近付いてくる足音と、あからさまな殺気。こうして『敵』を待ち受けるのは久しぶりで。嫌な、でもかつては慣れたものだった緊張感が、その足音を待ちうける美羽の背筋を走る。

不意に、足音が止まった。

――来る。

美羽の予感と、マシンガンの銃声はほぼ同時だった。
頭で考えるよりも先に体が動く。銃弾を撃ち尽くした後の一瞬の隙。そこを、つく。『敵』に向かって、手を差し伸べ、意識を研ぎ澄ます。狙いを定める。
久しぶりのはずなのに、意識は苦労もしないで、『力』の方向性を決定し。

美羽は、ソレを放った。

瞬時に周囲の温度が下がるのを感じる。心地よい冷気。懐かしい感覚。手加減などする気もなかったから、力を放つ勢いのまま、美羽の背中に翅が広がった。
吹雪に吹き飛ばされた敵――黒づくめの男が、潰れたような叫び声を上げる。続いて聞こえた激突音は、おそらく壁にぶつかった音。
美羽はすぐに階段の上へと意識を戻した。続く気配は今のところないが、この男が入ってきたということは、あの見つかりにくいはずのドアが見つかってしまったということ。開きっぱなしになっているか、下手をすればドア自体が破壊されてしまっている可能性も高い。とにかく一度確認に行かなければと、そう決めたところで。

「美羽、お前……」

考えに没頭していた意識が現実に引き戻された。振り向くと、ショウの唖然とした……それでも、どこか心配そうな顔が、目の前にあった。

「お前、その翅……」

ああ、と美羽は気付く。ショウに自分の翅を見せるのは、初めてだった。ショウだけじゃない、遠巻きに、怯えたようにこちらを伺う託児所の子供たちにも。

千切れてしまった、美羽の右翅。

「気にしないで。昔の事故よ」
そう、軽く、あくまで軽くを装って、そっけなく答える。



美羽が翅を失ったのは、もう一年前のことになる。確かにアレは、事故といえるものだった。いや、事故でなければならなかった。そういう扱いにならなければ、美羽は今、ここにはいられなかっただろう。その件をきっかけにして、美羽はラシュ・キートのもとに預けられることになったのだ。

もう二度と還ってこない右翅を抱えて。

翅――翅に限らず、背に生える翼、羽を傷つけるということは、その人間の命そのものを傷つけるに等しい。傷ならば、まだ治る可能性はわずかながらにある。しかし、一度失われた翼に、再生はあり得ない。そして、翼が傷つけば――その分、寿命も縮まるのだ。因果関係は解明されていない、けれど長い歴史が証明してきた事実。

過去の記憶を失っているとはいえ、ショウがそれを知らないはずがない。今、美羽の目の前にある泣きそうな顔がその証拠だろう。そのショウの顔から目を逸らし、美羽はちらりと、リクルの方を伺った。リクルは何も言わなかった。ただ、心配そうに美羽を見ている。

そう。初めて美羽がリクルに会った時、初めて美羽の翅を見た時も、リクルは何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ、泣きそうに美羽を見ただけだった。当時の美羽には、それがありがたかった。何も聞かれなければ、何も言わなくていい。翅を失くした経緯は、リクルにはとても説明できないものだったから。



ショウは、何か言いたそうに口を開き、また閉じた。子供たちも、恐る恐る美羽を見ているだけ。誰も何も言わない。気まずい沈黙。
「私、上に見てくる。今のヤツがドア壊しただろうし、グラファイトのことも気になるし」
それだけ言って、美羽は逃げるように背を向けた。今は、自分はここにいない方がいいだろう、そう思った。いても子供たちを――リクルと、ショウも――怯えさせるだけ、だ。
そのまま階段を上ろうとした美羽の腕を、がしっと掴む手があった。

「待てよ! 俺も行く」

「……はあ!?」

ショウの言葉に、美羽は目を剥いた。どうしてそういう結論に行きつくのかがわからない。

「あんたもさっきのヤツ見たでしょ? 足手纏いなのよ、付いてこられると!」

少し前の、さっきの男が来る前までも、ショウは上に行くと騒いでいた。だけど、さっきの男を、あのマシンガンでの攻撃を見たのだから、さすがに自分の無力さを思い知っただろうと思ったのに。
そこまで考えて、美羽は内心で首を振る。ショウは、もしかしたら『無力』なんかではないのかもしれない。もし、本当にショウが『あの場所』と関わっている存在ならば。

でも、それでも。『今』のショウは、美羽の足手纏いにしか、ならない。

「ここにいてよ、……頼むから」

我ながら、情けない声、情けない台詞だと美羽は自嘲する。厄介事は嫌いで、面倒くさいことも嫌いで。美羽にとって、ショウを連れて行くのは、まさにその両方に当たる。だから。

「だって、あんた……」

リクルや子供たち、他の誰にも聞こえないように声を落とす。
ラシュ・キートはすでに、美羽とグラファイトには教えてしまっている、ショウの隠し事。



「だって、あんた、自分の『翼』を忘れちゃってるんでしょ?」



びくりとした体と、大きく開かれた目。それがショウの驚愕の大きさを表していた。

「なん――っで、そのこと……っ」

「馬鹿ね。ラシュ・キートは医者なのよ? それくらいわかるわ」

それは半分本当で、半分は嘘だ。確かに医者ならわかるのかもしれない。けれど、ラシュ・キートがショウの翼のことを知ったのは、もっと別の方法だったから。

「そんな状態で、上でさっきのみたいなヤツに会ったらどうするの? 走って逃げるの?」

逃げ切れるわけない。そんな含みを持たせた美羽の言葉に、ショウがぎり、と歯ぎしりする。

「とにかく、足手纏いは私にはいらない。それに、あんたにはここで、リクルたちを守ってもらわなきゃなんないんだから」

これもまた、前半だけが美羽の本音だ。もしも上の奴らがここに気付いたら、ショウもリクルも子供たちも、皆殺し、だ。だから美羽は、ここを奴らから護らなければならない。

「わかったわね? ここを、頼んだわよ」

言い置いて、美羽は倒れた男の襟首を掴むと、階段を上がっていった。ずるずる、ごとごと、と。人間を引き摺る音と共に。



ショウは、追ってはこなかった。






上の状態は、美羽が予想したほどひどくはなかった。それでも、ところどころに見える血痕や、銃痕。そして倒れている――死体。引き摺ってきた男はその辺に放り出して。アレスズのものであるその死体が知った顔ではないことを確認してから、美羽は次に壁の銃痕を調べた。やや特徴のあるその痕は、記憶にあるグラファイト愛用の銃によるものと同じだった。
周囲に人影がないことを確認し、美羽は背後を振り返った。今しがた上ってきた階段に繋がるドアは、先ほどの男が無理矢理こじ開けたらしく壊れてしまっていた。このままにしておけば、またアレスズたちに見つかるのは免れられないだろう。

仕方ない。

美羽は小さく舌打ちして、ドアに向かって意識を集中した。
力の種類のイメージと、方向性のイメージ。視覚や触覚、筋肉の動かし方と同レベルで体に染み付いた力の使い方。長いこと使っていなかったにも関わらず、能力は美羽の意図通り、忠実に働いた。目の前のドア、その周りの壁がみるみるうちに氷の壁に包まれる。

これが、美羽の能力。大気中の水分を氷結させ、モノを凍らせるチカラ。先刻、アレスズの一人を倒した吹雪は、この力の応用だ。

氷壁に包まれたドアを確認して、美羽は小さく息を吐く。ちょっとやそっとの力では、美羽の氷壁は破れない。これで、万が一にアレスズがまたこのドアをみつけたとしても、あるいはショウが出てこようとしても、入ることも出ることもできない。
次は美羽自身がどうするか、だ。このドアを封印した以上、下には戻れない。とはいえ、このままこの場所に留まっているつもりもない。

美羽には一つ、考えがあった。

辺りを窺いながら歩き出す。多分、グラファイトも美羽と同じことを考えて、すでに実行しているだろう。だから、これから美羽がしようとしていることは無駄である可能性が高い。
それは、ラシュ・キートに連絡して『研究所』に繋ぎを取って貰うこと。美羽が生まれた、グラファイトが、ラシュ・キートが生まれたあの場所に。アレスズが動いたのなら、あそこが関わっていないハズがないのだから。美羽やグラファイトが持つ『端末』からは、『研究所』へは繋がらなかった。多分、この街の中は、アレスズによる電波妨害の影響下に置かれている。グラファイトの部屋には、グラファイトが独自に開発した緊急用の無線機がある。それを使えば、今は街の外に出ているラシュ・キートへなら、連絡を取れるかもしれない。

でも。

脳裏を過った可能性に、思わず美羽の足が止まった。



もしも、研究所が、美羽たちを『処分』するのが目的だったとしたら――?



今までそこに思い至らなかったということは、美羽自身、かなり動揺していたのだろう。どうして今更、と思わなくはないが、その可能性は充分にある。

もしも、そうだとしたら。研究所が『敵』ということは、つまり、その後ろにいるのは……。



途方に、暮れて。美羽は行き先を失った子供のように、不安にぎゅっと痛くなる胸を震える手で抑えつけた。もし、そうだとしたら。この騒動が、美羽たちを『処分』するための決定に基づくものだとしたら。



歯向かうことは――許されない。



動けなくなった美羽の耳に、微かな物音が届いた。物音、いや、これは足音、だ。
美羽はゆっくりと姿勢を正した。手の震えは、すでに治まっている。
こちらに向かってくる足音は、明らかに美羽の存在に気付いている。あの地下室から離れていてよかった、と考えてから。美羽はそれ以上の思考を放棄した。

今は、ただ。自分の命を、消さないこと。そして、地下のこどもたちを護ること。

今は、それだけのために、動く。後のことは、今は考えない。でないと――戦えなくなってしまいそうだった、から。











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2013.01.01