ことり、とカルテに文字を書き込んでいたペンを机の上に転がして。ラシュ・キートは診察室の中に入ってきたグラファイトを振り返った。
「またタダ飯食らいに来たのか?」
「ひでーな、情報持ってきてやったのに」
からかうように声をかけると、むくれたように笑って見せたグラファイトだったが。その名前の通りの紫黒色の瞳は、笑いとはほど遠い光を浮かべていた。

「――リクルたちは?」
「夕飯の準備だってさ。美羽とショウはその手伝い」

確かに薄い壁を通して、言い合っているらしいショウとリクルの声が聞こえてくる。それを確認してから、ラシュ・キートは回転式の椅子をくるりと回して、グラファイトと向き合った。

「何が、あった?」

ラシュ・キートの声音が変わる。グラファイトが持ってきた情報、それを抱えるグラファイトの纏う重苦しい感情を、彼は『読み取った』のだ。
「例の、事件だ。また新しい場所で起きたらしい」
「今度は、どこで」
グラファイトは、ここからそう遠くない町の名前を挙げる。ラシュ・キートの曇った顔を見ながら続けようとした刹那、ラシュ・キートの顔色が変わった。彼が何を『読み取った』かはわかっていたが――グラファイトは、言葉を止めることはできなかった。

「今度は、発狂者じゃねえ……“アレスズ”たちが、町を襲ったんだ。それも、狂ったとしか思えねえような奴らがな」

驚愕と、重い沈黙とが、その場に落ちた。



その事件が最初に起きたのは、ショウが保護される少し前のことだった。それは、彼らの住む町からは離れた、けれど同じような規模の小さな町で起きた。

住民の三分の一が狂死、三分の一が発狂、残りの住人は発狂した者に殺され、更に狂人たちはお互いを殺しあった。生存者、僅かに七名。彼らは今、とある病院に収監されている。
原因は今もって不明な上、すぐに政府による緘口令がしかれてしまい、この件は一般にはほとんど知られずにいる。グラファイトやラシュ・キートがこの事件を知っていたのは、彼らの並外れた情報網ゆえに。最初にこの情報が入ってきた時、彼らは謎めいたこの事件に不安や疑問はもったものの――深く関わる気はなかった。それは、その後の一、二週間、その町の近隣で十数人の発狂者――その誰もが、あまり評判のよろしくない、いわゆる不良、チンピラといった類の人間だった――が出た後も変わらなかった。その後、そういった発狂者はぴたりと消え、この件はこのまま風化していくのだと、二人はそう思っていた、否、日々の忙しさに紛れ、ほとんど忘れていた。

しかし。

“アレスズ”。その言葉は、二人にとってあまりに重過ぎるものだった。



「確かか、それは」
「ああ、この情報を持ってきた奴は、“アレスズ”については知らない。けど、外見的特徴からは、間違いなく」

“アレスズ”、それは軍神の名を冠する一流の戦闘集団にして政府直属の秘密部隊。グラファイトの元に入ってきた情報は、彼らが間違いなく“アレスズ”だということを示していた。すなわち、彼らの翼に刻まれた、尋常ではない出生を示す烙印を。

「研究所は――ラズリも羅刹も、聞いても何も答えやしない。関係はない、関わるな、だとよ」

かつての同胞たち、最近は連絡を取ることさえ稀な名前に、ラシュ・キートの目が厳しくなる。最後に彼らと直接会ったのはいつだったか。少なくとも、その内の片方とはほぼ一年、もう一人に至っては、五、六年は顔も見ていない。

このまま関わらずにいられたら、どんなに良かったか。

研究所――穏やかさとは無縁な環境にあるその場所、そこに今もいるかつての仲間。そこを離れ、彼らと離れ、生温い平和の中で暮らすことに、彼らはいつしか慣れ初めていた。いつしか、あの場所で過ごした日々は、遠いものになりかけていた。

「聞いても、今は無理だな」

時期を待とう。そう言って、ラシュ・キートは眼を逸らした。



「……そう、もう一つ。お前に依頼を預かってきた」

ぽつり、とグラファイトが落とした言葉に、ラシュ・キートが再び彼の方を見やる。

「局長から、お前に最初の件の患者の『診察』をして欲しいと」
「……ほお?」

ラシュ・キートは、しばらく探るようにグラファイトを見てから。

「詳しい話を聞かせてくれ」

すう、とその青玉色の瞳を細めた。











back next
top

2013.01.01