「記憶喪失?」
どこか面白がるようなグラファイトを、リクルがキッと睨みつけた。
「ちゃかさないでよ! 真面目な話なんだから」
「つってもな。どこのドラマだよ。行き倒れ拾ったら記憶喪失なんて。で? どうするんだ、ラシュ・キート?」
話を振られたラシュ・キートは。ずずっとリクルの入れた緑茶を飲み干して。
「仕方ないから、身元がわかるまでウチで面倒見ようと思うよ。……こら美羽、嫌な顔しない」
同じくテーブルについていたもう一人の少女、美羽を諭した。
「どうするのよ、こんな狭苦しい家で。まあ、居候の私が言うことじゃないけど」
遠慮なく顔を歪めている美羽の言葉に、ラシュ・キートは考えるように顎に手をかけた。
「寝る場所は僕の部屋の床を片付けよう。ま、ウチは貧乏だから、元気になったら彼にも働いてもらえばいいし。グラファイト、もう一人くらいアルバイトを採る気はないかい?」
グラファイトは、器用に片眉を跳ね上げた。グラファイトはラシュ・キートの古い友人で、この診療所の近所で託児所を経営している。ラシュ・キートの家の居候である美羽は、そこでアルバイトをしており、ラシュ・キートは、そこでショウも働かせたいと言っているのだ。
「まー……美羽でわかってると思うけど、薄給だからな」
「ないよりはマシだからね。自分の食いぶちは稼いでもらわないと」
「わーったよ。ただし、調べものの手数料分は引いとくぜ」
「すまない。よろしく頼むよ」
またグラファイトは随分と顔が広く、情報屋のようなこともやっている。だからラシュ・キートはグラファイトに、ショウの身元を調べるように頼むために診療所に呼んだのだった。
「んで、その少年は診察室か? ちょっと話、聞かせてもらうわ」
「ああ、あまり長くならないようにしてくれ。まだ回復しきってないからな」
軽く頷いて、グラファイトは席を立った。






「お前がショウか?」
診察室のベッドに寝転がっていたのは、随分と上等な見た目の少年だった。少年だと教えられていなかったら、少女だと思ったかもしれない。陽光を思わせる長めの金の髪、少し不健康に見えるほど白い陶磁器のような肌、グラファイトを見る瞳は、空の青をしている。
「そうみたいだけど、あんたは?」
「俺はグラファイト。ここの院長のダチだ。お前の身元調査を頼まれてな、ちょっと話聞くぜ」
「身元、調査……」
グラファイトは寝台脇の丸椅子に腰かけると、半身を起したショウと目を合わせた。
「だいたいのとこはラシュ・キートから聞いてる。お前、自分の名前しか覚えてないんだって?」
「ああ。……こうなっちまうと、本当に俺の名前なのかもあやしく思えてくるけどな」
「で? 他のことは? 覚えているところからでいい。簡単に聞かせてくれ」
問われるままに、ショウはぽつりぽつりと話しだした。知らない場所を、一人で歩いていたこと。たまたま見つけたトラックの荷台に潜り込んで眠ってしまい、気が付いたらこの街にいたこと。トラックの運転手に見つかり、怒鳴られて、慌てて逃げ出し――柄の悪い男たちに絡まれたこと。それは、ラシュ・キートが事前に聞いていたこととほとんど変わらなかった。それでもグラファイトは注意深く聞き、それを話すショウの表情を観察した。記憶喪失というのは狂言ではないらしく、ショウの様子からは過去のない自分に対する戸惑いが色濃く窺えた。
一通りショウの話を聞き終わって、グラファイトは腕組みをした。改めて話を聞いてみたところで、特に目新しい事実が出てくるわけでもなく。やはり地道に探すしかないかと考えたところで、グラファイトは不安そうに自分を見上げるショウの視線に気づいた。
「んな顔すんなって。ちゃんと俺がお前の家族、探してやっから」
すぐに見つかる保証などどこにもない。いわゆる気休めというやつだ。そして、そんな気休めに、少年はほんの少し安心したような表情を浮かべた。
「ほれ、もうちょい寝てろ。お前はとりあえず、自分の身体治すことだけ考えてろ」
「……うん。あの、……」
「ん? なんだ?」

「ありがとう……」

やはり、まだ体力が戻っていないのだろう。横になるとすぐ、ショウは寝息を立て始めた。その寝顔を見て、グラファイトは頭を掻いた。
「話は済んだみたいだね」
振り向くと、ラシュ・キートが診察室の戸口に立っていた。彼に手招きされて、グラファイトは診察室を出た。そのままラシュ・キートは、グラファイトを自室へと誘った。
「どうだい、ショウは?」
「まあ、目新しい情報はなかったな。しっかし、あいつ、擦れてねーな。どっかいいとこの坊ちゃんか?」
「さあね。それを調べるのが、君の仕事だろ? ……それより、もう一ついいかな」
「へいへい、人使いの荒いこって。何だ?」
「美羽にはもう話してあるんだが」
そう、前置きして。ラシュ・キートは語り始めた。ショウ自身もまだ気づいていない、ショウが失っているもう一つのものについて、を。それを聞くグラファイトの顔も、次第に厳しくなっていった。






「――!」

声にならない悲鳴を上げて、ショウは飛び起きた。汗がこめかみを伝う不快な感触がする。
どこかで誰かが、悲鳴を上げているような、大声で泣き叫んでいるような、そんな叫びを聴いた気がしたのだけれど。見まわしても、傍には誰もいない。家の中から人の気配はするので、きっと誰かはいるのだろうけど。もう一度、どうと寝ころんだ姿勢でふと見上げた窓から零れ落ちる陽の光に目を細め、ショウは身を起すと冷たい床に素足を降ろした。ぎしりと軋む床の音。歩く度に鳴るその音を聞くともなしに聞きながら、ショウは窓に近づいて、開け放った。
空の色は、もうどこか日暮れの紫を帯びていて。けれど上空の方ではまだ青く青く、それでも地平線に近い部分は淡いオレンジに染まっていた。

「――っ」

その色に、ショウはどうしてか、心のどこかを鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。

空というものは、こんなに――綺麗なのか、と。

瞬間、滲みそうになった視界を誤魔化すかのように、ショウは視線を街並みに移した。
ショウが今いる診療所は、少し高台にあるらしく、そこから見下ろすこの街の町並みは、随分複雑な造りをしているようだった。その眺めの中、この街の名物にショウの目が止まる。あの時計塔の上まで上がったら、その場所はきっと、空が綺麗に見えるだろうと。そんなことを、考えて。思った心、そのままに、ショウは。ただ時計塔の上まで行きたいという衝動のまま、本能の動きで、己の翼を羽ばたかせようと、した。

したはず、だった。

がくり、と。まるで階段から足を踏み外したかのような錯覚。崩れた態勢を、窓枠にかけた手が反射的に支える。飛び立つ、と思ったはずの身体は、床から少しも離れず。わけがわからず、自分の背を振り向いたショウが、そこに見たのは。

――何も、なかった。

広げた、と思ったはずの翼は背中にはなく。混乱する頭でショウは再び翼を出そうとしたが、視線の先には何も現れず。それどころか今までどうやって翼を出していたか、ついさっきどうやって羽ばたこうとしていたかすら、まるで霞の向こうに消えてしまったかのようで――。

「な、んで……」

思わず、絞り出すように出た声は不自然に掠れていた。
己の翼がなんだったのか、ショウの記憶からは、それすらも消えてしまっていた。



「――彼も、気付いたみたいだね」
階上の、ラシュ・キートの私室。階下の情景を実際に目にしたはずもないラシュ・キートが、そっと独り、呟いた。











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2013.01.01