細心の注意を払って。なるべく、音を立てないように。ショウはそうっと階段を上った。上からは何も聞こえず、今、何がどうなっているのかを伺うことはできない。少なくとも、先ほどの男や、あるいは戻ってきた美羽やグラファイトが下りてくる気配は欠片もなくて。ショウの中には、安堵やら不安やら心配やらがぐるぐると渦巻いていた。 美羽やグラファイトが戻ってくるならよし、でもさっきの男みたいなのがまた下りてきたら。ショウは、身体を張って止める覚悟でいた。そんなことしたら、今度こそ確実に殺されるだろうという確信と共に。 けれど、どうしてか。ショウは不思議と、自分が死なないということを絶対の事実として受け止めていた。根拠も何もない、ショウ自身にも説明のつかない――自分でももしかしたらはっきりとはわかっていない、その感覚。 いっそ不自然なほどのその確信に、ショウは何故だか、違和感を覚えることもなく、ごく当たり前のこととして受け止めていた。 それが、ショウにとっての真実、だったから。 結局、幸か不幸か誰とも遭遇しないまま、ショウはドアまで辿りついた。外から何の気配も音もしないのを確認して。壊れたように薄く開いているドアのノブを、少しだけ、引いた。 引いた、はずだった。なのに、ドアはびくとも動かず。 美羽が外から鍵でも掛けていったのかとも思ったが、どうみても鍵は壊れていて。仕方なく。僅かに開いた隙間から、ショウは向こう側を、覗いた。 そこに広がっていたのは――一面の氷、だった。 理解できない状況を前にまずは自分の眼を疑って。けれど、触ると冷たいソレは、どこをどう見ても氷だった。つまりショウは……いや、ショウたちは今、氷の壁に閉じ込められているということになる。現実を事実と認識したショウの脳裏に、ついさっきの光景が蘇る。 さっき、美羽は吹雪で敵を吹き飛ばした。吹雪は雪――氷、だ。とすると、この氷壁を作ったのは、美羽? そう考えていたショウの耳を、突然、氷越しに鋭い音が打った。おそらく、そんなに遠くない場所。鋭いようで、鈍いような、聴いたことのない――聴いたことのないはずの、音。 「っと、美羽の奴、また派手にやりやがったなあ」 続いて、もっと近くから聞こえてきた緊張感のカケラも感じられない声は。この二ヶ月で、すっかり聴き慣れてしまったものだった。 「グラファイト!?」 勢いに任せて、ショウは掌でドアを叩いた。冷たい壁は思ったより固く、掌がひりひり痛む。けれど、今はそんなことに構ってはいられない。 「ショウか? おい、なんか微妙だなその隙間。中の方はどうだ? 誰も怪我してないか?」 「今のところは平気だ。一回、下に降りてきた奴がいたけど、美羽が……」 やっつけた。そう言おうとして、ショウは言葉に詰まった。 あの時は、正直そんな余裕全然なくて、それから後もずっとそうで。だから、考えもしなかったけれど。 あの時、美羽は。 あの男を――殺した、のだろうか? 「ああ、美羽が始末してくれたなら大丈夫だな。お前らもその氷壁ありゃ平気だろ。こっちが片付いたら出してやるから、もう少しおとなしくしてろよ?」 呑気にそう言って、グラファイトが背を向ける。その時初めて、グラファイトが背に長い銃を担いでいるのに、ショウは気がついた。 「って、おい、待てよ!」 銃なんて、そんなもの、何に使うんだ。そんなもの持って、あの黒づくめの奴らと――同じ、じゃないか。そんな憤りがショウの体を駆け廻って。ショウは咄嗟に、去って行こうとするグラファイトの背中に声をぶつけていた。グラファイトの背がぴくりと動いて。その歩みが、唐突に止まった。 「どうやら」 グラファイトが、ショウを見る目。さっき地下室でショウを見たのと同じ、暗いような冷たいような、いつもどこかおどけたグラファイトのものとは違う、眼差し。 「待たざるを得ない状況になっちまった。それともお前がそうさせたのか? さっきみたいに」 「は? どういうこと……」 言っている意味がわかず問い詰めようとしたショウを無視するように、切り捨てるように、グラファイトは言った。 「まあいい。ショウ、ドアから離れろ」 グラファイトの台詞は聞こえないふりで、ショウはそのままドアの隙間から周囲を見渡し――息を呑んだ。右から二人、左から三人。黒尽くめの奴が、いつの間にかすぐ側まで来ていた。 「離れろ、って言ってるだろ。ここから先は、あんまり見ていて気持ちいいもんでもない」 目の前を塞ぐ氷みたいにひんやりした笑みで、グラファイトは銃を構えた。その動きを合図にしたように、黒尽くめたちが一斉にグラファイトへと距離を詰める。 「グラファイトっ!」 思わず声をあげた、ショウの目の前で。 一人がナイフで迫るのを銃身で受け止めて、その流れのままに相手の後ろ頭に銃口を近づけ。 ぱぁん。 噴出す赫い血。背後から襲い掛かってきた影を軽く飛んで避け、さらに襲ってくる別の相手のナイフを潜り抜けながら無造作に銃を構えて。 ぱぁん、ぱぁん。 どう、と後ろ向きに倒れる体。今まさに引き金を引こうとされていた拳銃が、ごとりと音を立てる。一人は弾を避けて残った二人と一緒に、一気にグラファイトに襲い掛かった。 「っ、危ねえ!」 ショウが叫んだ、その瞬間。黒尽くめたちの動きが、不自然に止まった。三人が三人とも、無理矢理押さえつけられているような、ぎしぎしとした感じで、それでも必死に動こうとしているような表情なのに。グラファイトに襲い掛かろうとしたその恰好のまま、動けずに。 ぱさり。微かな音にグラファイトの方を見る。背に漆黒の翅を翻らせたグラファイトが、銃を構えるでもない自然な姿勢で、わずかに宙に浮かんでいた。 『翅』と『羽根』の合いの子。混血四種の一つ、漆黒の蝶の翅のカタチをした『黒の翅』。右翅の右上には、赫い色をした、紋様。どこかで見たことのある形の……。 何気ない様子で――本当に、自然といってもいいくらいに、グラファイトが銃を構えた。 ぱぁん、 ぱぁん、 ぱぁん。 額に一発ずつ、それでおしまい。残ったのは、いくつかの死体と、たくさんの赫と。なんの表情もない、グラファイト。
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