ショウのことは欠片も待たずに、美羽はいつもより早い時間に託児所のドアを開いた。当然ながらアルバイトとはいえ職員である美羽は子供よりも早く来ていなくてはならない。場合によっては開園時間よりも前から子供を預かることもある、そういう時は早番だ。とはいえ今日はそういう予定もなく。まだ静かな託児所の廊下を、美羽は洗面所に向かって歩いていた。
うっかり、髪を結ってくるのを忘れたのだ。美羽の髪は長い。腰のすぐ上まで届く髪はほとんど黒に見えるが、正確には深い暗赤色。こういう場所で働いている以上、長い髪にはあまりメリットはない。衛生的な問題もあるが、子供たちに引っ張ったり弄られたりするからだ。何度か切ろうと考えなかったでもないが――美羽の、元保護者が。この長い髪を好いてくれていた、たったそれだけの理由で、美羽の鋏を取る手はいつも止まってしまう。
洗面所の鏡の前、髪を整え少し高いところで一つに纏めたところで、美羽は髪留めも忘れたことに気付いた。仕方なく、手首に巻いていた紐を外し、それでまとめた髪を結わえる。

紐というのは、少し違うのかもしれない。旅好きで珍しいもの好きな美羽の元保護者が随分昔にくれたこれは、どこぞのお守りであるらしい。約1cm幅に、色とりどりの糸で編まれた、どちらかというとリボンに近い形をしている。本来はさっきまで美羽がしていたように、腕につけておくものらしく、切れた時に願いが叶うとか。でも、それよりも様々な色がうまく混ざっているのが美羽は気に入っていて。おそらく、美羽の好みを考えて選んでくれたのであろうこの紐は、密かに美羽の宝物、だ。

鏡でおかしいところがないか確認して、ほっと一息ついた瞬間だった。



美羽の脳裏に、“あの時”の光景が映った。



まるで映像記録を再生するみたいに鮮やかに、吐き気がするほど生々しく。

咄嗟にきつく目を瞑る。

「違う、違う、違う、ちがう……」

口の中で何度も呟く。
そう、違う。今はあの時じゃない。私がいるのはあそこじゃない。



暴れ出す記憶をなんとか奥に押し込めて。
鏡に向かう前より疲れた気持ちで、美羽は目を開けた。

大丈夫。もう思い出さない。

心の中で、自分自身に言い聞かせると、美羽は洗面所を後にした。






玄関に戻ると、いつの間に来ていたのか、ショウが子供にまとわりつかれていた。始業時間にはまだ早いが、早起き元気な子供というのはどこにでもいるもので。そんな気の早い子供たちが楽しそうにたかってくるのを懸命に相手している。
「あ、美羽! どこ行ってたんだよ」
「別に。どこでもいいでしょ」
「まあ、いいけど。お前、ちょっとグラファイトんとこ行ってこい。つかついでにアイツ呼んできてくれ、そろそろ時間だし」
「……なんで」
「ラシュ・キートがお前のこと心配してて、んでついてきたんだよ、ここまで。朝、様子変だったからって。今、グラファイトんとこいるから、お前みつけたら来るように言えってさ――おい、頭の上に乗んな! 登ろうとすんな、俺は山じゃねえ!」
背中からよじ登る子供を、怪我をさせずに振り落とそうと必死になっているショウをほんの数瞬、じっと見て。美羽は踵を返すとグラファイトのもと――園長室である小部屋に向かった。



がちゃり。錆びついたノブと蝶つがいの立てる音に、部屋の中にいた二人が振り向いた。
「ああ、来たね」
いつもの温和な雰囲気と、いつもと違うスーツ姿に身を包んだラシュ・キート。と、なんだか複雑そうな顔を隠そうともしていないグラファイト。
「何の用? 私の心配なんか、しちゃいないくせに」
無愛想に言う美羽に、ラシュ・キートはくつくつと喉の奥で笑う。
「気になっているんだろ? 今朝のこと」
笑顔の中ですっと細められた眼。美羽はまた、朝と同じ寒気が背筋を走るのを感じた。動揺を押し隠しながら、平静を装いながら、ラシュ・キートの真意を引きだそうと試みる。
「なんだったのよ、アレ。あんたどうせ『聴いて』たんでしょう?」

物理的には聴こえない音。でも、それが心に響く音ならば。彼は『聴く』ことができるのだから。それが、この男に与えられた能力なのだから。

「つーかさあ、それマジなのかよ? 確かにすげぇ手掛かりにはなるけどさ」
グラファイトががしがしと頭を掻く。ラシュ・キートほどではないものの、彼もまた普段は余裕の表情を崩さない。そんなグラファイトの珍しい様子が、却って美羽の不安を煽る。
「何よ。そんなとんでもないものが聴こえたの?」
「まあね。じゃ、頼んだからな、グラファイト。美羽もちゃんと働くんだぞ」
結局、肝心のところは全然教えてくれないまま、ラシュ・キートはにっこり笑ってドアに向かう。こうなると、もう後はグラファイトから聞き出すしかない。ラシュ・キートが正解をはぐらかすのは、あまりにもいつものことだから。

と、思った美羽だったが。

半分に開けたドアに片手を添え、ラシュ・キートが振り向いた。何かを含んだような笑顔で。



「今時、古代聖歌の資料が残っている場所なんて限られているからね。これでかなり絞り込めるはずだよ」



ラシュ・キートの言葉が、美羽の中に落ちてくる。そのあまりに意外な内容に、そこにしばしのタイムラグが生まれて。我に返った時には、扉はもうほとんど閉ざされかけていて。
ぎいい、という音を残して。爆弾を放り込むだけ放り込んで、ラシュ・キートは出て行った。

「な? とんでもないだろ、こりゃ」

グラファイトが、ため息まじりに同意を求めてきたけれど。とんでもない、というどころじゃない。



古代聖歌。昔、昔、そのさらに大昔。まだ、人間が翼を持たなかった時代、世界の三大宗教の一つに数えられた宗教の賛歌。今でも細く残るその宗教には、時代と共に新しい聖歌が作られ、古代聖歌は忘れ去られていった、けれど。

残るところには残っているのだ、例えば、美羽やグラファイト、ラシュ・キートが生まれた――あの場所、とか。

「ショウって一体、何者なのよ……?」

答えてくれる人はいない。でも。
何故だろう、判ってしまうのが、美羽は恐ろしくて堪らなかった。











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2013.01.01