朝の空気。安普請の薄い壁には、近所から聴こえるざわめきを遮断する力はない。遮る壁もない同じ家の中の騒ぎなら、伝わってくるのは当然のこと。 「チビとは何よ、チビとは!」 「うるせー! 俺が俺よりチビな奴をチビって言って何が悪い! チービチビチビ!」 「こんの、頭の中成長ゼロの身体だけ育った真性ガキにチビと言われる筋合いはないわよ!」 「んだと!?」 階段を軋ませながら降りてきた美羽は、聴こえてくる悪口雑言のやりとりに寝起きの不機嫌な顔をますます顰めた。この狭い家の、居間兼食堂兼台所に通じるドアを開けると、すでに朝食のテーブルに付いていたラシュ・キートが美羽に気付いてにっこり笑った。 「おはよう、美羽。朝からそんな怖い顔するものじゃないよ?」 「……おはよう。この顔は生まれつきよ、放っといて頂戴」 ラシュ・キートの軽口を受け流し、美羽は台所スペースに歩み寄った。 「おはよう。手伝うわよ」 声をかけると、台所で言い争っていた二人の片割れである銀髪の少女が振り返った。 「あ! 美羽、ちょっと聞いてよ、この馬鹿ったらね」 「馬鹿とはなんだよ! 美羽を味方にしようなんてずりいぞ!」 「……喧しい」 ぼそり、と。低く低く美羽が呟く。その呟きは、銀髪の少女と金髪の少年の怒声の間を縫って、部屋の中に響き渡り。少女も少年も、はっとしたように口を噤んだ。おそるおそる、美羽の表情を窺った二人は、次の瞬間には取ってつけたように明るい声を出した。 「あ、ええと、そうだ、ショウお皿並べておいて――じゃない、その前にテーブル拭いてね?」 「わ、わかった。ちょっと待ってろ」 そそくさと、布巾を持ってテーブルへと向かうショウの背中を横目に、美羽は改めてリクルの方に向き直る。 「で? 私はお皿並べればいいのかしら?」 「は、はい、お願いします……」 引き攣った顔で笑うリクルは置いておいて。美羽は食器棚に手を伸ばし、いつものお皿を人数分、取り出した。その枚数は、二か月前から一枚増えている。 ショウがこの診療所に引き取られてから、すでに二か月が過ぎていた。居候が増えてから、朝の光景は騒がしさを増した。朝に弱い美羽にとっては腹立たしい以外の何物でもないが、同居人その一である銀髪の少女――家主の養女であるリクルは随分と楽しそうで。それをにこにこと見守っている家主――ラシュ・キートもまた随分と楽しそうだ。まあ、ラシュ・キートに関しては腹の中で何をどう感じているかはわからないが。 ショウは、というと。暴行された怪我も癒え、衰弱していた体力も回復したものの、失った記憶に関してはまだ戻る兆しは見えていない。グラファイトの調査でも今のところ彼の身元はわかっていない。しかし、人間というのは強いもので、ショウもすでに今の自分の境遇に慣れたようだった。回復してからのショウは、よく笑い、よく怒り。外見からして美羽やリクルと同年代のはずなのだが、よく言えば年不相応に素直、悪く言えばリクルの言葉通りのガキ、といった性格を露わにしていた。それが彼本来の性格なのか、記憶を失くした影響で子供返りしているのかは不明だが、ショウの極上の外見とは随分とアンバランスであることは確かだった。 ともあれ、一人住人の増えた診療所には、美羽の不機嫌以外は今のところさしたる問題もなく。平穏、といえる日々を過ごしていた。 「時間大丈夫? 今日は早く行かなきゃいけないんじゃなかったっけ?」 「まだ平気。でも、ちょっと急いだ方がよさそうね。ショウ、私は先に支度してるから」 「あ、ちょっと待てよ!」 朝食を終えて席を立った美羽を追いかけるように、慌ててパンを飲み込んだショウも席を立つ。二人とも食べ終わった皿を手早く片付け、ぱたぱたと支度をすると玄関に向かった。その背にリクルとラシュ・キートが声をかける。 「いってらっしゃーい、気をつけてね!」 「いっておいで。しっかり稼いでくるんだよ」 ラシュ・キートのからかい混じりの声に、ショウがぎゃんと言い返し。けれど素直に「いってきます」と応えた声の後、美羽のそれほど大きくない声量の「いってきます」が続く。二人が出て行ったのを確認したリクルが、含み笑いでラシュ・キートを振り返った。 「ショウが来てから、美羽って丸くなったよね?」 そんなリクルにラシュ・キートもよく似た含み笑いを返したのは、すでに出かけた美羽のあずかり知らぬことだった。 美羽とショウの職場。それは、診療所から少し離れた場所にある、グラファイトが経営する託児所だ。グラファイトの住居も兼ねたそこは狭い敷地にたつ細長い四階建て。猫の額ほどの園庭が付いている。幼児といえる年齢の子供を働かせるほどには貧しくはないが、生活に余裕があるともいえないこの街で、親が働いている間に子供たちをほぼ無償で預かり、簡単な読み書き算術なども教えるこの託児所は、ラシュ・キートの診療所と同じく街の人間にとっては非常に頼られている存在だった。ここも診療所同様、ほぼボランティアで経営しているため、ショウたちの給料も雀の涙ほど。それでも何とか給料らしい給料が出るのは――グラファイトの副業から補填されているから。グラファイトは情報屋として得た金銭も全て、託児所の経営費に回しているらしい。あいつ絶対託児所のために情報屋やってるのよ、とは美羽の言。 まあ、それはさておき。 「おら、てめえらさっさと戻れ!」 「やだー、もっと遊ぶー」 「やだとかいうな、お前らに拒否権はない!」 ショウは現在、休み時間は終わったというのに未だ園庭を走り回っている子供たちを追いかけるのに必死だった。ショウがムキになって追いかければ追いかけるほど、おもしろがった子供たちは逃げ回るという悪循環に、悲しいかな、ショウは気付いていない。 「文句言ってないでさっさと戻って靴変えろ!」 「やーだーよー」 「わーい、逃げろー!」 ショウが怒鳴った途端、子供たちは一斉に翼を広げ、その場からぱたぱたと逃げ出す。鬼ごっこにはしゃぐ子供たちを、こちらは走って追いかけまわすショウ。けれど、やはり多勢に無勢。子供複数をショウ一人で追いかけるのには限界があった。 「おい美羽! お前も手伝え!」 ショウはぎんっと託児所のガラス戸のところで、こちらはおとなしく戻ってきた子供の世話を焼いている美羽を振り返った。 「こっちもこっちで忙しいのよ! 見てわかんないの?」 あっさりさっくりと一蹴。救いの手は得られなかった。結局、見かねたグラファイトが子供たちを見事な手並みで室内に誘導するまでの三分間、ショウは足と翼での勝負という不利な鬼ごっこを強いられたのだった。 ちょうど診療所の扉の札を『本日終了』に掛け替えていたリクルは、振り返って先にこちらに向かってくる三人の人影を認めた。美羽と、ショウと、グラファイトもいる。 「やだ、グラファイトの分もあるかしら……」 リクルはそう呟きながら頬に手を当てて――無意識に、ため息をついた。ついてからそれを意識して、小さく眉を顰める。 本当は、リクルは。もっと別な人影を、そこに期待していたのだ。しばらく前まで、たまに診療所に現れていたその人物は、最近ぱったりと姿を見せない。もともと気紛れが服を着て歩いているような人間だから、ここに来るよりも興味をそそられる出来事が他にあるとか、そういった理由なのだろうけれど。でも、その人物の姿を見られない、話ができないというだけで――リクルの心の底には、重く淀んだ澱が沈んでいく。グラファイトじゃない方がよかった。その澱の中から浮かび上がった思考を、リクルは慌てて振り払う。 神様、グラファイトじゃなきゃよかったのに、なんて思ってごめんなさい。心の中で、神に謝罪して。そんな僅かな間に、グラファイトたちは診療所に到着していた。 「よお、リクル。夕飯食わしてくれー」 「もう、来るなら来るって前もって言ってっていつも言ってるでしょ! しょうがないなあ」 目の前にやってきたグラファイトに、怒ったふりで返す。そうやって、どこか後ろめたい心を誤魔化しながら。「すぐにご飯にするけどちょっと待っててよね」と、リクルはグラファイトと、同居人たちを診療所――彼女の家の中へと誘った。
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