病院の白い壁に囲まれた白い廊下を、ラシュ・キートは歩いていた。一定の間隔で並ぶ扉の覗き窓には、どれも鉄格子が嵌められている。ふと、ラシュ・キートはその歩みを止めた。視線の先には、壁に寄りかかった一人の女性。服装からして医者ではなく、かといって見舞い客というわけでもない。この病棟の来る見舞い客は、ほとんどいない。 いや、正確に言うなら、見舞いを許可される人間がほとんどいないのだ。 ラシュ・キートは再び歩き出した。女性の前まで来て、しかしそのまま通り過ぎる。少しの間を置いて女性も歩き出し。ラシュ・キートに並ぶと、口を開いた。 「まるで牢獄のようね、ここは」 彼女の言葉を、ラシュ・キートは小さく鼻で笑った。 「当たり前だろ? 建前はどうであれ、表沙汰にできないモノを閉じ込めているあたり、ここは立派な牢獄だ。マスコミに緘口令を敷くところといい、そんなにやばいのか? 例の事件は」 例の事件、つまりは各地で発狂者が続出した事件。この病棟に隔離されているのは、その事件の被害者――つまりは発狂者――たちなのだ。 対する女性は、同調とも嘲笑ともつかない笑みを一瞬だけ浮かべた。そのまま何も言わずに歩き続ける彼女を、ラシュ・キートはちらりと見つめた。 整った顔立ちと、すらりとした肢体。身に纏うシンプルなスーツは、見る者が見れば最高級の素材によるものだとわかる。腰まである、一見漆黒の長い髪も、きちんと整えられている。そして、手首には細い、メタリックな輝きの腕輪。彼の隣を歩くその姿は、どこぞのお偉方の秘書といった風情だが、それがあながち外れでもないこと、けれど一方では大きく外れていることも彼はよく知っていた。 そのまま、しばらくはお互いに何も言わずに歩を進める。 「たまには遊びに来たらどうだ? あの子も会いたがってるし、お前だって……」 口を開いたのは、今度はラシュ・キートだった。その言葉に彼女は、今度ははっきりとした笑みを浮かべる。はっきりとした、自嘲の笑みを。 「会えるわけ、ないわよ。お互いに傷を抉るだけ。あの子にそんな思いはさせたくない」 ある程度は予想していた答えなので、ラシュ・キートもそれ以上は言わなかった。その代わりに、変わらない彼女の態度に苦笑してみせる。 「ほんと、過保護というか、なんというか……だな、お前」 「あら、それはお互いさまなんじゃなくて?」 しかし、そうして笑った次の瞬間、彼女はまた表情を曇らせて俯いた。 「……元気に、やってる?」 誰が、とは言わない。わかりきっていることだから。 「ああ、最近は、特に。新しい『友達』もできてね、毎日元気に喧嘩してるよ」 「……そう」 友達。話題の少女がこの台詞を聞いたら盛大に顔を顰めるのだろうが、そんなことをはおくびにも出さずに、ラシュ・キートはのほほんと言い切った。とはいえ、彼女もラシュ・キートの性格の悪さとは付き合いが長いので、その言葉をいまいち信用できないような、それでもやっぱり安心したような、複雑な表情を浮かべた。 「……まあ、一応信用しておくけど。でも、あんまり苛めないでね、あの子のこと」 「なら。僕が彼女を苛めてないかどうか、見張りに来ればいいじゃないか」 ため息交じりの彼女の言葉に、ラシュ・キートは真っ直ぐに彼女を見つめて言い放った。 彼女は、普通の人間なら気付かないほど僅かに目を見張り……そして、どこか傷ついたような表情を浮かべた。 「なあに? 今日はやけにしつこいわね」 呆れたような声と表情。今、そこに隠されたものは何だったのか、注意深くさぐるようなラシュ・キートに、彼女は静かに微笑んだ。 「そうね、そのうち。時間が空いたら。そうしたら、お邪魔させて頂くかも、ね」 すでに二人は、普通病棟との間の、留置場のそれにも似た扉の前に来ていた。二人の姿を認めた警備員が、隔離病棟と外界を隔てる鍵を開く。その扉をくぐると、途端に戻ってくる人のざわめき。病院内とはいえ、それでも先ほどまでいた場所とは比べものにならないほどの喧騒。 「この後、何か予定でも? ないなら、たまには一緒にお茶でもどうだ?」 ラシュ・キートは、にっこりと問い掛けた。 「いいわね。でも、ごめんなさい。これから『大公』のところに行かなくちゃならないの」 彼女もまたにっこりと微笑みながら、けれど拒絶の言葉を紡ぐ。お互いに、笑顔の裏で相手が考えていることを探ろうとして。それもまた、お互い承知の上。 「そうか、なら仕方ないな。……でも、それは、元首の命令か?」 ふっと、彼女の顔から表情が消えた。無表情という名の表情は、彼女の内にあるラシュ・キートが必要としている情報は何一つ読み取らせない。 「……悪かったな、引き止めて。『大公』によろしくお伝えしておいてくれ」 これ以上の詮索は無駄だと判断して、ラシュ・キートは短い別れの言葉とともに踵を返した。 「……ラシュ・キート!」 呼び止められ、振り返る。その先にあった彼女の顔。何かを言わなければならないという想いと、それを言ってはならないと厳しく戒める想いがせめぎ合った、複雑な表情。 「どうした? ラズリ」 名前を呼ぶ。その表情の中に、自分の求めていた情報があるとわかったから。 しかしラズリは、ふっと視線をそらし俯いた。再び顔を上げた時、そこにあったのは何かを隠した笑顔だけ。 「いえ、何でもないわ。私も早く行かないと、『大公』をお待たせしちゃうわね」 不自然なところなど何もない、鮮やかな笑顔。ラシュ・キートが求めていたものは、もう見出すことはできない。 「またね、ラシュ・キート。……あの子をよろしく」 「わかっているさ、ラズリ。また、近いうちにでも」 去っていく彼女のことを、ラシュ・キートは引き止めなかった。今度こそ、遠ざかっていく背中に、もう聞こえないとはわかっていながら、ラシュ・キートは低く低く呟いた。 「中和装置まで作動させて、そうまでして、何を隠してるんだ?」 もう見えなくなったかつての仲間。同じように、かつてともにあった親友が脳裏に浮かぶ。 親友。戦友。仲間。肉親。そして――おそらくショウと、深い関わりを持っている存在。 もし、ショウがあそこと繋がりがあるのなら、ショウの記憶喪失には必ず『彼』が関わっている。ラシュ・キートはそう確信していた。ショウの記憶喪失は、人為的なものだ。そんなことができる人間――条件がぴたりと当てはまる、唯一の存在。 「何を考えているんだ? 羅刹……」 久しぶりに口にした、苦い思い出と直結した名前。その声は小さすぎて、誰に届くこともなく、病院のざわめきに紛れ、あっという間に消え去る。 その時だった。 ラシュ・キートのスーツのポケットの中。彼の携帯端末が、鳴動を始めたのは。
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