四月二十四日(土曜日) その時の気持ちを、どう表現したらいいだろう。 アリスが立つ、その後ろにある踏切が、目に眩しい赤い色で警告を鳴らし始め。しばらくして轟々と音を立てて電車がホームに入っていった。さっきアナウンスしていた△△行き最終電車。つまり、もう日付変更線を跨いだのか、とどこか遠いところで考える。 「……電話、繋がらなかった」 「……この時代で使えるようにするアプリ、削除しちゃったから」 ああ、そういえば。そんなモノがあると言っていた。ソレがあるから、未来から持ってきた携帯でもこの時代で使えるのだと。 「すごい、焦った。探してたんだ」 「なんで」 「なんで、って……」 何を言っていいかわからなくて、言葉が文章にならず片言になってしまって。それでもなんとか、探していたことを伝えようとしたら。間髪入れず聞き返された。 自分でもまだよくわからない、その理由を。 「だって、君、今日帰っちゃうんだろ? あんなわけのわからないケンカしたまま、サヨナラなんかごめんだよ」 「一昨日と同じ理由じゃない、ソレ」 話し続けていないと、またアリスが消えていなくなってしまいそうで。なんとか紡いだ言葉を、またばっさりと切り捨てられる。いつも、と言っていいだけの期間が過ぎてるかはわからないけれど、相変わらずのやりとりで。なのになんだかソレが、懐かしく感じる。 「そうかな……同じじゃ、ダメかな」 「ダメ」 にべもないアリスは、ナオから三メートルほど離れて駅の街灯の下に立っていて。逆光のせいもあって表情がよく見えない。何を考えてるのか、まったくわからない。――もともと、わかっていたことなんかなかったけれど。 「だったら先に、僕からも聞いていいかな」 ゆっくりと、ナオはアリスの方へと歩み寄った。そうっとそうっと、まるで逃げてしまいやすい仔猫に近づくみたいに。実際、そんな心境だ。アリスという少女は、近づこうとするといつも逃げてしまう猫のようで。そんな彼女が、また消えてしまわないように、ナオは一足一足、いっそ祈るような心境でアリスに近づいた。 「……なに」 二人の間の距離が一メートルほどになったところで、アリスが目を逸らした。それを合図にしたように、ナオも足を止める。今は、これ以上近づけない。なんとなく、そう感じた。 「昨日は、何に怒ってたの?」 それがわかれば。今の自分の気持ちにもちゃんと名前が付けられそうな気がしていた。 「もし、僕が何か気に障ったことをしたなら、ちゃんと教えて欲しい。一人で勝手に、抱え込まないで欲しい」 謝る、とはまだ言わない。だって、理由が何かすらわからないのに謝るなんて、本当の謝罪じゃない。口先の言い訳だ。 『楠本くん、相当鈍いからね。相手の子の気に障ること、なんかしたんでしょ』 恵理花に投げつけられた言葉を思い出す。ナオの主観では、気に障ることをした覚えはない。写真の話ばっかしてた覚えはあるけど。でも、アリスから見たら、何かあったのかもしれない。 ナオは、ソレが知りたい。ソレがわからなければ、謝ることも、話し合うことも、この気持ちに名前をつけることも。何もできない。 「……別に」 「嘘だろ」 今度はナオが、間髪いれずに言い返す。思わず、といった感じで詰まるアリスに、もう一度問いかける。 「教えてよ、本気で。頼むから――僕から、逃げないで欲しいんだ」 きゅっと、アリスがこぶしを握って、俯いた。 「……じゃないの?」 「え?」 よく聴こえない、と聞き返すと。アリスがきっと――目に薄らと涙を浮かべて、ナオを見た。 「逃げて欲しくないのは、未来のあたしに、じゃないの?」 「……は?」 今度こそ、はっきりと耳に届いた言葉は。ナオが想像もしていなかった内容だった。 「未来の君って……今、ここにいる君は、君だけだろ? それとも、さらに未来からも君が来てたりするの?」 我ながら変な表現になってしまったが、そうとしか言えなかった。今、この時代にいるアリスは、四月にこの時代に来たアリスよりちょっと過去(それでもこの時代から見たら未来だけど)のアリスで。他のアリスもこの時代に来ているなんて話、ナオは聞いてない。 改めて、アリスが今この時代にいる事情の複雑さにちょっと頭が痛くなる。これ以上、ややこしくなるのはごめんこうむりたいのだけれど。 「やっぱり全然、わかってないじゃない……」 「え、あ、ごめん――あ、やっぱごめんての無しで」 また俯いてしまったアリスに、ナオは慌てて謝りかけて――やっぱり謝るのをやめた。 「無しって何よ」 「うん、いやさ、僕いつも君に『わかってない』って言われて謝って……結局、何もわからないままうやむやにしちゃってる気がしてさ」 だから今日は、ちゃんと何がどうしてアリスが怒っているのかに向き合わなきゃいけない。……もう、今日しかないのだから。 「僕は別に、未来の君を探してたわけじゃないよ? そもそも覚えてないんだし。僕が知ってる『飯塚アリス』は君だけだ」 「だって! ……正直に、ちょっと思い出してるんでしょ? あたしと話す時、たまに別のとこ見てるなって時がある」 アリスの台詞に、そういえば、と思い当たる節があった。 アリスといた時に、それ以外の場所や夢の中で、何回か頭を過ぎった映像――自分と、誰かわからない女の子と、桜吹雪。もしかしたら、アレが前にアリスと出逢った時の記憶なんじゃ、と思っていたのは事実だ。 「それに、あたしに『写真が未来に残ってるって教えてくれてありがとう』って何度も言った、って言ったでしょ? あたし、そんなに何度もお礼、言われてないよ……きっとそれ、未来のあたしに言ってたんでしょ?」 アリスの瞳が、ゆらゆら揺れる。どこか怒ったみたいに、どこか不安みたいに。 そう言われたら、そうかもしれない。自分でも、実際よりもずっと長く彼女と過ごしているように思えていることに、ナオは今更気がついた。それは確かに、かつて未来のアリスと過ごした時の記憶が甦ってきている証拠なのかもしれない。 だけど。 「……うん、もしかしたら、思い出してるのかもしれない。そんな記憶っぽいのが、ちょっとだけ、ある」 「だったら」 「でもさ!」 何か言いかけたアリスを、強い声で遮る。いつもと逆のパターンだと思って、場違いにおかしく思う。 「でも、本当にアレが君の言う未来の君との記憶だって確証もないし。自分のこと、って気があんまりしてないんだよね。ていうか、アレってやっぱ君なのかな? ごめん、正直、君よりずっと素直な気が……」 「失礼な!」 「う、ごめん」 あ、この謝ってるのは失礼なコト言ったからだからね、と断って。ナオは話を戻す。 「だから、記憶が戻ったから君を探してたってのはない。断言する」 「……無意識かも、しれないじゃない」 「無意識わかんないけど、少なくとも僕はそう思ってない」 きっぱりと、言いきる。どうか、信じて欲しい、と願って。 「……ていうか、なんで探してるのが未来の君だと怒るの?」 でも、ついつい。浮かんだ疑問をそのまま出してしまったら。アリスは「うるさい」と顔を背けようとして。でも、やっぱり思い直したように「あたしじゃない、って思えて、むかついた」と呟いた。 「だから、探してたのは君だってば。今、僕の目の前にいる、君だよ」 何度でも、届くように、繰り返す。アリスが納得してくれるまで、繰り返してもいいと思う。 まだ納得していない顔だったアリスだけれど。ふと、その表情が変わった。いつもの冷めた無表情とよく似た――でも、全然違う、真剣な顔。 「じゃあ今度こそ、もう一回あたしが、聞いていい?」 そう、だった。もともとはアリスの質問を遮って、ナオがアリスに質問していたのだった。 「なんで、『あたし』を。探してくれてたの?」 どうして、アリスを探していたか。それは、ナオ自身も疑問に思っていることなのに。でも、わからないからといって目を背けている時間は、もう残されていない。だから、ナオは答えをみつけなければならない。 ナオとアリス、二人ともが納得できる答えを。 「……うまく、一言でまとめられる自信ないから、ちょっとずつでもいいかな?」 ちょっとだけ目を閉じてから。ナオはアリスにそう聞いた。ちょうど、アリスの背後でまた踏切が鳴り始める。声が届かないと思ったのかそうでないかはわからないけれど、アリスはこくりと頷いて、ナオに続きを促した。踏切の音を追うように、入ってくる電車が轟音を上げる。最終電車だ、と告げるホームのアナウンスが途切れ、電車がやはり轟音を上げて去っていってしまうまで、自分の中の言葉を探して。ナオは、一つずつ噛みしめるように、確認するように、口を開いた。 「君とケンカしたまま別れたくなかった、っていうのは本当だよ。せっかく生きてる時間も違う君と、いろいろあったお陰で会うことができて、話もできて。忘れちゃうとしても、このまま終わらせたくなかった。でも、多分、それだけじゃないんだ。他にもあるはずなんだ、君ともう一度会いたかった理由」 アリスはさっきみたいに『また同じ理由だ』と指摘することもなく、ただ黙ってナオの答えを待っている。その瞳の奥に、何か――期待、のようなモノが見えるのは、ナオの気のせいだろうか。 それともナオも、何かを期待しているからそう思うのか。 もう一度、恵理花の顔を思い出す。自分を好きだと、頬を染めて言ったくれた時の表情。そして、その時に浮かんだアリスの顔も。浮かんでいるのは、いつもの無表情で――。 「そうだ、笑った顔が見たかった」 「なっ……」 ぱっと閃いたことをそのまま脳から口の外へと零れて。アリスが目を見開いて、あからさまに動揺したように何度か口をぱくぱくさせて。結局、押し黙る。 「君、いつも無表情っていうか、つまらなさそうっていうか、綺麗なんだから笑えばいいのにって思ってて」 「悪かったわね、無愛想で。てか何よその歯の浮くような台詞!」 さすがに耐えきれなくなったらしく、夜目にもアリスの顔が赤く染まっているのがわかる。浮かぶのは、無表情ではなくてちょっと涙目の怒った表情。この表情も、わりと見ているかもしれない。でも、ナオが見たいモノはこれだけじゃ、ない。 「笑った顔もみたいし、もっと他のいろんな顔も見たかった。けど、どうやったら見られるのかもわかんないし。モデルになってもらえば、ファインダー越しなら、何か違ったのも見れるかな、と思ったんだけど――」 そこまで言って、アレ? とナオは思った。 じゃあ、なんで自分はアリスのいろんな顔が見たかったんだろう。 「どうか、した?」 急に押し黙ったナオを訝しむように、ちょっと不安そうに、アリスがこっちを見ている。その姿に、急に思い出した台詞があった。 『この写真、本当はアリスちゃんが映ってたんだよ。満面の笑顔でさ』 アキラが言っていた。あの桜吹雪の写真には、本当は満面の笑顔のアリスが映っていたと。今のナオが見たことのない顔を、あの写真を撮った時のナオは見ていた。 (……ずるい) って、何考えてるんだ!? ぱっと浮かんだ思考に、ナオはかっと頬が熱くなるのを感じた。まるで、恵理花に告白された時によく似た感覚。でも、ちょっと違う。もやもやとしたモノが胸の中にわだかまって。これじゃ、まるで。 過去のナオ自身に、嫉妬、してるみたいな。 「え、まじで?」 思わず呟くと、アリスが不安げに首を傾げて。初めて、彼女の方からナオへと歩み寄ってきた。さっきのナオみたいに、躊躇いがちに、そっと、そっと。ナオの前まで近づくと、アリスは足を止めた。二人の距離は、もう後二十センチ程度。 そして。アリスはやっぱり躊躇いがちに腕を上げ――その腕を、しばらく迷うように宙に浮かせて。やがて意を決したように、コワレモノに触れるように。アリスの細い指が、ナオの頬に触れた。 触れられた瞬間、電気が走ったような気がした。その電流が脳にまで到達して。ナオはぽかんと、口を開けて、言った。 「そうか、僕は君が好きなのか」 「……え?」 アリスも同じように、「え」のカタチにぽかんと口を開ける。 「え、あ、そっか。そうだったんだ、だから君を探して――また、会いたかったのか……って、え、僕、何言って……え、あれ、わあ!?」 今までぶつぶつ零していた自分の台詞に、ようやく自覚が追いついて。ナオは思わず、叫んでしまった。さっきの比じゃなく、顔が熱い。ナオの叫びにびくりと震えたものの、変わらず触れたままのアリスの体温が冷たく感じる――と思ったところで、今度はアリスが自分に触れている、ということを意識してしまって。「あ」とか「う」とか訳のわからない呻きを上げながら半分パニックになっているナオの耳に、アリスの声が、届いた。 「……あたしのこと、好きなの?」 「え、あ、うん、えと――うん、好き、です」 「だから、探してくれた? 未来のあたしじゃなく、この『あたし』を?」 静かに、問いかけてくるアリスの柔らかな声に。ナオの頭もだんだんと混乱から復活してきて。だから。 「うん。未来の君とか、関係ない。僕は君が――君のことが、好きなんだ」 しっかりと、アリスの目を見て。ちゃんと気持ちが伝わるように。 ふ、と。ナオを見ていたアリスの目の色が、僅かに変わった気がした。次に、ゆっくりとアリスの唇の端が上がっていって。変わったのは色じゃなく、表情なのだと気付いた時。 アリスは、嬉しそうに、本当に嬉しそうな顔で、笑っていた。 「あたしも――あたしも、きみが好き。未来のあたしと過去のきみのこととか、関係ないよ。あたしはあたしで、ちょっと抜けてて、カメラ馬鹿で、でも真剣なきみのこと、好きだよ」 その笑顔に、胸がいっぱいになる。コレが、ナオの見たかったモノ。 その時、だった。 ナオの目の前に、桜吹雪が溢れた。 *** 「きみが好きだよ」 言われた言葉に、喉の奥に熱い何かが詰まったような気になった。みるみるうちに、頬に熱が昇っていくのがわかる。きっと今、自分の顔は真っ赤っ赤、だ。女の子にこんなこと言われたの、生まれて初めてだから。どうしたらいいのかわからない。 「……まじ?」 「嘘で言える!? こんなこと」 確認取ったら逆ギレされた。よく見たら、言った相手の方も真っ赤っ赤、で。あ、本当らしい、と改めて実感が湧いてきて、ますます顔やら頭やらが沸騰状態に熱い。 「あたしだってねえ、なんできみなのかと思うわよ。抜けてるし、カメラ馬鹿だし、お人好しだし、ぼーっとしてるし……」 「……あの、本当に僕のこと好きなんだよね……?」 あんまりな言われようにもう一回確認すると、「だからそう言ってるでしょ!」と怒られた。 「ほんと、なのに偶にすっごく真剣だし、真っ直ぐだし。だから……」 「だから?」 「察してよ、ばか!」 口ごもった彼女を促すと、意外と強い力でどつかれた。地味に痛い。でも、彼女が慌てて「ごめん、大丈夫?」と聞いてくるから、笑って「大丈夫」と見栄を張る。 「で?」 「で、って?」 「返事」 笑ったことでちょっとだけ落ち着いた心拍数が、再び上昇し始める。爆発するんじゃないかってくらいに。 「へへへへへ返事というと」 「だーかーらっ、……あたしだって、きみがどう思ってるのかくらい、ちゃんと聞いたっていいでしょう?」 俯いて、ほんの少しだけ口を尖らせる。その仕草が可愛いと思う辺りで、自分の気持ちなんかとっくに決まってた。 「僕は……」 口の中が乾いているみたいで、うまく声が出せない。どこか遠いところから、別な自分が自分のことを見ている気がして、くらくらする。でも、声を振り絞って、届くように。 「僕は、君が好きだよ。アリス」 ふっと顔を上げたアリスが、ゆっくりと、桜のつぼみが綻ぶように。少し泣きそうな、満面の笑顔になった。 *** 「大丈夫?」 アリスの声に、我に返った。けれど、目の前の――いや、記憶の中の桜吹雪は、消えずにナオの中に残っていて。 目の前で心配そうなアリスの顔と、今しがた目の前に浮かんだ笑顔のアリスとが重なって。 「そうだった……」 「え、何? 何が?」 桜の咲いた遊歩道で、途方に暮れている彼女と出逢った。 挙動不審な彼女が未来から来たと知って驚いた。 すぐに未来には帰れないという彼女と、あちこち見て回って、親しくなって。 笑う彼女に――アリスに、恋をした。 ナオの中で、ずっとカケラとして残っていたモノが、一つに繋ぎ合わされる。隠れていた断片も、その中に綺麗に組み込まれて。 アレは、この春に起きたこと。桜が咲いて、散り始めるまでの短い時間に経験した、一生分の恋。 あの時だって、ナオはアリスに、恋をした。 「え、え、なに? なに!?」 思わず、あと二十センチの距離を縮めて、腕を伸ばして。アリスをぎゅっと抱きしめたのと。アリスのポシェットから、ファンファーレのような音が聴こえてきたのは、ほぼ同時だった。 「え、うそ、これって。もしかして、きみ」 腕の中で、アリスがもぞもぞ動くけど。離したくなくてじっとしていた。脱出を諦めたらしいアリスが、もぞ、とナオの肩のあたりで目だけを動かしてナオを見た。 「今の、曲。相手の記憶が戻ったら鳴る、って」 「そう、なんだ?」 「うん。……思い出した、の?」 「そう、みたい、だ」 ぎゅうっと、回した腕に力を込める。そっと、アリスの手のひらがナオの腕に添えられて、上着の袖をきゅっと掴む。そのまましばらく、じっとしていると。お互いの体温が一つになったような、そんな錯覚すら覚える。 「……で、未来のあたしと今のあたし、どっちが好きなの?」 「まだ気にするのソレ?」 ジトッとした視線に苦笑しながら、ナオは。 「結局、君が好きなんだよ、僕は」 「だからどっちの――」 「どっちでも、というか、どっちもか。とにかく、未来だろうが過去だろうが、結局、君じゃないとダメなんだ」 恵理花に告白された時、どうして躊躇ったのか。どうしてアリスの顔が浮かんだのか。自覚した上に思い出した今となっては答えは簡単。 アリスじゃなきゃ、ナオはダメだから。 「……なんか、不満」 ぶくっと膨れたアリスに、なんだか気が緩んでしまって。ナオは声を立てて笑った。今日、苛々して焦って苦労した分を取り戻すように。 ……ナオが笑ったせいで、さらに機嫌を損ねたアリスに苦労させられるのは、これからもう少しあとのお話。 アリスの機嫌がようやく治った後。 終電もなくなったナオは、アリスが下宿している時間渡航局の研修事務所の一室で過ごした。 見た目はどう見ても普通の戸建て住宅なのに、玄関をくぐるとどこかのオフィスみたいになっていて。廊下の壁をぶち破ってリビングと繋がった広い部屋で、若いのと中年の間の若いよりくらいのかっこよくスーツを着た姉御風の女性から、開口一番「おめでとう!」との言葉を頂いた。 名刺も貰ったけれど、そこに書いてあるのはこの時代での仮の仕事と名前で、しかしてその実態は、時間渡航局二〇〇〇年代支部長さん(本名はナイショ)だそうだ。 ナオがアリスを思い出したという情報は、未来のふしぎ道具によって時間渡航局の方に検知されて。さらにアリスの持つ携帯に連絡(というか、ファンファーレ)がいった、ということらしい。思い出したり忘れさせられたりを勝手に管理されて、ちょっと人権侵害な気がしたが、というか実際それを口に出したのだけど、そこら辺は機密だけど人権侵害じゃないから大丈夫と誤魔化された。というか、その場にいた別の職員らしい若い男性に、『時間』そのものの作用が大きいとかなんとか説明されかけたけど、その前に支部長さんに「若い人は話すこといろいろあるでしょう、さっさと二人きりにしてあげなさい!」とリビング――もといオフィスを追いだされ。アリスが寝起きしている一室へと追いやられた。 ちなみにこの事務所には他に、時間旅行ガイドの研修のための大部屋やら、アリスの部屋のように研修生が寝泊まりする部屋もあるらしいけれど、それは置いておいて。 仮住まいとはいえ、こんな夜中に女の子の部屋に上がっていいものか悩んだのは嘘じゃない。嘘じゃないけど。 それでも、部屋の中、二人寄り添っていろんな話をするだけで幸せだったのは、嘘じゃなくて。 結局、昼から何も食べていなかったナオにアリスは「出来合いだけど」と自分の分も二人分、事務所の残業用弁当をもらってきてくれて。それを食べながら、ナオは今日アリスを探してまわった話をして。そうしたらアリスは得意げに「かくれんぼで絶対に見つからない方法知ってる?」なんて言い出して。何かと思ったら、アリスは今日一日、ナオの後をつけていたらしい(バイトの時間などのスケジュール情報は時間渡航局からの提供)。ストーカーじゃないからね、と言い張るアリスが可愛くて、ナオはやっぱり笑ってしまって、またアリスに拗ねられた。 どうして? と聞いたら、ちょっと口ごもった後、直接顔は合わせづらいけど様子を見たかった、と答えて。少し考えてその後に、「話すだけじゃわからないとこ、あるんじゃないかと思ったから」と付け加えた。その結果は? と聞いたら、「あんな可愛い子振るなんてどうかしてるんじゃないかと思ったわ」と澄ました顔でしれっと言われた。つまり、恵理花に告白されたところも見られていた、ということで。あわあわするナオのことを余裕の表情で見下すアリスに口惜し紛れに「妬いた?」と聞いたら今度はアリスが挙動不審に視線をさ迷わせた。しばらくして、俯いて顔を隠した髪の隙間から「……ちょっとだけ……」なんて聴こえてきたものだから、二人して盛大に照れて。 そしてまた、話をして。 途中で唐突にナオが「しまった!」と立ち上がってアリスに何事かという目で見られた。何かと言うと、アキラにアリス探しを手伝わせていたことをころっと忘れていたのを思い出したわけで。慌てて電話をかけようとして、圏外で焦って。アリスから「研修事務所の中ではこの時代の携帯は使えない」と教えてもらったのでひとまず外に出て、電話をかけた。 『そっか、よかった』 ずっと探してくれていたのだろう、ちょっとくたびれた声で。携帯電話の向こう、アキラが笑った。 少し事務所から離れた電柱の明かりの下、事務所の玄関からこちらを見ているアリスに親指を立てて見せると、小さく手を振り返してくれた。 『お前もな、思い出すならもっと早く思い出せよ。こんな土壇場じゃなくて』 「仕方ないだろ。そんなん、自分でどうにかできるモンじゃないし」 『でも、良かった。――おら、アリスちゃんこの時代にいるのって今日までなんだろ? 報告、いや惚気か? どっちでも後日聞いてやるから、お前はちゃんとやることやっとけ』 「ちょ、その言い方は……」 『いいからいいから。じゃ、お幸せに』 にやっと笑っているのがありありと目に浮かぶ言葉を最後に、通話がぷつりと途切れた。 「……さんきゅな」 もう繋がっていない携帯に落とした呟きは、明日ちゃんと伝えようと思う。携帯をジーンズのポケットにしまいながら、ナオはアリスが待つ方に向けて歩き出した。 「ごめん、待たせた」 「ううん、大丈夫。あの人、なんて?」 「お幸せに、だってさ」 何ソレ、とアリスが笑う。一緒に笑い合って、そして。 ふと合わさった、視線と視線の間で、絡みつくように何かが伝わり合って。 ナオとアリスは、ゆっくりと顔を近づけると。柔らかく触れるだけの、キスをした。 「そろそろ、かな」 「……うん」 昔のこと、未来のこと、これからのこと、他愛ないことまで夜通し話して、翌朝。 ナオとアリスは、二人が出会ったあの遊歩道に来ていた。 「一か月後、なんだね」 「うん、きみにとってはね。あたしは――これからもう一回、きみに出逢い直さなきゃだけど」 苦笑するアリスは、後少しでこの場所から未来に戻る。 「きみのこと、忘れたくないな」 「大丈夫だよ、思い出してくれるんだろ? それよりちゃんと、君の未来で僕に出逢ってよ」 「それは大丈夫。だって、大丈夫だってきみが証明してるんだから」 そうか、と今度はナオが苦笑する。 アリスの見送りに来る前、時間渡航局研修事務所であの女支部長さんに受けた説明によると。これからこの時代での一か月間、ナオはアリスの記憶を持ったまま、素行調査をされるらしい。未来の人間と結ばれて、問題ない相手なのか――具体的には長続きしそうかとか、機密を保持できるかとか、らしいけれど。それで、その素行調査で問題ないと判断できれば。 一か月後の未来に、アリスは再び訪れる。今度こそ、この時代への移住許可を携えて。 「素行不良、しないでよ」 「大丈夫だよ、する度胸ないから」 「……ソレ、自分で胸張って自慢できることじゃないよね……」 二人が出逢った、遊歩道のマンホール。そこが未来と現在を繋げる地場になっているそうで。 「……行かなきゃ」 「……うん。待ってる、から」 「待ってて、ね」 淡く笑うアリスに、同じように笑い返して。彼女の笑顔を、脳裏に刻む。 「じゃあ、またね」 アリスが言った瞬間、強く強く、風が吹き抜けて。 思わず目を閉じたナオが、再び目を開いた時。 そこに、アリスの姿はなかった。
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