不意に、リクルが足を止めた。前を歩いていたラシュ・キートはすぐにそれに気付き、リクルを振り返った。
「リクル? どうかしたのかい?」
「あ、ううん、なんでもない……」
呼びかけられた少女――リクルは、すぐにとてとてと走って数歩先を行くラシュ・キートに追いついてきた。しかしその表情は、本人が言うように、なんでもない、というようには少しも見えず。ラシュ・キートはわずかに眼を細めた。
「……あの裏道、どうかしたのかい?」
リクルはしきりと、それまで歩いていた道の脇の建物の隙間、薄暗い通りを気にしている。そこを突くとリクルは、ほっとしたような、どこか怯えたような曖昧な表情を浮かべた。
「あ、うん、そうなの! なんか変な声が聴こえた気がして、それで……」
まるで救われたように必死に言い募るリクルの頭を、ラシュ・キートはそっと撫でてやった。
「ちょっと見てこよう。リクルはここで待っているんだよ?」
優しくリクルに告げて、リクルがこっくりと頷くのを見届けて。ラシュ・キートはその細い通りに身を滑り込ませた。完全に身体が通りの中に入ってしまうと、ラシュ・キートの表情が変わった。リクルに見せていた優しさなど微塵もない、冷たい表情。
リクルの言ったように、通りの奥から時折恫喝するような声が漏れ聞こえてくる。同時に、何かを蹴りつけるような音も。だがそれは、けして表通りから聞こえる音量ではない。リクルが何故それを聞いたと言ったのか、ラシュ・キートはおおよそ把握している。……リクルがその理由を言わない限り、敢えて聞き出そうとは思わないけれど。
見えてきた人影に、ラシュ・キートはよく通る声で呼びかけた。
「そこで何をしているんだい?」
人影――数人の男が顔を上げる。足元には、一人の少年が頭を庇った恰好で転がっていて。なんともわかりやすい状況だ、と無感動に思って。ラシュ・キートはゆっくりと口を開いた。






リクルがラシュ・キートを待っていたのは、時間にして十分もなかった。薄暗い路地から姿を現したラシュ・キートは、その背に一人の少年を背負っていた。
「キート!」
慌ててリクルはラシュ・キートに駆け寄った。
「この子がちょっと絡まれててね。ちょっと話したら、快く引き渡してくれたよ」
「この子、大丈夫なの?」
リクルはラシュ・キートの背中の少年を覗き込んだ。全体に薄汚れたそのこどもは、どうやら気を失っているらしく。そしてリクルの目にもわかるほど、あちこちに怪我をしていた。
「診療所に連れて帰ろう。大丈夫、怪我はそんなにひどいものじゃない。見かけない子だから、後でグラファイトに頼んで身元を調べて貰わないとな」
ラシュ・キートは、にっこりとリクルに微笑んだ。






時計塔の街、と。この街はそう呼ばれている。理由は簡単で、この街の中心に昔から、高い高い時計塔があるからだ。その時計塔を中心にこの街は広がっている。地図の上では小さな街だが、狭い癖に人口密度が高く、計画性のない建造物が林立した結果、そこに高台、ここに行き止まり、かと思うと抜け道が、と随分と複雑な構造になってしまっている。
その街の、唯一の診療所で。美羽は不機嫌な顔で留守番をしていた。診療所の主、及び助手の少女が揃って買い出しに出てしまったからだ。一応、休診中の札は下げているものの、急患があったら困るだろう、と胡散くさいほど爽やかな笑顔で言い切って、この街ただ一人の医者は彼女に留守番を押しつけていったのだ。
穏やかな午後。今、診療所には美羽以外誰もいない。混んでくるのは、もう少し先の時間帯だ。待合室のソファで本を読んでいた美羽が頁を捲った、その時。診療所のドアが外から開かれた。やっと帰ってきたかと本から目を上げると、予想通りこの診療所の主と、その養女が入ってくるところだった。が、しかし。明らかにおかしい点がひとつ。
「……ちょっと、ソレ、どこで拾ってきたの?」
医者――ラシュ・キートの背中を見て、美羽は眉をひそめた。その背には、薄汚れたこどもが、背負われていた。
「煙草屋の先を行ったところに、脇に入る狭い道があるだろう? そこで絡まれてたんだ」
「別に地理的な話を聞いてるわけじゃないわよ。どうするの? ソレ、生きてるの?」
「当然じゃないか。ひどいな、美羽は。それより手伝ってくれ」
そんな二人の横をすり抜けて、リクルがぱたぱたと診療室へ走って行った。このこどもの手当ての準備のためだろう。そんなリクルを横目で見送って、美羽は小さく毒づいた。
「なんでそんな面倒くさそうなの拾ってくるわけ? あんたともあろうものが」
「仕方ないじゃないか」
ラシュ・キートは例の、胡散くさいほど爽やかな笑顔を見せる。
「リクルが気づかなかったら、そのまま放っておくつもりだったんだけど……気付かれちゃったからね。そうなったら、僕のキャラとしては助けるしかないだろう?」
「……ほんと、あんた良い人演じすぎじゃないの? リクルの前じゃ、恰好つけちゃって」
はっとため息とも嘲りともとれる息を吐くと、美羽はリクルの後を追って診療室に入っていった。残されたラシュ・キートは。誰にともなく小さく笑うと、背中のこどもを背負いなおし、同じように診療室に向かった。






身体が痛い。身体が重い。頭が働かない。
浮上する意識に抗うように、一度きつく瞼を閉じて――少年は、ゆっくりと眼を開いた。
視界に入る見たこともない天井をぼんやりと眺めていると、急に脇から声が聞こえた。
「キート! この子、眼、覚ました!」
釣られるようにそちらを見ると、銀色の髪をした少女が、慌てた声で背後に呼びかけているところだった。すぐに、少女の後ろから黒髪の男が顔を覗かせた。
「やあ、大丈夫かい? どこか痛いところは?」
それが自分に聞かれているのだと、気づくのに数秒の時間がかかった。
「ぜんぶ、いたい……」
なんとか絞り出した声は、考えたよりもずっと小さく、掠れていた。少年の言葉を聞き取った黒髪の男は小さく首を傾げると、少年の額に手を当てた。そして聴診器をあてたり、脈を測ったりと診察を始める。その横では、最初に見た少女が慌ただしく彼を手伝っている。医者と、看護師。そんな単語が少年の脳裏に浮かんで。二人の人間の動く音を聞きながら、少年の意識は再び暗い場所に沈んでいった。

次に目を覚ました時、少年の側にあの二人はいないようだった。随分と痛みの治まった身体で、ゆっくりと視線を巡らすと、少年のいる寝台のすぐ脇で、先ほどとは別の少女が座って本を読んでいた。窓から射し込んできた陽の光に、その少女の黒髪が赤っぽい色に光る。
「……起きたの」
少年の視線を感じたのか、少女が文字の連なりから目を上げた。ぱたんと、重そうな本を閉じ、少年の額に冷んやりとした手のひらを当てた。
「もう熱はないみたいね。気分は?」
「……ずいぶん、マシになった」
今度は、それほど苦労せずに声は出た。そう、と少女は頷いて、椅子から腰を上げた。
「ラシュ・キートを呼んでくるわ。待ってて」
背を向けた彼女の姿に、不意に少年の喉元にどうしようもない想いがこみ上げてきた。

(待って、おいていかないで)

無意識に伸びた手が、離れてゆく少女の服の裾を掴む。引っ張る、というには弱々しい引きとめに、少女が不審げな顔で振りむいた。
「何?」
何、と問われて返せる答えもなく、少年は言葉に詰まる。けれど、どうしてか縋るように掴んだ手のひらを外すことができず、困惑して視線をさ迷わせた。そこへ、
「ああ、目が覚めたんだね。具合はどうだい?」
彼らの話声が聞こえたのか、先ほどの黒髪の男が姿を現した。そしてまた、同じように少年を診察し始める。一通りそれが終わると、黒髪の男はにっこりと笑った。
「だいぶ良くなったようだね。安心したよ。僕の名前はラシュ・キート、この街の医者をしている。君の名前は?」
尋ねられて、考えるより先に少年の口からぽろりと言葉が零れおちる。
「しょう……」
「ショウくんか。ショウくん、君はちょっと性質の悪い連中に絡まれててね、僕がこの診療所まで運んだんだ。そのことは覚えているかい?」
ぼんやりと記憶を辿ると、確かにそんな覚えがあった。こっくりと頷く。
「そうか。見かけない顔だけど、どこに住んでるのかな? もう少し安静にしていなければならないけど、そのあとは君の家まで送っていくよ。連絡も必要だろうし」
そう、問われて。少年は口を開き……しかし、今度はそこから零れおちるものはなかった。
「おれ、は……」
答えるべき言葉を探して、少年は頭の中を探る。最初は特に意識せず、けれど段々と必死に。

だって――そこには、何もなかったのだ。

「ショウくん? どうしたんだい?」
徐々に青ざめる顔色に気付いて、ラシュ・キートが怪訝そうに聞いてくる。それに応えるように、必死に、絞り出すように、この混乱を伝えるように、ショウは、告げた。

「おれ……どこから、来たんだ?」

「何?」
ラシュ・キートや黒髪の少女の反応も目に入らず、ショウはまるで自分自身に問いかけるように、茫然として、言った。



「おれは、誰だ?」











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2013.01.01