四月二十三日(金曜日) あふ、と大あくびしたところをバッチリ目撃され。 「なんだ楠本、寝てねーのか?」 「んー、あんまよく寝られんかった」 「なに、コレ?」 小指を立ててニシシと笑うクラスメートの頭を「あほか、お前いつの時代の人間だ」と叩いて。ナオはぼんやりと携帯を見つめた。 昨日は結局、何度かの着信を残してそれきり、アリスからの連絡は無かった。メールすらも。かけ直すこともしないまま、携帯ばかりを気にして朝までほとんど眠れなかった。 そんなに気になるなら自分からかければいい。そういう考えも、頭のどこかに確かにあったけど。どうしてもできなかった、なんだか自分の方が負けるみたいで。 こっちは何も悪いことなんかしてないんだから。なのに気が付くと、携帯の着信履歴を眺めている自分がいる。 あくびついでにため息も吐きだす。どっちがどっちか、わかりゃしない。 本日最後の授業は、暗室でこの間の授業の際に二人一組になってお互いに撮り合った写真の現像。すでに暗室の赤いランプの暗さにも目が慣れていて、だからこそナオの大あくびもしっかり見られてしまった。 フィルム写真の現像は、ナオのアパートではできない。不動産屋で、契約の時に念を押されている。部屋の窓やらなんやらを締め切りにして近所に不審がられたり、現像液の臭いで苦情が来たりするそうだ。だから、基本的にナオは、フィルム写真を撮った時には学校の暗室を借りて現像している。デジカメならパソコンとプリンタがあればすぐ印刷できるけれど、やっぱりフィルム写真にはフィルム写真の良さがあるから。だからいつもはこの授業も好きな授業の一つなのだけど――今日はどうしても、気分が乗らない。 本日、この後の予定は学校が終わるとすぐにバイト、ただし早上がり。その後は特に予定なし。それがいいのか悪いのか、今のナオには判断できないけど。 現像液の中で、ゆっくりとペアを組んだ相手の姿が浮かび上がってくる。人物写真は、撮るのが嫌いなわけではないけれど、正直苦手だ。苦手というか、難しい。どうしても『わざとらしい』写真になってしまう。案の定、映し出されたペアの姿は、ナオの納得のいくモノではなかった。 そう、いえば。 あちこちで好評で、自分でもいい出来だと思っている――アリスに『嫌いだ』と言われたあの桜の写真。アレはずっと風景写真だと思っていたけれど……本当はアリスが映っていたというのなら、アレは人物写真だったのだ。 あの写真に、アリスはどう映っていたのだろう。その絵に、ナオは納得――いや、満足していたのだろうか。 そんなことを考えたら、ついでに昨日のアリスとの遣り取りも思い出してしまって。ナオはもう一度、あくびまじりのため息を吐いた。 バイト先の更衣室から店内に出てきたところで、恵理花とはち合わせた。「ウス」と挨拶すると、恵理花には「どしたの、その隈。寝てないの?」と言われた。目ざとい。 「ちょっと……いろいろあって」 「また、『何か』あったみたいね」 ちょうど客足が途切れたところだったので、そのまま商品の整理ついでに話し出したのだが。恵理花の次の台詞に、ナオは物理的にも精神的にも思い切り仰け反った。 「今度は、楠本くんの写真嫌い、とでも言われた?」 「……うわ、何、千里眼?」 「あら、ビンゴ?」 適当に言ってみただけなのに、と恵理花の方も目を見張っている。本当に偶然らしい――偶然って怖い。 「何、それで落ち込んでるの?」 「落ち込んで……ってか、落ち込んで見える? やっぱり」 「そりゃもう、ものすごく。失恋でもしたのかと思っちゃったわよ」 失恋。 多分また、適当に言っただけなのだろうと思うけど。恵理花の選んだ単語は、予想外にナオの精神にぐっさりと刺さり込んだ。 失恋……失恋なわけがない。そもそもアリスとはなんでもないワケだし。いや、何もなくはないか。もともとはナオと、さらに未来のアリスとが桜の咲く頃に恋をして――その結果、今ナオの知るアリスがこの時代に来たのだから。でも失恋って、失恋じゃないけど、ないんだけど。 「ちょ、楠本くん、大丈夫?」 赤くなったり青くなったり、頭を抱えてしまったナオに、恵理花は慌てたようだった。ぐらぐらと肩を掴んで揺すってくる。 「や、大丈夫。大丈夫だから揺らさないで!」 頭を揺られて、ちょっと気持ち悪くなってしまって。ナオもナオで、慌てて恵理花を止める。「ご、ごめん」と恵理花もそれに気付いたらしく、ナオの肩から手を離して謝ってきた。 「し、失恋はしてないから。絶対してないから。失恋以前になんもないから」 「……本当?」 ついこの間のバイトの時と同じ顔で、恵理花はナオをじっと見た。なぜかその視線にたじろいでしまって、ナオは両手を上げて首を振った。 「ほ、ほんとだってば」 「……ふーん」 恵理花はまだ何か聞きたそうな様子だったが、ちょうど店長から「そこ、サボんな」との声がかかり。叱られる前に二人は、それぞれの作業に着いたのだった。 午後六時。本日のバイト、これにて終了。この後の予定は何もなし。帰って飯食って風呂入って寝るだけ。更衣室で着替えて、携帯を確認したナオは、着信履歴が何回か残っていることに気が付いた。 もしかして、また、アリス? ボタンを押す暇ももどかしく。番号を確認したナオは、がっくりと頭を垂らした。バイトの間に何度も何度も入っていた着信は、全部アキラからだった。 駅辺りで掛け直せばいいか。そう思って更衣室を出て、他のバイトや店員に「お疲れ様でしたー」と声をかけ。ナオは店の裏口から出ていった。 「楠本くーん」 駅への道を何歩か歩いたところで、後ろから呼び止められる。恵理花の声だ。振り返ると、ナオと同じく私服に着替えた恵理花が小走りにこっちに向かってくるところだった。 「おう、お疲れ」 「お疲れ様でした。ね、駅まで一緒に行こ」 「……いいけど」 仕方ない、アキラに電話するのは、恵理花と別れてからにしよう。 追いついてきた恵理花と並んで歩きだす。恵理花と一緒に駅まで向かうのは初めてではない。ナオたちのバイト先の薬局には近い駅が二つあるのだけど、恵理花とは路線が同じなのでよく帰りに一緒になる。そういえば、行きに遭遇したことも何度か。 「もう、また店長にウチに就職しろって勧誘されてたら遅くなっちゃったよ。やだよー、バイト先ならまだいいけど就職は! 店長しつこいんだもん、ほんとに」 「いいじゃん、この就職難の時代にそんな勧誘受けるってのは。里中は客受けいいから、店長もそう思うんだろ。僕なんかそんな勧誘されたことないし」 「だって、楠本くんはカメラマンになるんでしょ?」 「そのつもり。狭き門だけどね」 「いいなあ、夢があって」 恵理花ががっくりと肩を落としてみせて。ナオがくくっと笑うと、ぷうと頬を膨らませた。 「里中は、なんかないの? 大学、文学部だっけ。文学って何になるんだ、教師? 作家?」 「教職、は一応とってるけど、でもピンと来ないなあ。そもそも仕事に就くってこと自体がピンと来ない。作家は無理だよ、作文苦手だもん」 「じゃ、進学?」 「そうじゃなくて、今まだ二年生になったばっかだもん。受験終わってからまだ一年ちょっとしか経ってないんだからもうちょっと遊ばせてー、って気分」 「そういうモン?」 「そうだよ、みんながみんな、楠本くんみたいにやりたいことがはっきり決まってるわけじゃないんだから」 うらやましいな、と恵理花が笑った。夢が決まってるからってそれが叶うと決まってるわけじゃないよ、とナオは返した。 「ねえ、前に私の写真撮ってくれるって言ったの、覚えてる?」 「え? ああ、うん、そういえば」 「そういえばって、ひどいなあ。私、楽しみにしてたのに」 ひどい、というわりには楽しそうな笑顔で、恵理花は。 「明日って、ヒマ?」 じいっと。ナオのことを見上げてきた。 「明日?」 「そ、明日。楠本くんもシフト入れてないでしょ? 土曜日だし、写真撮れそうな公園とか遊園地とか……私、お弁当作るし!」 唐突な誘いに、ナオは目をパチクリした。確かに明日は土曜日で学校は休みで、バイトのシフトも入れていなくて。予定も特にないから、出かけるのは別にかまわないのだけれど。 ――でも、何か。明日は、大切なことがあった気が、する。 「や、別にどっか行かなくても、写真なんていつでも……なんなら今でも撮るけど? カメラ持ってるし……」 しどろもどろに言ったナオに。恵理花はあからさまにガックリとしたようだった。額にぐーにした握りこぶしを当てて、顔を顰める。 「もう……ハッキリ言わないとダメか、やっぱり」 でも。すぐに顔を上げて、足を止めて。ナオを見るその真剣な表情に、ナオも思わず、足が止まる。 「私、楠本くんのことが好きです。付き合って欲しい。さっきのは、だから、デートのお誘い」 何を言っているのかわからなくて。ナオはぽかんと恵理花を見るだけだったけれど。だんだんと、内容が頭の中に落ちてきて、染み渡っていって。 「……マジ?」 「マジだよ!」 半ば無意識に聞き返したら、ちょっと泣きそうな顔をされた。ソレとよく似た……でも全然別の、やっぱり泣きそうな面影が不意打ちで蘇って。ナオは思わず、片手で口を覆った。顔に熱が上がってくるのがわかる。 その熱をもたらしたのが、目の前の恵理花なのか、それとも脳裏に浮かんだ別の少女なのかがわからなくて。より一層、動揺する。 「どう、かな」 期待と不安が入り混じった目で、恵理花がナオを見上げてくる。頬の色がほんのり赤いのは、ナオの気のせいでも、熱があるわけでもないだろう。この状況、説明するのなんて野暮極まりないけど――ようするに。ただいまナオは、恵理花に告白されている、という状況なのだ。どこをどう見ても。 「僕、は――」 何か言わなくちゃ。でも何を言えばいいかわからない。 恵理花のことは嫌いじゃない。むしろ、学校とバイト先合わせても一番仲のいい女子だと思う。気も合うし、話してて楽しいし、これからもバイトで顔合わせるのに険悪になりたくないし、女の子と付き合ってみたいというのもあるし、それから……。 それから。 それなのに。 どうしてさっきから、恵理花じゃない少女の、笑顔とは程遠いあの退屈そうな無表情を、怒った顔を、一度だけ見せた笑顔を――思い出してしまって、いるんだろう。 *** 「待ってよ!」 追いついて、腕を掴んで、振り向かせようとして。でも彼女は、頑なにこちらを見ようとはしなかった。 「放してよ!」 彼の腕を振りほどこうと、少女が遮二無二身をよじる。だけど彼は決して彼女の腕を放そうとしなかった。 放したら、きっともう二度と会えない。そんな確信が、彼の中にあった。 「いい加減にしてよ! なんなのよ、いったい……」 彼女の声が、また泣きそうだ。泣きそうなその声を、同じように泣きそうになっているその表情を、なんとかして慰めたい。彼の願いは、ただ、ただ、それだけで。そうしたい理由はすでに、彼の中に確固として存在していた。 「逃げないでよ、頼むから」 「嫌よ、なんで追いかけてくるの。追いかけてこられたら――あたし、どうすればいいのよ?」 迷子のこどものように、頼りなく彼女が呟いた。同時に、我武者羅に暴れていた身体からも力が抜けて。彼はそっと、腕を握っていた力をちょっとだけ緩めた。 彼女は、振りほどこうとはしなかった。 一方的にだけど、繋がれたままの手。それに後押しされるように、彼は口を開いた。もう一度、あの言葉を伝えるために。 「好きだ」 少女が弾かれたように顔を上げた。その眦には、予想通り薄らと水分が溜まっていて。それをぬぐうために手を伸ばしながら、彼はもう一度、同じ台詞を繰り返した。どうか、彼女の心の奥底まで、この気持ちが通じるように。 「君が、好きなんだよ。別れるってわかってても、好きなんだよ――×××」 *** 「楠本くん、ねえ、楠本くん?」 また、頭の中を知らない映像のようなモノが流れていって。はっと我に返ると。恵理花がやっぱり泣きそうな顔で目の前にいた。 何かを答えなければいけない状況は、ちっとも変わっていない。 でも、今頭を過った、あの光景は。過去の記憶か幻かもわからない光景は。 「……ごめん」 そう言って、頭を下げさせるだけの力を、持っていた。 「……そっ、か」 恵理花が俯く。表情は見えない。でも、笑っていないことは確かだろう。 「どうして、って。聞いてもいい?」 顔を見せないまま、恵理花が呟いた台詞に、ナオはうっと固まる。そりゃ、聞きたいに決まっているだろう。でも、ソレは。まだナオの中でも整理のついていない気持ちで。 「……楠本くんの写真、好きだって言った人と、嫌いって言った人。同じ人? その人のせい?」 「な、なんで」 「やっぱり、そうなんだ……。だって楠本くん、写真好きだって言われたって話してた頃から、なんかおかしかったから」 まるで笑うように、恵理花は息を漏らした。本当に笑っているとは、到底思えないけれど。 「女の子、なんでしょ? 楠本くん、好きな人できちゃったかなって、焦って。……私、ずっと楠本くんのこと好きだったんだよ? 気付いてなかったでしょ」 「……ごめん」 気付いてなかった。ただの気の合うバイト仲間としか思ってなかった。これじゃ今後、アキラに「お前は鈍い」と言われても反論できない。 「謝らないでよ、みじめになる」 そう言われてしまうと、これ以上謝ることもできなくなってしまって。ナオは何も言えず何もできず、ただ、立ち尽くす。 「好き、なんでしょ?」 「……わからない」 「何ソレ、そんなんで私、振られるの?」 恵理花の問いに、正直に答えたら。また、恵理花は笑うような息を漏らした。ナオを、ではなく、恵理花自身を哂うような、音。 でも、ナオには本当にわからないのだ。彼女は――アリスは、無愛想だし手厳しいし、話が弾んだこともほとんどないしそれどころかすぐ怒るし、肝心なことは何一つ言わないし。――笑った顔だって、一度しか見たことないし。 なのに、なんで。 ずっとずっと、アリスの顔ばかりが、頭の中をぐるぐる回っているんだろう? 「僕は……っ」 それでも何か、何かを言おうとした、その瞬間。 ナオの携帯電話が、鳴って。びきっとナオは固まった。 「……出たら?」 恵理花が、そっぽを向いて言う。そう言われると、出ないわけにもいかない強迫観念で。ナオは渋々、携帯を取り出した。ディスプレイに表示されている名前は、さっき掛け直さなきゃと思った相手。 「――もしもし」 『てめ、出んのおせーよ!』 思いっきり無愛想な声で出てみたら、開口一番怒鳴られた。 「なんだよ、バイトだったんだよ。お前こそ何の用だよ、散々掛けてきやがって」 『お前、今、アリスちゃんと一緒か!?』 ナオの文句を遮るように、アキラが怒鳴る。どこか、必死に。 「へ? ……いや、違うけど」 どうしたんだ、いったい。そう聞こうとしたところで、また、アキラに遮られる。 『アリスちゃんと電話、繋がらねーんだよ!』 頭を、ひどく重くて冷たいモノで殴られたようだった。少なくとも、ナオはそんな気がした。 『電話取らないとかじゃなくて、番号が使われてないって』 「悪い飯塚、掛け直す!」 何を考えている暇もなかった。アキラの返事なんか待たないで電源ボタンで通話を切ると、ナオはアリスの番号を選んで発信ボタンを押した。ボタン一つ、押す手間さえもどかしい。コール音がかかる前の、一瞬の空白すら煩わしい。 でも。 聴こえてきたのは、呼び出し音ではなくて。 『――お客様がおかけになった番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、……』 よく知られた、でも普段は滅多に聞くことのないフレーズ。人工的な女性の声を最後まで聞くことなく、ナオは。無駄だとわかっていたけれど、今度は着信履歴から同じ番号を呼び出して、発信ボタンを押した。 しばしの沈黙。そして。 『――お客様がおかけになった番号は、現在使われておりま……』 「くそっ!」 珍しく、ナオにしては本当に珍しく毒づいて電話を切るのを、いつの間にか顔を上げていた恵理花がびっくりしたように見て。 「緊急事態?」 ちょっと眉根を寄せて、聞いてきた。 「あ、ああ、うん。ちょっと……」 「写真の女の子関連でしょ」 ずばり、言い当てられて。ナオは思わず息を呑む。 「な、んで」 「女の勘。というか、今週の楠本くん見てたら、だいたい想像つくよ。そんな風に一喜一憂して、怒りもして。そんな楠本くん、見たことなかったもん」 怒ったように、言い捨てて。恵理花はまた、そっぽを向いた。 「いいよ、もう。行っちゃいなよ。なんかあったんでしょ」 「でも」 「言っとくけど、楠本くん、相当鈍いからね。相手の子の気に障ること、なんかしたんでしょ。きっと」 断定されて、焦っていた気持ちに水をかけられたようにちょっと落ち込んだ。確かに昨日、怒らせたみたいだしこっちも怒ったけど。こっちを一方的に悪者にすることはないじゃないか。 「何、したのか、ちゃんと一つ一つ思い出して、相手がどう思ったのか、想像してみてよ。無駄かもしれないけど、でないと誤解、解けないよ」 何をどこまで見透かしているのか、女の勘とは恐ろしい。恵理花はそのまま、背を向けた。 「私、もう行くから。楠本くんも、どっか行っちゃえ」 「……わかった、またバイトで」 一人になりたいと、その背中が語っていた。全身で、ナオを拒絶して。でも、逆にナオの背中を押すかのように。悪いな、と思わないわけじゃない。でも、それが恵理花のエールだと都合良く解釈することにして。ナオは駅の方へと駆けだした。 最後の言葉への返事は、聴こえてこなかったし、聴く暇も惜しかった。 走りながら、再び携帯を開く。今度はアリスではなく、アキラへと掛ける。 「どういうことだよ、これは!」 繋がった瞬間、怒鳴りつける。さっきのアキラと同じように。すれ違った初老の女性がぎょっとした顔でナオを見たけれど、そんなことはどうでもいい。 『やっぱりお前も通じなかったか。昨日までは、繋がったんだよ、電話。お前は?』 「……昨日、の夜中にかかってきた」 『なんて言ってた、アリスちゃん!』 く、とナオは奥歯を噛んだ。電話は掛かってきていた。何度も、何度も。だけど、ナオはそのどれにも。 「出なかったんだ……僕は」 携帯の向こうからの返答が一瞬遅れた。アキラが呆気に取られているのが、ありありと伝わってきた。 『ばっ……なんで! どうしたんだよ馬鹿!』 いつもは言い返す罵倒にも、今は言い訳することができない。 アリスは何度も、ナオと話そうとしていたのに。その気持ちを受け取らなかったのはナオ自身なのだから。 「……ああ、僕は馬鹿だ」 認めるしかない。こんな気持ちになるなら、あの時ちゃんと出ていればよかったんだ。 こんな、胸に空いた穴をかき混ぜられるような気持ちになるくらいなら。 『……あああもう! いい! 今は聞かねえ、アリスちゃんみつけたら洗いざらい吐いてもらうからな!』 喚きながらも今は聞かない、と言ってくれたアキラに感謝する。言い訳なら、後でいくらだってする。アリスをみつけた、その後に。 「お前、いつ気付いたんだ? 飯塚さんの電話繋がらないって」 横断歩道、ちょうどの赤信号に足を止めさせられる。苛々と信号を睨みつけるナオの前を何台もの車が横切っていく。 『昨日、電話したんだよ。ほら、一昨日お前の連絡先教えたじゃん。どうなったか気になって』 「……なぜ僕に連絡しない……」 『そこはそれ、女の子と電話する機会は大事にしなきゃ――って、今はそういう場合じゃなくて。それでまあ、電話したんだよ。そしたらなんか様子がおかしくてさ。聞いても「なんともない」としか言ってくれないし』 様子がおかしい、というのはきっと、昨日ケンカ別れした後だったのだろう。 『すぐ、切られちまったし。だから今日、もう一回電話したら……』 「通じなかったんだな」 信号が青に変わる。他に信号待ちしていた人の波を縫って、駅はもうすぐそこだ。 『ああ。それでお前に電話したんだけど、お前もお前で繋がらないし』 「バイトだったんだよ、くそ」 駅の看板が見えてくる。後少しだ。 『なあ、アリスちゃん、もしかしたら』 言いにくそうに口ごもるアキラ。もどかしくて続きを促す。電車はちょうど来ているようで、全力で走れば、まだ飛び乗れる。 「なんだよ、電車乗るから切るぞ」 『――未来に帰っちまったんじゃないか、って』 また、あの重く冷たい一撃が、ナオを襲った。頭と、胸と、両方に。 なるべく考えないようにしていた、でも心のどこかで同じことを考えていた。同時に思い出す、さっき恵理花に聞かれた時に思い出せなかった、明日あったはずの何か。 明日は、アリスが――今のアリスが過去に来てから一週間目の日だ。その日までにナオが桜咲く季節に出会ったアリスのことを思い出せなければ、今のアリスは未来に帰り、ナオのことを忘れる。ナオもアリスと出逢ったこと、全て忘れて。さらに未来で、過去のナオに出会った後のアリスだけが、ずっと、ナオのことを覚えていると、言う。 ナオが思い出せなければ。辛い想いを抱え続けるのは、アリスだけ、なのだ。 改札を駆け抜け、電車に飛び乗るその寸前。動きを止めてしまったナオは、発車のベルに我に返った。 「とにかく、一回切るから!」 返事も待たずに電話を切って、閉まりかけたドアの隙間に飛び込む。はあ、と荒くなった息を整えているところで当てつけのように『駆け込み乗車は大変危険ですのでおやめ下さい』との車内アナウンスが流れた。わかっているけれど、どうしようもなかったのだ。ごめんなさい、と心の中でだけ車掌さんだか運転士さんだかに謝る。 手に握ったままの携帯が着うたを流し始める。ちらりと他の乗客の視線が痛くて、慌ててマナーモードに設定し直して。確認すると、アキラからのメールだった。 “お前これから、どうするつもりだ?” まあ、もっともな質問だ。電車に乗ると言っただけで、これからどうするのかをアキラに伝えそびれていた。素早く返信を打つ。 “とにかく、僕の知ってる飯塚さんと会った場所、片っぱしから探してみる。 お前も探してくれるか? 四月に僕とお前と飯塚さんで行った場所。僕は覚えてないから。 頼む” 思えば、こんなストレートに誰かに頼みごとをしたのって、初めてかもしれない。 どう、返してくるか。断られるか。でも、今まで散々お節介してきたのだから、今度もきっと手を貸してくれるだろう。 すがれるなら、藁にだってすがりたい。期待と不安の両方を抱えて手の中の携帯が震えるのを待つ。意外と早く、返信は来た。 “任せろ。みつけたらまず電話するから。お前が先にみつけたら、こっちへの報告は後回しにしていいからとにかく捕まえとけ” ほうっと、息を吐いて。ナオはがたごと揺れる電車の、ドア部分に寄りかかった。さっきまでのささくれ立った気持ちがほんの少し、凪いでいく。 “頼む。飯塚さんが帰るのは明日のはずだから、今日みつければまだ間に合う” そう返信して。それからナオは、自分の打った文面を思い出して、ひっそりとツッコミを入れた。 間に合うって、何にだよ。 つい二日前も、同じことをしていた。 自宅最寄り駅に着いたナオがまず向かったのは、アリスと初めて会った、そして二日前探していたアリスと再会を果たした河原の遊歩道。すでに日は暮れていて薄暗く、ところどころにある街灯に明かりが灯っている。 アリスの姿を探して、辺りを見回し、遊歩道の始まりから終点まで目指して早足で歩く。特に、アリスと出逢ったマンホールの側、二日前に一緒に座ったベンチ、しばらくそこでうろうろしていたけれど、すれ違ったのはジョギング中らしい男女二人連れ(もちろん女性はアリスではない)だけで。仕方なく終点まで歩ききったけれど、結局目当ての人物は影も形もなく。正直ここが一番の当てだっただけに、初っ端からくじけそうになる。けれど。 落ち込んでいてアリスが見つかるのなら、いくらでも落ち込むけれど。今は刻一刻と過ぎていく時間が惜しい。明日になれば、アリスは未来に帰ってしまうのだから。そんな暇があるなら足を動かして、探すしかない。 次の目的地は、アリスとケンカになった昨日廻ったところだ。遊歩道とは反対側だから、来た道を戻らなければならないのだけれど、ついでにもう一回探しながらということで。やる気を奮い立たせて、ナオは踵を返した。 日はもう完全に暮れて。頼りになるのは街灯の明かりだけ、だった。 アリスをみつける。そのことばかりで頭がいっぱいになってしまっているけれど、ふっと疲れて立ち止まった時。ほとんど星の見えない空を見上げて、どうして自分はアリスのことを探しているのだろうか、と何度か考えた。 アリスをみつけて、謝りたいのだろうか――って、何を。どちらかというと、ひどいことを言われたのはナオなのだから、向こうが謝ってくるのが正しい。そう思うのも、ただの意地なのかもしれないけれど。それに、もしかしたら昨日の電話自体、アリスはナオに謝りたくて掛けてきていたのかもしれないのに。だとしたら、その機会を不意にしたのはやっぱりナオの意地のせい、だ。 アリスのことが好きだから――ってわけではない。ないと思う。これを考えた時は、さすがに頭をぶんぶん振ってしまい、通行人に不審そうな目で見られた。恵理花が変なことを言うから、そんなことを考えてしまったけれど。そもそも、アリスには夢があって、その夢を叶えるためにはナオが未来のアリスのことを思い出さない方が、アリスにとっては都合が良くて。ナオだって、正直アリスはちょっと苦手なタイプだから、そんな彼女と恋をした、というのが信じられなくあるのだけれど、なんとなくアリスは、ファインダーに納めてみたい、そんな対象で。人物写真の練習をしたいナオにとって、貴重なモデル協力者で。ナオとアリスの関係は、そんなモノであるはず、だった。 なのに、なんで今、ナオは必死にアリスを探しているのだろう。アキラにまで、協力を仰いで。 もう一つ、頭を振って。ナオはまた、走り出した。視界の中に、探す姿は見当たらない。でも。 絶対に、みつけてやる――理由は後で考えることにして。 アリスと待ち合わせた最寄駅まで戻ってきて。今度は昨日、アリスとぶらぶら歩いた小道を早足に歩く。もちろん、左右を見回しながら。 商店街で覗いていた店の何軒かは、もう閉まってしまっている。道の途中でアリスが構っていた猫は、夜だからか姿が見えない。暗いから、本当に通ったのはここだったか、ちょっと自信を失いかけて、来た道をまた戻ってみたり。 最後に別れた広場までやってきたけれど、やっぱりアリスは、見つからなかった。 昨日、腰掛けたのと同じ石造りのベンチに腰掛けて。ナオは携帯を取り出した。アキラからの着信はない。当然ながら、アリスからも。もう一度アリスの番号を呼び出してみるけれど、返ってくるのは同じ音声ガイダンスだけだった。電源ボタンで通話を切って。ナオは昨日のことを思い返す。 振り返りはしなかったけれど。アリスが去って行ったのは、ナオが今来たのとは反対の方向だった。そちらの方にも駅があるのをナオは知っている。ここら辺の再開発は、その駅を中心に行われているから。ナオがいつも使う路線とは違う、でも、全く知らないわけでもない駅。多分アリスは、その路線を使ってこの時代で身を寄せている場所に戻っていったのではないだろうか。そう見せかけて、全く別の場所に行った可能性もあるけれど。 初めてアリスと会った日、アリスを送っていったナオの自宅の最寄り駅で、アリスが乗っていった方向。今、ナオがいるすぐ近くの駅。二つの路線図を頭に思い描く。 交わる場所が、そこにある。 開きっ放しだった携帯から、アキラの番号を呼び出す。コール音の後、繋がる音がして。 『どうした? こっちはまだみつかってねえ』 「ちょっと聞きたいことがあって。お前、飯塚さんがこの時代で泊まってるところって知ってるか?」 『知らねえよ。知ってたら真っ先に教えてるって』 「もしかしたら○○駅の辺とかって、あると思うか?」 少し考えるような沈黙。こういう時のアキラは、すごいスピードで頭を回転させている。特に今回のような、点と点を、線と線とを結ぶような事柄はアキラの十八番。記憶力もいいから、おそらく今までアリスと会った場所、全てを頭の中で地図に広げて印を付けて線を結んで。ナオの提示した可能性を吟味しているのだろう。 『確かに、別れたところ全部から○○駅に繋がるな……。可能性としてはアリだと思う』 「わかった。これからそこ行ってみようと思うんだ。暗くなってきたし、あんまり遠出はしないんじゃないかと思って。最終的に戻ってくるなら、会える確率はあるんじゃないかと」 『ものすごい、賭けじゃないのか? それ』 アキラの言う通りだ。○○駅にアリスの下宿先があるんじゃないかというのは、アリスの行動範囲から推測した、ただの仮説でしかない。 「でも、いるかどうかもわからない、今まで一緒に行った場所を探すのとだったら、どっこいどっこいかと思って」 『まあ、な』 アキラがため息を吐いたのが聴こえる。きっと、難しい顔で首の後ろ辺りを掻いていることだろう。長い付き合いだ、困った時の癖くらいは覚えている。 『わかった。お前はそっち張れ。俺は引き続き、アリスちゃんとお前が行ったところ探すから。一応、今月に入って行った場所も教えといてくれ』 今月、というか今週アリスと出逢ってから行った場所、一つ一つを思い出して、今日すでに調べた場所も含めてアキラに伝えて。伝え終わったところで『全部、○○駅と繋がるな』と半分独り言のような声が聞こえた。 「さんきゅ。この礼は必ず」 そう告げると『阿呆』と苦い声が返ってきた。 『礼とか言うなら、さっさとアリスちゃんみつけろ。んで仲直りしろ』 「……わかった」 じゃあ、と電話を切って。ナオは駅に向かって歩き出した。 ○○駅。実はナオは、あまり下りたことがない駅なので周辺には詳しくない。隣の駅は有名な洋菓子店がたくさんあるのでわりと知られているけれど、こちらの駅はあまり有名系な話は聞いたことがない。とはいえ、全く下りたことがないわけでもなくて。写真スポットを求めてうろうろしたことは、何回かある。その時の記憶を辿りつつ、ナオは慣れない商店街を歩いていた。 ここにアリスがいるかもしれない。だけど、いない可能性も大きい。藁にもすがる思いのただの推測でしかない。時刻はもう夜も更けてきているが、だからこそ今から遊びに出る若者だっているわけで。アリスがこの時代で過ごす最後の夜を、観光に使っていたとしてもおかしくはない。だとしたら、本当に行き先がわからないのだけれど。行こうと言っていたスカイツリーは、まだ夜に見ても楽しくはないだろうし、だったら昼間に行っているだろうし。電波塔繋がりで東京タワーの夜景とかもアリかもしれないけれど、そんなのは推測以前の想像だ。 でも、推測や想像を言い出したら切りがないから。だからナオは、可能性というモノにかけてここに来たのだ。 「っても、どこを当たればいいんかな……」 思わず、ぼやく。商店街を道行く人々は、もはや仕事帰りのサラリーマンやらOLやらで、アリスみたいな少女はいない。繁華街ならそうはいかないだろうけど、住宅地だったらむしろいたら目立つ。そんな時間帯と立地条件だ。むしろ、商店街の店自体がだいたい閉店してしまっている。 駅から真っ直ぐ続くメインストリートを辿って行くと、確か幹線道路に出るはずだけど。一歩わき道に入ってしまうと、まさに個人宅ばっかりだ。 さて、どちらに進もうかと考えているところで。閉店支度をしているらしい店の一つが目に入った。店員らしき女性が、店の前に置かれていた手書きの木の看板を仕舞おうとしている。 「――すみません!」 思わず駆け寄って、声をかけた。店員が驚いたように目を瞬かせるのを尻目にカバンの中からデジカメを取り出すとその中から一枚の写真を選んで。 「この女の子、ここでシャツ買っていきませんでしたか、最近!?」 カメラを差し出したのと反対の手で指差したショーウィンドーのマネキンが着ているのは。生成りの時に、紅い色筆で蝶と花とが日本画調に描かれた、シャツ。色だけ違うが、昨日アリスが着ていたのと同じモノだ。 「え、ああ……この子、最近よく来ますよ。買ってくれたのは昨日が初めてでしたけど」 勢いに押されて思わず、といった感じで店員がまじまじとカメラの液晶を見て頷いた。やっぱりアリスが着ていたのは、この店のシャツだったのだ。 「あの、彼女どっちの方向に帰ってったかわかったり……しま、せんよね……すみません、なんでもないです。ありがとうございました」 もしかしてアリスの下宿先がわかったりしないだろうか。そう思って聞いてみたのだけれど。台詞の途中でどんどん店員の目が不審者を見るようなモノに変わっていって。最終的に笑って誤魔化してその場を離れた。ストーカーとかが跋扈する時代だ、個人情報を聞きまくるのは大抵マイナス印象しか与えない。アキラとかだったら、うまく聞き出せるのかもしれないけれど(口がうまいから)生憎ナオにそんなスキルはない。通報されるのがオチだ、笑えない。 でも、一歩前進だ、多分。だってアリスがこの街にいた証拠は掴めた。最近よく来る、ということは、ここがアリスの生活圏内であることを示している。 まあ、わかったところでこの先をどう探すか、という辺りでまた振りだしに戻ってしまうのだけれども。 ひとまず、シャツを売っていた服屋から一番近い曲がり角を曲がって。個人宅らしい一戸建てやアパートが並ぶ中を地道に歩くところから、始めてみることにした。 始めてはみたものの、実りのない仕事というモノはあるわけで。犬の散歩らしい女性とすれ違ったあたりで、ナオは深々とため息を吐いた。住宅地、というのは、夜中も近くなると犬の散歩かマラソンくらいしか、出歩いている人間がいない。 もう何時間、歩き回ったことだろう。家から零れる明かりと電柱の明かりだけが光源の住宅街と、それよりはだいぶ明るいものの、店もほとんど閉まって薄暗くなってきた商店街(たまに酔っ払いが通っている)との往復も、もう何度目か。 駅のすぐ側まで戻ってきて、ナオはまたため息を吐いた。駅のホームからは「二番ホームに零時一分に到着します電車は、△△行き最終電車になります」というアナウンスが聞こえてくる。完全に終電が行ってしまうのはまだ少し先だけれど、そろそろ本数は危うい。 正直、こんな時間にアリスに出歩いていて欲しくはないな、と思う。女の子は、夜道は危険だから一人歩きはいけない、という考えは古いかもしれないけれど。でも、アリスに何か危ない目になんてあっていて欲しくないから。それくらいなら、下宿先でおとなしくしていて欲しい。 みつかって欲しい、みつけたいと願う心とは正反対の欲求だけれど、そんな気持ちも、ナオの中にはあった。 「……酔っ払いのからまれてるよりは、マシ、かな」 ちょうどふらふらと覚束ない足元で駅から出てきた中年男性を横目で見送って。誰にともなく、呟いた。 独り言の、つもりだった。 「……からまれるって、あたしのこと?」 返事があるなんて、思わなかった。 振りむいた先、ずっと探していた少女が、立っていた。
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