いつもは鍵の掛かっている階段横の小さいドア。てっきり物置か何かかと思っていた扉を開けた先には、下へ下へ続く細い階段。グラファイトが壁を探ると、ぱちっという音とともに薄ぼんやりとした明かりが点る。最後にショウの後ろで、美羽が内側から扉の鍵をかけた。
細い階段は、ショウの予想よりも長く長く続いていて。階段の先のもう一つのドアの向こうにあったのは、広いような狭いような部屋。部屋の面積自体は多分大きいのだろうけれど、壊れた遊具やら何やらが所狭しと置いてあるせいで、なんだか狭い印象を受ける、そんな部屋。
急にどっと疲れたように体が重くなって。ショウは階段近くの壁に寄りかかるようにして座り込んだ。そのまましばらく俯いていると、人の気配が近付いてくるのを感じて。顔を上げると、リクルがすぐ隣に腰を下ろそうとしているところだった。

「あたしたち、どうなっちゃうの?」

ぽつり、呟かれた言葉。おそらくは返答を求めてはいない、リクルの心から零れた気持ち。リクルも、心細いし不安なのだろう。こんな、わけのわからない状態に放り込まれて。しかも、こんな時に限って彼女の養父は留守にしている。
「よし、全員いるな? いいか、さっき先生が言ったことを忘れずに、みんなここでおとなしくしてるんだ。俺がいいと言うまで、外に出るんじゃないぞ」
グラファイトの台詞を、子供たちは大人しく聞いていた。ふうと一息ついたショウの耳に、部屋の隅に移動したグラファイトと美羽のひそめた話声が届いた。

「……研究所に回線が繋がらない。お前の端末は?」
「全然だめ。ったく、なんでアレスズが……」

アレスズ。さっき美羽が、あの黒い服の連中を見て口走った名前。美羽とグラファイトは、アレがなんなのか、知っているのか?

「……おい」

立ち上がって、ショウは。二人の会話に強引に――でも、なるべく子供たちを刺激しないように、静かに――割り込んだ。

「お前ら、アレがなんなのか知ってんのか?」

美羽が横目でショウを見て、すぐにその目をそらした。
「知らない」
「嘘つけ、聞こえたぞ、『アレスズ』ってなんなんだよ?」
「知らないって、言ってんでしょ!?」
美羽が、声を荒げる。びくっとした子供たちがこっちを見るのがわかる。

「……ごめん」

疲れたような声で、美羽は言った。子供たちに、聞こえたか聞こえないくらいの声で。子供たちは、相変わらずこっちを気にしながら、でも、やっぱり騒ぎ出すことはなかった。

少しだけ、ショウの中に違和感が生まれる。いくらなんでも、大人しすぎないだろうか。いくら静かにしていないと危険だからといって、彼らはこんなに、聴き分けがよかっただろうか。

もう、本当にいろいろとわけがわからなすぎて。思わず漏れた声は、ショウ自身、情けなくなるくらいに力ないものだった。
「なんか知ってんなら、説明してくれよ……」

「さて、な。俺たちも、何が起こってんのか、さっぱりだ」

静かにグラファイトが言った。静かな――違う、いっそ冷たいと言っていいような声。
初めて聞くそんな声音に、ショウはのろのろと顔を上げた。見上げた先の、グラファイトの眼は。声と同じ、どこか冷たく、静かで、静かな、なのに煮えたぎるような色を宿していた。

「でも、ラシュ・キートがいない日、それも、お前の記憶の手がかりがわかった日にこんなことが起こるなんて、偶然じゃないと思うのは、俺の思い込みか?」

聞こえた内容に、ショウは無意識に目を見開いた。

「俺の方こそ、聞きたいよ。お前は一体、なんなんだ?」

しばしの沈黙。そして逸らされる視線。そのまま背中を向けて、グラファイトは階段に向かって歩き出した。
「上の様子を見てくる。美羽、後は頼むからな」
すぐに階段を上がる足音が聞こえてきて。それがどんどん遠ざかって、やがて聞こえなくなるのを、ショウはぼんやりと感じていた。頭の中では、さっきのグラファイトの視線と声とが繰り返し繰り返し蘇ってくる。

ショウの記憶の手がかり、それがわかった日にコレが起こったと、グラファイトはそう言った。それは偶然ではないのではないか、と。

偶然ではない、だとしたら。だとしたら、どうしてこんなことが起こっている?

急に思い出す。さっき嗅いだ血の匂い。ヒトの下から流れる赫いイロ。






ぬるりとした手触り。
赫く染まる手。
すぐ側から立ち上る、血の、におい。






「ショウ?」
誰かに肩を掴まれて、激しく揺さ振られて。ショウは我に返った。
「ちょっと、どうしたの?」
「リク、ル?」
「大丈夫? 顔、真っ青よ?」
そう言って、リクルの青い目が俺を覗き込む。その青に、何か――誰かが被る。

そう、前にもこんなことがあった。あの時ショウを見ていたのは。あの青は、もっと――。

「――ッ!」

「ちょ、ショウ!?」
「何、ショウ、どうしたの?」
頭が、割れるように痛む。必死で抑えていなければ、弾け飛んでしまいそうな痛み。頭を抱えて苦しみだしたショウに、リクルも美羽も慌てて声をかける。
「……るせ、頭、響く……」
なんとか返事を搾り出すものの、それは妙に擦れていた。しばらく、その痛みに耐えて。頭痛は来た時と同じに、あっという間に引いていった。恐る恐る抱えていた手を離しても、痛みの残滓も感じられず。ただ、どこか気持ち悪い、淀んだような感覚だけが残っていた。

「ワリ、もう大丈夫だ」

そんな気分でもなかったけれど、強がるようにほんの少し笑ってみせると、リクルと美羽があからさまにほっとした顔を見せる。表情ついでに気も緩んだらしいリクルが、さっきショウが考えたことそのままに呟いた。
「ほんと、なんでこんな時にキートいないのよ……」
途方にくれた、こどものような声。そんなリクルに何も返すことができず、ショウはまた座り込んでぼうっと宙を見た。リクルも美羽も、ショウと同じように座り込む。



光の射さない地下室。明かりといえば、蛍光灯の明かりだけで。まだ午後も早いはずなのに、ここだけはまるで夜のようで。上の騒ぎから無関係のような錯覚にすら、陥る。けれど、上で見た光景は、紛れもない事実で、現実で。
今頃、上ではどんな騒ぎになっているのか、考えたくもないけれど。グラファイトは、まだ帰ってこなくて、何もわからない状況に、ショウは息苦しさを覚える。

きっと上では、まだたくさん血が流れて、誰かが悲鳴をあげて。そんなひどいことが、続いているだろうに。なのに、自分は。こんな安全なところで、匿われて。

そんなことでいいのか? 自問自答して。ショウは決めた。

「俺も、上の様子、見てくる」
「ばか、ダメに決まってるでしょ」
即答、で。返してきた美羽に、ショウは食ってかかる。
「なんでだよ、上、どうなってんのかここじゃ全然わかんないし。すぐ戻ってくるから」
「だめったらだめ。死にたいの?」
冷たい――さっきのグラファイトと少し似た、奥に何かを押さえつけたような、美羽の声。
「でも」

「今、外に出るのは危険すぎるのよ。あんたみたいなただのガキが一人で行ったら、間違いなく殺される」

ショウの言葉を遮るように、美羽はそこまで一気に言って、いらいらと結んだ髪の先をいじる。蛍光灯に照らされて、赤っぽい色に反射する黒い髪。白い指先に、その色は妙に映えて。

「私は、あんたを含めてここの子たち、守らなきゃいけない。グラファイトが上に行ってる以上、それは私の役目よ。だから、あんたたちにはまとまっててもらった方が都合がいいの」

その時にショウを見た美羽の目は。いつもの冷めた視線でも、美羽言うところの守るモノを見る視線でもないと。ショウは気付いた。



それは、何か得体の知れないモノを見る目。



今朝から何度か感じていた、美羽のものいいたげな視線。グラファイトがショウに言ったのと同じことを、多分美羽も感じているのだろう。ショウは、一体、何者なのかと。 だけど。美羽の言っていることは、わかる。だけど。
「なんで俺がお前に守られなきゃなんないんだよ。俺、男だぞ。普通、男が女を守るもんだろ?」
「今が普通じゃないってことくらいわかりなさいよ、この大馬鹿!」
「普通じゃないなんてわかってる!」

「わかってない!」

いつの間にか、お互いに大声を出していたことに気付いて、二人は同時に黙り込んだ。
そこに生まれる、一瞬の空白。

「二人とも、っ」

そこに割り込んできたのは、今にも泣きそうなリクルの声。

「みんな、怖がってる、今そんな、喧嘩してる場合じゃないでしょう」

周囲を見回すと、リクルを筆頭にあっちこっちで泣き出しそうな顔、顔、顔。

「っと、悪い……」

「黙って」

謝ろうとしたショウを、美羽が遮った。またちょっとむっとして美羽を見る、と。

「美羽?」

ぴん、と音がしそうに張り詰めた美羽の横顔。その視線は階段の方に固定されている。
「黙って。みんなを、物陰に隠れさせて」
いやに大きく感じた美羽の声は、きっと実際にはとても小さかったのだろうけれど。静まり返った部屋にはよく響いた。ショウとリクルは、無言で子供たちを部屋の奥の方、遊具の陰とかに引っ張り込む。美羽は階段のすぐ側の壁に張り付いて、上の様子を窺う。その姿にショウは今日何度目かの違和感を覚えた。なんというか隙がないのだ。まるで、こんな状況に慣れているかのような……。

息を殺した、シンとした空気の中。今度はショウたちの耳にも、美羽の聞いた音が届いた。



ガツン
ガツン



階段を降りる靴の音。グラファイトが戻ってきたのかと一瞬思ったが、だとすると美羽がこんなに警戒するはずがない。
少し離れたところにいるリクルが、口元に手をあててぎゅっと目を閉じているのが見えた。叫び出したいのを必死で堪えているのが見ていてわかる。ここでまた、さっきと同じ違和感。リクルだけでなく、周囲の子供たちはがたがた震えていたり、俺やリクルにしがみついていたり、お互いに抱き合っていたり、とにかく全員、ひたすらに怯えているように見えるのに。

叫び出しそう、あるいは叫びかけている子供は、一人もいない。

いくら危険だからといっても、いくらなんでも、変、じゃないのか?



と、一瞬、階段を降りてくる音が止まり。そして。



連続する鈍い音と共にドアが吹き飛んだ。

爆薬か? それとも銃でも使ったのか?

わからないけど、次の瞬間には美羽が。

もうもうと起こる砂埃、その向うの人影。

その相手に向かって、美羽が手を差し伸べたように、見えた。

そして、差し伸べた先、人影が、埃の中から飛び出してきた。



「美羽!」



叫んだのは、ショウだったのか、リクルだったのか。



急に、部屋の温度が冷えた。
差し伸べられた美羽の手、その先から、すごい勢いの風が吹き出したように見えた。

風――いや、それは吹雪。

飛び出してきた人影――黒尽くめの服の男が、不協和音のような悲鳴をあげて吹っ飛ぶ。



そして、ショウたちは見た。



美羽の背中に広がる真っ白な蝶の翅――無残に千切れた、その右翅を。











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2013.01.01