真。裏には日付と、『Tokyo』って書いてあるだけだった」
「書いてあった、ってことは、データじゃないんだね」
「うん。今日、あのあたしの先祖だっていう飯塚くんが見せてくれたのと同じくらいの大きさで印刷されてた。裏は見なかったけど、彼があたしの先祖なら、あの写真があたしの見た写真かもしれない。……あたしも、おじいちゃんも、あの桜の写真、大好きだった」
 不思議だ。遠い未来から来たという少女が、自分が撮った写真を知っている。おそらくは自分も死んだ未来の時の中で、あの写真は――あの桜吹雪は、生き続けている。生きて、誰かの心を打つこともある。この場合は、アリスと彼女の祖父の心を。
 ナオが残したいと願った景色が、彼女たちの中に受け継がれている。
「だから、私――あの写真の景色、自分の眼で見たくて。だから時間旅行ガイドになろうと思ったのに」
 そう、だったのか。
「……ありがとう」
 ひどく自然に、ソレはナオの口から零れ落ちていた。驚いたように、アリスがナオの方を振り返る。
「なんで、『ありがとう』?」
「僕、あの写真撮って、すごくいい出来だと思って。専門の先生や仲間たちにも褒められて、なんか浮かれてたけど、でも、君みたいに感じてくれる人がいるってことが一番嬉しい。それが一番嬉しいんだって、今わかった」
「あたし、みたいに?」
 イマイチ意味がわかっていないふうのアリスにどう伝えれば、この想いは伝わるのだろう。語彙の乏しい自分がもどかくて、ナオは必死に、言葉を紡いだ。
「僕、空とか山とか、自然の景色とかもアスファルトだらけのビル群も、自分が綺麗だ、と思ったモノをカタチに残しておきたくて、それで写真を撮り始めたんだ」
 絵が描けたなら良かった。幼い頃は、ずっとそう思っていた。でも、ナオには残念ながら画才はなかったようで、いくら描いても出来上がる絵は、理想とは程遠いモノばかりで。あるいは、自分の中の理想が高すぎて、ソコに辿りつくまでの稚拙な絵さえ許せなかったのかもしれなかった。とにかく、うまくなるまで絵を描く、という選択肢を選ぶよりも前に、高校の部活動で。ナオは、写真と出会った。
「カタチにして残して、それで大勢の人に見てもらいたい、そう思ったんだ。――けど、それでいいのかなって思うことが、最近あってさ」
 きっかけはなんだったのかはわからない。ただ、そんな動機で写真を撮る自分は、自己満足のためにしか写真を利用していないのではないか。そう、考えるようになって。
「たとえば、戦場カメラマンの人とかは、この国みたいに平和ボケしている国にも戦争の悲惨さを伝えようとか、そういう使命感を持ってるだろ? 僕にはそういうの、ないなって。そんな僕が写真撮ってていいのかなって、思ってさ。親の反対押し切ってまで専門来といて、こんなことで悩むのも今さらかもしれないんだけど」
 自嘲気味なナオに、アリスはことりと缶を脇に置くと。ようやくナオの方を向いて。
「馬鹿じゃないの? 他人と比べてどうとか、やりたいことにそんなの関係ないんじゃないの?」
 ばっさり切って捨てた。でも出会ってから今日まででだいぶアリスの性格を把握していたナオとしては、アリスのその反応はなんとなく予想できていたので。ナオは「だね」と苦笑して「でも」と続けた。
「君のお陰で、なんかふっきれた。というか、未来が見えた」
「……はい?」
 再びアリスが、訳わからなさそうに首を傾げる。
「未来が見えた、っていうと、少し言いすぎかもしれないけど……そうだね、自分のやってることの先が見えた、って言ったらいいのかな。君や、君のお祖父さんが僕の写真を気に入ってくれたってことが、多分、僕の残したいモノを『残せた』ってことなんだと思う。だから、さ」
 一度、言葉を切ってから。ナオは真っ直ぐアリスの目を見て、言った。

「ありがとう。僕の写真を、好きだと言ってくれて」

 ナオの言ったことの意味を測りかねたのか、訝しげに細められたアリスの目が、だんだんとまあるくなっていって。そして。

「ば、ば、ばかじゃないの? ばかじゃないの? ばかじゃないの!?」

 弾けるように立ち上がるとナオの真ん前に仁王立ちして、両の拳を握りしめて。もはや絶叫に近い声で、アリスは捲し立てた。
「何、あたしがきみの写真好きだったからって、そこまで拡大解釈してるのよ! 確かにあの写真は好きだけど、好きってだけでそこまで言われる筋合いはない、絶対ない! だいたい、そんな、誰かに好きって言われた程度で自信取り戻せたりとか、そんなのってなんか違う気がする、クリエイターとしてっ。もっと、自分がこう思ってるからこうって、そんな感じで自信持ってるものじゃないの!?」
「いや、多分人それぞれだと思うけど。僕としては、誰かが好きって言ってくれると嬉しいってだけで」
「そういう臆病な感じが気に入らないの! もしあたしがあの写真、嫌いって言ってたら、きみは写真撮るの止めちゃったりするわけ!?」
 ふむ、とその状況を想像してみること数秒。目の前でふくれっ面しているアリスに向かって、ナオはゆっくり首を振った。
「ごめん、考えてみたけどソレはないや。嫌いって言われても、多分僕は、写真を撮り続けるんだろうね、苦しいかもしれないけど」
「じ、じゃあ、あたしが好きとか言ってもあんまり関係ないんじゃない!」
「いや、だから好きって言ってもらえれば嬉しいから。だから、ありがとうって気持ちは本当だよ?」
 アリスは何かに耐えるように「ううう」と小さく唸った。
「……大丈夫?」
「ああもう、わかんない!」
 ちょっと心配になって。立ちあがってアリスの肩に触れようとした、その時。電光石火の勢いで、アリスが後ろに跳び退り、ナオの手は宙を掻いた。
「なんで!? あの写真撮ったから好きになったとか、そういうわかりやすい理由があれば納得できるのに。あの写真にあたしが映ってたってことは、明らかにきみのこと好きになった後なんじゃない、写真関係ないんじゃない!」
 さっきまで変わらない、苛立ったような怒ったような口調。なのになんだか、アリスが泣きだしてしまいそうに見えて。ナオは差し伸ばした手を、引っ込めるべきか伸ばすべきか、迷う。でも、その前に。
「なによ……なんか、あの写真に拘ってたあたしが馬鹿みたいじゃない。自分が映ってた写真だなんて、知らなかった。知りたく、なかった!」
 ばっと身を翻して、アリスは瞬く間に公園から走り去った。
 取り残されて、さっきのように追わなければと思う気持ちより、呆然とする気持ちの方が大きくて。ナオは呆けたようにその場に立ち尽くしていた。

 どうして、自分が映っていたことを知りたくなんてなかったんだろう。

 ナオの頭ではその疑問が、ただただぐるぐると回っていた。
 ――あの写真が好きだと言ってくれた、アリスの声の調子と共に。






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13.04.21