その日は、朝から少し普段と違う始まりを迎えた。ラシュ・キートが都会の大病院に出張するため、朝の支度はいつもより早く、かつ慌ただしく始まった。 これは本来ならあり得ないことだ。リクルとショウの手前、適当に誤魔化していたが、今のラシュ・キートはちっぽけな町のちっぽけな医院の知名度ゼロの医者。大病院から請われて出かける理由など、どこにもない。つまり、本来のラシュ・キートのことを知る人間が噛んでいると。そう踏んだ美羽は、この話が決まった時から手を替え品を替え、ラシュ・キートから今回の出張の理由を聞き出そうとしていたのだが。結果として、当日になってもラシュ・キートから真相を引きだすことはできなかった。 アソコが関わっているのなら、彼女のことだって聞けるかもしれないのに。 苛々、と。朝食に添えられた野菜をつつく美羽の横で、ラシュ・キートの支度以外はいつもの朝の光景が繰り広げられて――いるわけでもなかった。 「ショウ? あんた、どっか悪いの?」 「……あ? 別に、なんとも……」 心配そうなリクルにも、ショウはまるで上の空で。まるで何かに耳を澄ませるかのように、宙を見つめて。その様子は、いつも朝からうるさいショウの姿とはまるで違っていた。 「本当に大丈夫かい、ショウ? 具合でも悪いのか?」 支度もおおよそ済み、珍しくスーツなぞ着ているラシュ・キートも、そんなショウの様子を不審に思ったようで。テーブルの向こうから、ショウの顔を覗き込んだ。 「うん……」 ラシュ・キートには徹頭徹尾反抗的なショウが、それに対して言葉を探すような仕草を見せた。その様に、そこまでショウの調子が悪いとは思っていなかった美羽も、おや、と思う。 何か変だ。感じた違和感は。次にショウが放った内容で確信に変わる。 「歌、……聴こえねえ?」 一瞬、言葉の意味が取れなかった。それはどうやら、美羽だけではなかったようで。ラシュ・キートやリクルもぽかんとしている。 耳を澄ましても、美羽に聞こえるものといえば、薄い壁を通して聞こえる町が目覚め始める音。いろんな店の出荷や入荷の車が通り過ぎるエンジン音、人の走る音や、翼の羽音。周囲の家の、人々が話す声やテレビやラジオの音。気の早い子供たちが外で呼び合う声。 「聞き間違いじゃないの? 歌っぽいのなんて、聞こえないよ?」 「本当だって! ……マジで聴こえないのか?」 ラシュ・キートは耳をすませているようだったが。やがて顔をあげて、きっぱり言った。 「すまないけど、僕には歌らしきものは聞こえないな。他の何かじゃないのかい?」 「違う! マジで聴こえんだって、綺麗な歌!」 ショウはムキになったように反論してきたが。ふいに、その目が瞬いた。 「あ……? 聴こえなく、なった……」 ぽそり、と。自分が口に出していることにも気付いていないような様子でショウが呟く。そんなショウを見ていたラシュ・キートの表情がわずかに変わっていることに、美羽は気付いた。 「ショウ、聴こえたのはどんな歌だったんだい?」 ラシュ・キートの静かな問い。それは美羽にとって、久々に聞く声音だった。 「聴こえなかったんなら関係ねーだろ」 不貞腐れたようなショウには、ラシュ・キートの様子が変わったことは判らないだろう。おそらくは、リクルにも。 「関係なくはないよ。もし、誰にも聴こえない歌が君にだけ聴こえていたなら……それは、もしかしたら君の記憶の中から聴こえてきた、ということも考えられるだろう?」 ショウの表情が劇的に変わった。 「俺の、記憶……」 「どんな歌だったとか、どんな声だったとか、思いつくままで構わないから、言ってごらん」 優しく言うラシュ・キートに促され、ショウはぽつぽつと言葉を紡ぐ。 「歌は……知らない歌。昔からあるような歌で……ちょっと寂しくて」 さっきまで聴こえていたものを、一生懸命反芻しているような顔。そんなショウを、物珍しげにリクルが見ているのに美羽は気付いた。確かに、ショウがこんな顔をするのは初めて見た。 「綺麗な声でさ、なんか懐かしくて……還りたいって、そう言ってるみたいな、気がした」 ふうわりと。幸せそうにショウが微笑んだ。無心な、子供みたいな笑み。あまりにいつも違うその顔に、美羽は思わずリクルと目を見合わせてしまった。 「そういう歌詞だったのか?」 ゆっくりと、ラシュ・キートが口を挟んだ。柔らかい声音は、まるで暗示のようで。それが気になって、美羽はラシュ・キートの方をチラッと見た。 ラシュ・キートの目は。笑っていなかった。 美羽の背筋が凍る。ショウが今話しているのは、一体なんなんだ? 「歌詞じゃなくて、声が……。歌の裏っ側で、そんなこと考えてるみたいで」 がちゃん。茶碗の落ちる音に、ショウの言葉が遮られる。視線を向けたその先には、慌てて茶碗を拾うリクルの姿があった。 「ご……っごめん、うっかり、落としちゃって……」 そう言って、茶碗が欠けていないか調べるリクルの姿がどことなく怯えているように見えたのは。多分、美羽の気のせいではなかった。リクルは変なところで敏感だから。 「怪我はないか、リクル?」 「どんくせーな、お前」 気遣うラシュ・キートと、からかうようなショウ。さっきまでの張り詰めた空気は、ものの見事に崩れ去っている。それがいいことか悪いことか、美羽には判らなかったけど。 「う、うるさい! 皿洗い頼んだ時にお皿五枚割ってくれたような奴に言われたかないわよ!」 「いつの話だよ、それは!」 「つい先月よ!」 あっという間に始まってしまった言い争いに、ラシュ・キートが苦笑いしている。ふいに、その目が美羽の方を向く気配がした。 「私、先に行くから」 その視線を避けるように、美羽は食べ終わった食器を持って立ち上がった。「あ、おい待てよ」とショウが慌ててまだ残っている食事をたいらげようとするのを横目に台所に立ち、手早く食器を片づける。どうしてだろう、今はこの場にいたくなかった。
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