四月二十一日(水曜日)









 昨日は、結局学校に戻って、その後バイトにも行ったのだけれど。アリスが言った言葉、見せた表情が頭の中でぐるぐると回っていて、ロクに身が入らなくて。凡ミスの連発だった。



「楠本くん、なんかあったの?」
 バイト仲間の里中恵理花に、思いっきり不審そうな目で見られたナオは、仕方なく苦笑いで誤魔化した。
 ナオのバイトは薬局の店員。ついさっきも、お客に聞かれたシャンプーの在庫を間違って出してきて、「あら、これじゃないわよ?」と人の良さそうなおばさんに首を傾げられたところだった。怖いお客じゃなくて良かった。
 恵理花はその時たまたま近くにいて、慌てるナオを尻目に「申し訳ありません、すぐにご注文の品をお出しします」とフォローしてくれた。店長に見つかる前で良かった。
 恵理花とは同い年で、バイトに入ったのも同じ頃だったため(同い年で、恵理花の方も高校を卒業して大学進学のために上京しバイトを始めた、ということなので自然と時期が同じになった)よく話す。バイト仲間のうちでは、一番親しいかもしれない。明るい茶色に染めたショートボブといつもにこにこハキハキとした笑顔がよく似合う、ついでに人当たりも良くて仕事もよく覚えるから、店長に早くも「卒業したらウチに就職しろ」と勧誘されているらしい。ちなみにナオには今のところ、そういうお誘いはない。あってもナオは写真優先の人生を送るつもりだから、バイトのままでいるだろうけど。
「や、別になんもないんだけど」
 人の切れた隙間に話しかけられて、適当に濁してはみたものの、相手はそんなに甘くなかった。オマケにこっちには、助けられたという借りもある。
「嘘だ。初めてバイトした研修中の高校生並みだよ、今日の楠本くん」
「いや、それ初めてバイトした研修中の高校生になんか失礼じゃない? 初めてバイトした高校生だって、しっかりしてるヤツはしっかりしてるし……」
「誤・魔・化・さ・な・い・で」
 一語一語、はっきりくっきり区切るように強調された。おっかない。こういう時に限って、客も店長も来ないのだから、タイミングがいいのか悪いのか。誰か助けが来ないかと、右を見たり左を見たりして。何もみつけられなくて、ナオは諦めた。
「……僕の写真、好きだって言ってもらえて」
「――写真?」
 恵理花がちょっと眉を顰めた。恵理花にはだいぶ前に、専門学校で写真の勉強をしている、という話はしている。「へえ、じゃあ今度私のことも撮ってよ」なんて言われて「いいよ」と答えた覚えがあるけれど、そういえばあの約束はまだ果たしていなかった。
 だから恵理花は、急に写真の話をしても、突飛には思ったりはしない相手だ。だからナオも話す気になった、というのはある。
「うん。それでなんかこう、こそばゆいっていうか、なんというか……」
 嘘は言っていない。それも真実の一部なのだから。ただ、全部を言っていないだけ。
 あの時、駆け去って行ったアリスの後ろ姿と。それを呆けたまま見送るしかできなかった、自分。
 またその時の情景を思い出して、ちょっと意識を飛ばしていたナオだったが。「……写真だけ?」という恵理花の声に我に返った。
「え、あ、うん。写真が好きだって……『だけ』って?」
「いーの、別に! あ、ほら、特売の品、置いてあるのが無くなりそうじゃない、取ってこよ!」
 何やらにっこり笑った恵理花に背を押されるように。ナオは本日特売の新製品の某シャンプーとコンディショナーのセットを取りに倉庫に向かった。
 その後もなんだかんだと軽くミスしては、恵理花にフォローされて。
 それが昨日のこと。



 明けて翌日。授業が終わるまで、そわそわと一昨日アリスが現れたあたりを、隙あらば窺っていたけれど。それらしき影は現れず、なんだかやりきれない気持ちで学校を後にした。
 こうして、アリスの方がナオのところに来てくれないと、ナオには何一つ、アリスと連絡をとる手段がないのだと。ここに来て初めて、ナオは気付いた。

「楠本ー、俺らこれから恵比寿行くけど、一緒に行かんー?」
 授業が終わって、クラスメートが声をかけてきた。恵比寿の写真美術館で話題になっている特別展示、学校で割引券がもらえるソレを、今度観に行こうと話していたのは記憶に新しい。今日のバイトは遅番だし、時間はある。けれど。
「……ワリ、今日はちょっと用事あるんだ」
「そっかー、でも早く行かねーと終わっちゃうから気ィつけろよ」
 脳裏に、昨日駆けていくアリスの後ろ姿が浮かんで。ほぼ無意識に、断ってしまっていた。今度はクラスメートたちの背中を見送りつつ、一つため息を零して。
「……仕方ないか」
 よいしょ、とナオは荷物をまとめて立ちあがった。連絡先はわからない、今どこにいるのかもわからない。わかるのは、四日前からアリスと一緒にいた場所、それだけ。でも、せめて。いないとは思うけれど、わかっているところだけでも探してみよう。
 一週間。この時代にいるのは一週間だとアリスは言っていた。自分の夢のため、ナオに思い出させるつもりはないけれど、まだこの期間内、この時代のどこかにはいるはずだ。逆を言えば、一週間が過ぎてしまえばアリスは未来に帰ってしまって、もう二度と会うことはないしナオもアリスを忘れてしまう。
 だけど。
 自分の写真を好きだと言ってくれた人と、あんな気まずい別れ方はしたくない。やがて全部、自分の中から消えてしまう日が来るとわかっていても。
 今、ナオを動かそうとしているのは、そんな気持ちだった。

 そんな気持ちだけだと、思っていた。



 校舎を出たところで、ナオは携帯の通話履歴から一番最近にかけた番号にコールした。時間的に、ヤツもちょうど授業の合間くらいだろう。
『……どした、楠本』
 案の定、しばらく続いた発信音が途切れて、ちょっと眠そうなアキラの声が電波に乗ってナオの耳に届いた。
「や、ちょっと聞きたいんだけど。今大丈夫か?」
『ん、大丈夫。なんかあったのか?』
「や、えーと……昨日、僕たちが出て行った後、飯塚さんってそっちに戻った?」
 携帯の向こう、一瞬考える気配がして。
『飯塚さんって――アリスちゃんの方だよな、俺じゃなく』
「当たり前だろ、なんでお前のことなんか聞かなきゃなんねーんだよ」
『や、その台詞ちょっと失礼だからねお前』
 やはり同じ名字だと、ちょっと混乱するらしい。だけどアキラの混乱はこの際どうでもいい。そんなナオの内心を知ってか知らずか、ちょっと文句を言いつつも、ちゃんと答えを返してくれた。
『昨日、は、二人とも帰ってこなかったんで、一人寂しく昼飯食って珈琲飲んで帰った。何、あの後お前結局追いつけなかったの、とろいな』
「うるせー、ちゃんと追いついたよ。ただ、その後また一人でばーっと駆けだしちまって、それきり音沙汰なし」
『は? 何、ケンカしちゃったわけ?』
「や、ケンカじゃないと思うんだけど……なんか、急に怒ったみたいになって、行っちゃって」
『そりゃ、やっぱりお前が怒らせたんじゃねーの? 仕方ねーな、アキラさんに任せろ』
 一方的に言われて、電話がプツッと切られる。
「……任せとけって、何をどうすんだよ」
 ぼやいたところで、もう切れた回線から返事が戻ってくるわけはなく。もう一度かけ直す気にもならなくて、ナオは足早に駅に向かった。

 まず向かったのは、昨日のファミレス。店内には入らず、窓からアリスがいるかどうか覗いてみる。まあまずいないだろうとの予想通り、それらしき姿は見えず。踵を返して、今度はあの公園に向かう。適当に歩いた道のりで、偶然に辿りついた公園だったけど、道順はなんとか覚えていて、無事辿りつけた。が、やっぱりそこにも彼女の姿はない。
 まあ、当たり前か。
 次に向かうのは、自分の家の最寄り駅。二人で歩いた商店街、注意深く辺りを窺いながらアリスの姿を探す。コーヒーショップで、テイクアウトで珈琲を買ったついでに店内を見てみるけれど、見つからず。
 最終的に、最初にアリスが出てきたマンホールの近くのベンチで珈琲を飲みながら。ナオはぼんやりと赤茶けた桜並木を眺めていた。
 探すあては、もうなくて。後は、アリスが乗って行った路線の駅を、一つずつ当たるくらいしかない。定期の沿線じゃないから、フリーパスでも買わないと金が追っつかないなとぼんやり計算するのは貧乏学生の悲しい性。
 携帯電話の普及で、知り合いと簡単に連絡が取れるようになった世の中で。こんなふうに、足を棒にして誰かを探すのは初めてだと思う。初めてだと思うのだけど……なんだか、つい最近、同じように誰かを探していた、ように感じるのは気のせいだろうか。
 と。ポケットの中で携帯が震えた。着うたを奏でるそれの画面を確認すると知らない番号。知らない番号からの着信は、普段は無視する主義だけれど。もしかして、と心の奥で期待が湧きあがって。

「――もしもし?」
『……あたし』

 耳に当てた携帯から聞こえてきたのは、間違いない、ちょっとぶっきらぼうなアリスの声。
「え、あれ、嘘、なんで?」
 期待、していたわりにいざ本当にかかってきたら、どうしたらいいかわからなくて。あたふたしていると『落ち着きなさい、みっともない』といつものようにバッサリ言われた。間違いなくアリスだ。
『あの、あたしのご先祖が、電話してきたのよ。未来のあたしがいた時に番号教えてたらしくて。メモリからも消えてたはずなんだけど、ご丁寧にもしっかり記憶してたらしいわ』
「あー……あいつ、数字に強いから」
 アリスのご先祖、もといアキラ。数学科というのは伊達ではなくて、昔から数字とか数式とかに関して異様なくらい強かった。携帯のメモリに登録しとけば普通は覚えない他人の番号も、見ればたいてい覚えられるらしい。根っからの文系のナオには逆立ちしたってできない芸当だ。その分、アキラは国語とかの文系科目は弱かったけど。
 アキラの『任せとけ』は、こういうことだったのか。
「今、どこにいるの?」
『別に、どこでもいいでしょ? そっちは?』
 自分は答えない癖に、こっちには聞いてくる。その勝手さに、怒るよりもちょっと苦笑してしまいつつ。
「君と会った川沿いの道。君が出てきたマンホールのあたりだよ」
『……そう』
 それだけ言って、アリスは沈黙してしまって。通話はまだ繋がっているけれど、何を話したらいいかわからない。下手なことを言うと電話を切られてしまいそうで、一生懸命考えながら、ナオは探るように言葉を続けた。
「――昨日、あの後、大丈夫だった?」
『大丈夫って?』
「道に迷ったりとか」
 あ、怒られるかな、と言ってしまってから少し焦ったけれど、アリスの反応は『別に、そんな複雑な道じゃなかったじゃない』という素っ気ないけれど怒ったモノではなくて。内心ホッと胸を撫で下ろす。
「良かった。心配した」
『なんで、心配するの?』
「え?」
『なんで、あたしの心配するの?』
 アリスの聞き方は、ナオとは別の意味で探るような、窺うようなモノだった。会話を続けるための問いかけではなくて、ナオの返答次第でこの後の行動を決めようとしているみたいな、そんな聞き方。
 ふいに、ナオの背筋が寒気を感じる。ここで答えを間違えたら、もう二度とアリスに会えない、そんな予感がした。
「なんで、って、そりゃ昨日の飯塚さん、ちょっと興奮してるみたいだったし、それに……」
 さっきまでは。自分の写真を好きだと言ってくれた人と、なんだか気まずい別れ方をしてそれっきりというのが嫌だった、というのが今までアリスを探していた理由で。でも、今は――それとは何か別の、理由がある気がした。
 それがなんなのか、まだはっきりと言葉にはできなかったけれど。
「すごく、気になったから。あのまま走ってちゃって大丈夫だったかな、とか。またちゃんと会えるのかな、とか」
 多分、これは真実であっても正解ではない。まだ何か、あるはずだった。アリスを探さずにはいられない、ナオの中の何かが。
 ナオの答えは、アリスの中では電話を切るほどの不正解ではなかったようで。続けられた問いに今度は即答する。
『もし、このまま二度と会えなかったら、どうする?』
「それは嫌だ」
『……なんで?』
「なんでって、また会いたいし話したいし、この時代案内するって約束もそのままだし」
『じゃなくて』
 考える暇もなく脊髄反射でした答えだったから、本当はなんでも何もないのだけれど。電話越しに、アリスの声が少し苛立ったように感じる。
『なんでまた会いたいのか、って聞いてるの』
「それは」
 自分の写真を好きだと言ってくれた人と、あんな気まずい別れ方はしたくなかったから。そう言えばいいのに、何故かナオは言葉に詰まった。アリスの声が聞けた今では、なんだかそれ以外の別の理由があるような気がしてならなかった。
 はっと、電話の向こうでアリスが短くため息を吐くのが聴こえた。
『いいよ、変なこと聞いてごめん』

 プツ。――ツー、ツー、ツー

 一言、告げられた後で。前触れもなく通話を切られた。
「え、ちょ、え!?」
 呆然として、慌てて声を上げて、また呆然として。着信履歴から電話をかけ直せばいいと気付くまで、しばしの時間を要してしまった。

 トゥルルル――
 ピピピ、ピピピ、ピピピ

 ナオの電話の向こうで、呼び出し音がかかるのと。意外と近くで、初期設定のままっぽい着信音が聴こえてきたのは、ほぼ同時だった。
『……なに?』

「なに?」

 電話の向こうで聞こえる声と、全く同じ声が。電話越しでなくナオの耳に届いて。
 驚いて顔を上げたナオの目の前に、アリスが立っていた。

 その瞬間、桜の花吹雪があたり一面に舞い散ったように見えたのは、気のせいか。



 ***

「よかった――もう、会えないかと思った」
 満開の桜の下で、ようやく彼女に追いついた。掴んだ手首が思ったより細くて折れそうで、そういえば女の子の手を掴むのなんて小学校の遠足以来かもしれない。
「だって、本当にもう会えなくなる。あとちょっとしたら、もう」
 愚図るように、彼女が首を振る。
「だからって、逃げてただ離れ離れになるのを待つの? 僕はそんなの嫌だ」
「でも……」
 俯く彼女の頬に触れたくて、でもそこまでの勇気はまだなくて。代わりに、握っていた手首から手のひらにそっと自分の手を移動させて、握り締めた。
「考えよう」
「?」
「離れ離れにならなくてすむ方法、きっと何かあるはずだよ。やれること、全部やってみよう」
「やれることって、でも」
「僕も正直、まだなんにも思いついてないんだけどさ。でも、何かしなきゃ。このまま何もしないで、君と離れて、それで君を忘れるなんて嫌だ」
 握りしめた彼女の指が、柔らかい力で握り返してくる。
「……そうだね、あたしも嫌だ。きみを忘れたくない、ずっと一緒にいたい」
「そうだよ。だから探そう、僕たちが一緒にいられる方法を。――×××」

 ***

「何、呆けてるの」
 一つ、瞬きをすると。目の前には無表情に立つアリス。昨日、一昨日とは違って、今日は薄緑のチュニックに細めのジーンズ。ポシェットは同じ。
 今のは、なんだったんだろう。
 頭の中を過ったいくつかの場面。呼吸をする度に一つ一つの鮮明さは薄れていってしまっているけれど。自分と、誰かが、会話していた?
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、うん、ごめん」
 アリスに顔の前でひらひらと手を振られ、残っていた最後の場面のカケラも消し飛んだ。でも、何かが浮かんだ、という感覚だけは残っていて。
「まったく、そんなぼんやりできみ、ちゃんと生活できてるの?」
「はは……面目ない」
 アリスがちょこんと、ナオの座っていたベンチに腰掛ける。
「――ここが、あの写真の撮影場所?」
「うん。飯塚曰く、一緒に花見に来たらしいけど。僕はあの写真、一人の時に撮ったと思ってたんだけどね」
 あ、飯塚って君じゃなくてアキラの方ね。
 念のため、そう注釈してから。ナオは「ああ、そうだ」とカバンの中から小さなファイルを取り出して。
「これ、良かったら」
 アリスに手渡した。受け取ったファイル――ポートフォリオ(簡単な作品集みたいなもの)に収められているのは。
 桜の、写真。
「これって、ここの?」
「うん。あの写真もあるよ。全部、同じ日に撮った写真だ」
 アリスの手が、ポートフォリオのページを捲る。一枚、一枚、丁寧に見ていく彼女の横顔を、膝についた腕で頬杖をつきながらナオは眺めていた。
 いちいち写真に説明はしない。ありのまま、映ったままを見て欲しい。それが、他人に写真を見せる時のナオの基本姿勢だ。もちろん、『どこで撮ったの』『どう撮ったの』といった質問には答える。授業だったら解説だってする。でも、ごくごく個人的に自発的に、誰かの自分の写真を見てもらう時、ナオはそこに口を挟まない。
「あたし、写真の良し悪しはよくわかんないんだけど、やっぱりこれが一番好き」
 そう言って、一通り写真を見終わったらしいアリスが、例の桜吹雪の写真のページを開いた。
「良し悪しより、好きって言ってもらった方が僕は嬉しいな。よければソレ、もらってくれる?」
「いいの?」
 ぱっと顔を上げたアリスに、ナオはこっくり頷いた。
「うん。もともとそのつもりでそのポートフォリオ作ってきたんだし……って、そうか、没収されちゃうんだっけ」
 すっかり忘れていたと頭に手をやるナオをちらっと見てから。アリスはまた、写真の桜に目を落として。
「没収、されちゃうんだけど。……もらえば、未来のあたしに渡されるかもしれない、これは」
「いや、うーん、どうなんだろ。今の君にもらって欲しくて印刷してきたんだけど、最終的にはいいのかな? 君がいいなら、それでもいいけど」
 うーん、と今度は首に手をやるナオの横で、アリスは写真に目を落としたまま。
「ほんとにいいの? こんな、ちゃんと本みたいにしてあるのに」
「ああ、それ、ポートフォリオっていって、撮った写真まとめとくやつなんだ。学校じゃしょっちゅう作らされてるし、そんな大層なモノじゃないから」
「へえ……ありがと、もらっておく」
 小さく、呟いた。

「これ印刷しててさ。なんか、変な気がしたんだ」
 ぽつり、呟いたナオの方へ。アリスが写真から視線を移した。
「変な、気?」
「うん、なんか懐かしくなる写真と、そうでもない写真とが、あった」
 ソレが意味することを、なんとなくナオはわかっていた。多分、アリスも。でも二人とも何も言わず、目も合わさず、少し雲の出始めた空を眺めていた。
「あ、でもその写真は、別に懐かしくなる写真だけよってみたわけじゃないから」
「……ふーん」
 アリスの指が、ポートフォリオをもてあそぶ。適当なようで、写真を痛めないように気をつけているのが、なんとなく感じられた。
「この景色を自分の目で見たくて、時間旅行ガイドになろうとして。なのにその夢を叶えかけで放り出してレンアイなんかうつつ抜かしてるなんて、あたし何事!? って思ったのよね。しかも、来る時代――年は同じでも、ちょうど桜が散ってる頃だし、ついてないって」
 でも、とアリスは頭上を見上げた。もう散ってしまって、花ガラしか残っていない桜並木を。
「未来のあたしは、この桜を見るのね」
 吐息のような独白。きっと返答など求めていないし、何を返したらいいかもわからない。いや、何も言わないことが一番、自然だった。
 そうして二人、花のない桜を何も言わずに眺め続けた。

「連絡先、教えてもらってもいい?」
 そう聞くのに、いったいどれくらいの勇気と緊張がいったか、果たしてアリスにわかるだろうか。
 別れ際、駅の改札で。もう今日のような彼女がどこにいるのかわからない状況になりたくないという切実さと、かといって教えてはくれないだろうという諦めとが半々に入り混じった、問いかけ。
 アリスはすぐには答えなかった。しばらく、躊躇うように俯いて、沈黙して。やはりだめかと諦めかけた時。
「……もう、一週間足らずで消える情報だけど、それでよければ。あたしはきみの、知ってるしね」
 アリスの携帯電話が、差しだされた。白いフレームの、スマートフォン。その番号とアドレスを登録して、ふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「そういえば、君の携帯ってこの時代のモノなの? 未来のじゃなく?」
 アリスが携帯電話を使っているところは、もう何回も見ている。この時代で使えているということは、例の時間渡航管理局とやらがこの時代の携帯を彼女に提供しているのだろうか。
「ちょっと違う。これはあたしの時代の――未来の携帯で、あたしの私物なんだけど、時間渡航にあたって、この時代の通信にも対応できるアプリがインストールされてるの」
 アリスの指が、スマートフォンの上を滑る。数秒の間の後、ナオの携帯が着信を告げた。画面に表示されているのは、今登録したばかりの目の前の少女の名。ちょっと戸惑いながら通話ボタンを押して耳に当てると、電話の向こうと目の前から、全く同じ声と台詞が聴こえてくる。
「だから、こんなふうにきみの携帯と繋がるわけ」
 それだけ言って、ぽちっと通話を切るアリス。ナオもツーツーという音しか返さなくなった通話を遮断する。
「……じゃあ、また」
 初めて会った日と同じように、アリスはくるりと背を向けて、改札をくぐり反対側のホームへの連絡階段に向かって行く。その背を見送るナオの中に、湧きあがる衝動があった。ほとんどその衝動に任せるまま、ナオはついさっき着信した番号にコールをかける。
 歩き去る背中が立ち止まり、不審そうな――いや、もっと違う、言葉にし難い表情をしたアリスが、携帯の画面とナオの方とを見比べるのが、見えた。
『どうしたの?』
 少しの逡巡の後、アリスが電話を取った。さすがにもう、雑踏の音に紛れてしまって、彼女の声は直接ナオまでは届かない。
「明日! 俺、バイト休みなんだけど!」
 でも、逆にナオは声を張り上げた。ちょうどナオの横を通り過ぎた中年の女性が、ぎょっとした顔でナオを見て、そそくさと歩調を速めて去っていく。でも、そんな外野のことは気にしている余裕はなかった。
「今度こそ、どっか案内する、どこがいい!?」
 アリスの答えが返ってくるまで、二人はじっと見つめ合っていた。やがて、アリスがゆっくりと口を開く。
『きみが、写真に残したいと思うところ、見てみたい。今日の桜並木だけじゃなくて、他にも』
「そんなので、いいの?」
『そんなのが、いいの』
 相変わらず、にこりともしないアリスの顔はひどく真面目で。本気で言っているのだとわかった。
「わかった、じゃあいろいろ、案内するよ。一緒に君の写真も撮らせてくれると嬉しいな」
『いいわ。明日は学校、何時まで?』
「え、と……三時にこの駅でいいかな?」
『わかった。じゃあ、また明日』
 本当は、そこで電話を切ろうとしたのだろう。アリスが電話を耳から話しかけて、ちょっと顔を顰めて、また戻した。
『あのね、』
「? うん?」
『……なんでもない、また明日』
 何か言いかけたアリスは、だけど自分でそれを打ち消すと、電話を切って背を向けた。そのまま歩いて行く後ろ姿を、今度こそナオは見送った。



「楠本くん、今日も何かあった?」
 昨日に引き続き、またも恵理花に不審そうに聞かれて。
「や、別に、何も?」
 またも苦笑いで誤魔化すナオだった。
「……ふーん、ま、いいけど」
 今日は深く追求してこなかった恵理花は、代わりにじっとナオを見た。
「楠本くん、なんか浮かれて見えるよ?」
「え、マジ?」
 そんな自覚は全然なかったナオは、手の甲で頬を擦った。
 浮かれている、つもりはなかったけど。でも、明日が楽しみなのは、事実だった。

 そんなナオのことを、少し不満そうに見ている恵理花に。ナオは気付くことができなかった。






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13.04.21